新古典派の経済思想 続き

『経済学原理』
マーシャル:1842-1924。 ケンブリッジ大学を卒業し、また同校の経済学の教授となる。 ジェヴォンズが古典派との断続を強調したのに対して、 マーシャルはむしろ連続性を重んじ、また歴史学派からも多くのものを取り入れている。貧民街を訪れ、ヴィクトリア朝の繁栄の裏側にある貧困の実態を見たことが、 経済学の研究に従事するきっかけであったという。 マーシャルはケンブリッジ大学においてピグーやケインズなど多くの有能な弟子を 育てた。
マーシャル『経済学原理』を著したのは、ジェヴォンズらの限界革命からおよそ20年後の1890年であった。 それは、経済学の方法論から応用までを含んだ体系的な書物で、 世界中で用いられた標準的な教科書の地位を占めることとなった。 今日のミクロ経済学の教科書の原型でもある。

とはいえ、マーシャルの経済学は多くの点で、今日のミクロ経済学とは異なっている。 今日の主流の経済学は価値判断から離れた科学であろうとする。 しかし、『経済学原理』には、貧困をいかに解決できかという問題関心が貫かれている。 少なくとも、マーシャルにとっての経済学は、「資源配分の科学」などではなかった。 『原理』は次の文章ではじまる。

「政治経済学または経済学は人生の日常の実務における人間の研究であり、 人間の個人的、社会的行為のうちで、福祉(wellbeing)の物的条件の獲得と利用に もっとも密接に結びついた部分を考察の対象とする。 それゆえ、経済学は一面においては富の研究であると同時に、他面において、 またより重要な側面として、人間研究の一部である。」 (『経済学原理』第1巻,2頁)

『経済学原理』の篇別構成の内容

第1篇 方法論
第2篇 基本概念
第3篇 需要論
第4篇 生産論
第5篇 部分均衡論
第6篇 分配論

均衡理論
■需要分析
マーシャルは、まず商品と効用との関係を問題にし、次に効用を貨幣で表現するという ステップをふむ。 前者については、個々の商品に対する人間の欲求には限界があるために、 商品の保有量が増大するにつれて効用は低減していく。 ここまではジェヴォンズと同様である。 効用の大きさは、その商品を購入するのに支払おうとする貨幣で表現できると マーシャルは考える。 ここでは貨幣については限界効用が不変であることが前提されている。 「貨幣すなわち一般購買力の限界効用の変化に対して全く考慮を払っていない....。 同一の時点においてはある人の物的な資力は不変であるために、 彼にとって貨幣の限界効用は一定の大きさである」(『原理』第1巻,138頁)とマーシャルは言う。 こうして右下がりの需要曲線が導出される。

ミクロ経済学の教科書をひもとけば分かるように、需要曲線は右下がりとは限らない。 マーシャルもギッフェン財の存在を知っていた。 しかし、それを分析する意図はなかった。 『経済学原理』の中では右下がりの需要曲線は、分析の対象ではなく、 議論の出発点であったと言ってもよいかもしれない。 しかし、そうなると貨幣の限界効用を一定と仮定して、効用と需要曲線とを結びつける 議論は不必要であったということになるであろう。 だが、マーシャルは価格の分析だけで満足していたわけではない。 その先に、人間の活動や嗜好の変化といった問題、あるいは厚生経済学へと連なる 問題意識があった。 だから次のように述べている。 「われわれの研究の当面の段階で可能な需要の議論は、ほとんど純粋に形式的な種類の 入門的な分析に限定されざるを得ない。消費のより高度な研究は経済分析の本体の後に 来るべきであって、その先に来るべきではない。 その出発点は経済学の固有の領域内に存在するけれども、 その結末はその領域内に見出すことはできない。」(『原理』第1巻,131頁)

需要については、「需要の弾力性」や「消費者余剰」などを詳しく検討している。

■部分均衡
マーシャルは需要曲線と供給曲線との交点として均衡価格を考えようとする。 したがって、ジェヴォンズのような2商品の交換という想定は、 マーシャルの目にはきわめて不十分なものに映ったにちがいない。 需要と供給については有名な鋏の比喩を用いて、両者が価値を決めることを強調した。

「価値は生産費によって支配されるか効用によって支配されるかを問うことは、 紙を切るのが鋏の上刃であるか下刃であるかを問うのと同じ程度の合理性を持たない といってよいかもしれない。 一方の刃を固定しておいて、他方の刃だけを動かして紙を切った時には、 紙を切ったのは動かした方の刃であると、 不注意な簡略法としては言ってよいかもしれない。 しかし、そのような言い方は厳密には正しくない。 ...一般原則としては、とりあげる期間が短ければ、価値に対する需要側の影響を それだけ重視しなくてはならないし、期間が長ければ、生産費の影響をそれだけ重く 考えなくてはならない、と結論してさしつかえないようである」 (『原理』第3巻、37頁)

マーシャルは市場での需要と供給との均衡を扱うのに、 「部分均衡論」と後に呼ばれる手法を用いた。 それは「他の事情が等しければ (ceteris paribus)」という条件をつけて、 対象を単純化して分析するやり方である。 ある商品の需要と供給は他の多くの市場から影響を受けるし、 逆に他の市場に影響を与えることで相互作用のうちにある。 そこで、この相互作用をとりあえず遮断したものとして、 需要あるいは供給の変化を問題にするやり方が部分均衡分析である。 こうした手法は、ワルラスが体系化した、全ての変数の同時的な均衡を扱う 一般均衡論と比較すれば、より現実に近い均衡のプロセスを扱うものといえよう。

マーシャルは時間を、一時的、短期、長期、超長期の4種類に区分している(3巻、79頁)。 こうした区分は、部分均衡分析の手法と密接に関連している。 なぜならば、ここでの時間は供給側の需要への調整の仕方による理論的区分であり、 変化の要因をどこまで認めるかによる区分となっているからである。

一時的:一日で全てを売り切る市場での均衡。 垂直の供給曲線と需要曲線との交点が均衡価格となる。 このときは生産費は価格に影響を与えない。

短期:供給の調整においては、機械や土地などが生産量に応じて変化しないものとして、 原材料や労働時間の調整によって生産量を変化させる場合である。 このとき収穫逓減が作用するために、供給曲線は右上がりとなる。

長期:機械などをも変化させる時間である。 収穫逓減や一定の場合もあるが、時間が長い場合には収穫逓増であるのが一般的である とマーシャルは考えていた。 つまり、右下がりの供給曲線となる。 その理由をマーシャルは次のように説明している。

「このような費用[限界費用]が需要の増大の結果として直ちに下落するとは予想しない。 逆に、産出量の増大につれて短期の供給価格は増大するものと予想する。 しかし、われわれはまた、需要の漸進的な増大があるときには、上述のような代表的企業の 規模と効率が徐々に増大することを予想し、それが支配できる内部および外部の双方の 経済が増大することを予想する。 これらの産業において、長期に関して供給価格表を作成するときには、 われわれは財の産出量の増大に対して減少する供給価格を書き込む...。」(『原理』3巻、194頁)
内部経済とは個々の企業の経営効率によって決まる経済性のことである。 外部経済とは、その産業全体の発展によって生ずる経済性のことである。 例えば、ある産業が特定地域に集中して立地することで、 その産業に必要な熟練労働者の形成を容易にしたり、交通手段が発展したりする。 このように、個々の企業では実現できない生産費の引き下げが外部経済である。

超長期:知識や人口の発展や、需要と供給との世代から世代への変化を生み出す期間である。 とはいえ、超長期については分配の歴史的変化として語られているが、 市場均衡についての説明はない。

有機的成長論
マーシャルの経済学は、一方では部分均衡論として今日の主流の経済学へと 継承されていった。 しかし、他方では、その枠からはみ出る側面を数多く持っている。 マーシャルにとって均衡へ向かう経済の分析は、経済学の出発点にすぎなかった。 経済社会はシステム全体が内的かつ自律的に、生物の進化のように発展すると見ていた。 それゆえ、古典力学ではなく、「経済生物学」こそが経済学者の求めるべきものと述べている。

「〔最初は経済学者ら生物学者が恩恵を受けたが〕 ...今度は経済学者の方が、一方においては社会組織とくに産業組織と、他方においては 高級な動物の身体の組織の間に発見された、多数の深い類似性によって、 多くの恩恵を受けるようになっている。 ...その統一性とは社会的有機体であると自然的有機体であるとを問わず、 その発展においては、一方において個々の部分の間における 機能の分割の増大と、他方においては個々の部分の間の緊密な結合が進行するという、 一般原則にほかならない。」(『原理』2巻、158頁)
こうした発想は、例えば「産業組織」の重視にも見出すことができる。 通常、生産要素は労働、土地、資本であるが、マーシャルはそれに「組織 organization」 を加えている。 この組織のレベルは様々であり、一企業という組織、同一業種の企業群という組織、 多様な業種間の組織、国家という組織がある(『原理』2巻、2頁)。

労働、土地、資本はそれぞれ国民所得の分配分として、賃金、地代、利潤(利子)を受け取る。 それでは、生産要素である組織はいかなる分配を受け取るのであろうか。 マーシャルは企業組織の分配分を「合成準地代 (複合的な準地代) composite quasi-rent」と呼ぶ。(『原理』4巻,175頁) この合成準地代が誰の所得になるのかを決定するのは、企業と被雇用者との間にある 事実上の損益分配制であるとする。 すなわち、「雇主と被雇用者の間に分配する確定的な分け前を決定するものは、 交渉を除いてはありえない」(『原理』4巻, 177頁)のである。 このように、マーシャルは労働の需給によって決定される賃金という議論だけではなく、こうして交渉による切り上げの余地を合成準地代として説明したのである。

この議論は労働者の状態改善への展望と結びついている。 そこで重要となるのが、「生活水準」という概念である。

「生活水準の上昇という言葉は、ここでは欲望に対して調整される活動の水準を 意味するものとする。 したがって、生活水準の上昇は、支出において注意と判断の増大に導き、 食欲を満たすだけで、体力を強化することに役立つことのない飲食と、 肉体的ないしは道徳的に不健康な生活の様式を避けるように導く、 知性と精力と自尊の念の増大を意味するものとする。 任意の職種ないし等級にとっての生活水準の上昇は、彼らの能率を高め、 それゆえ彼ら自身の実質賃金を上昇させるであろう」(『原理』4巻,268頁)
生活水準の向上は、物的な消費の増大と密接に関連しているとはいえ、 それと同一のものではない。 労働の質を高めることで、生産性を高め、実質賃金の上昇を生み出すのが 生活水準の上昇なのである。 マーシャルは生産性の上昇が生み出した国民所得の増大を、 適切に分配する役割を労働組合に期待した。 そしてそれは、それなりに機能していると評価していた。 「国民分配分の現在の分配は確かに不良であるが、 一般に考えられているほど不良ではないことも考慮しなければならない。」 (『原理』4巻,303頁) マーシャルが展望していたのは、労働者階級全体の生活水準の上昇とそれにともなう 生産の増大ならびに実質賃金の増大の好循環である。 社会は漸進的に変化していくと考えているマーシャルは、 社会主義者が主張する産業の国有化を否定した。
「すでに作用しつつある社会的ならびに経済的諸力は、富の分配を望ましい方向に 変えつつあること、そのような諸力は持続的であり、その力は増大しつつあり、 またそれらの影響の大半は累積的であること、 社会経済的な有機体は一見して思われるよりも微妙かつ複雑であって、 大規模な誤った構想に導かれた変化は重大な災厄をもたらすかもしれないこと、 またとくに政府が生産のあらゆる手段を収用し、所有することは、 比較的責任感の強い集産主義者が提案しているように、漸進的に実行に移す場合にも、 一見して考えられる以上に、社会的繁栄の根本を深く切断するかもしれないことを 示唆するものである」(『原理』4巻,301頁)
有機的成長についてマーシャルがまとまった説明をしているわけではない。 ここではライスマンらの解釈に従っておく。