名誉革命

まず、名誉革命について高校の世界史教科書(柴田三千雄他『新世界史』山川出版)から抜粋しておこう。

「チャールズ2世は議会の期待に反して絶対王政の再建を考え、さらにカトリックの復活をはかったため、議会は審査法(1673:Test Act)を可決して公職就任を国教徒に限り、人身保護法(1679:Habeas Corpus Act)によって不当な逮捕・投獄をしないことを定めた。当時、議会は国王大権と国教会を重んずるトーリー党と、議会の権利に力点をおくホィッグ党に分かれていたが、チャールズ2世やそのつぎのジェームズ2世(位1685-88)の態度は改まらなかったので、両派は協力して1688年、王の長女で新教徒のメアリとその夫のオランダ総督ウィレムをまねいた。ウィレムが軍隊をひきいて上陸すると、ジェームズ2世はフランスへ亡命し、無血の名誉革命(1688-89)が達成された。翌1689年、ウィレム夫妻は議会の提出した権利の宣言(Declaration of Rights)を承認してともに王位につき(ウィリアム3世・メアリ2世)、この宣言を権利の章典(Bill of Rights)として制定した。これは市民的自由を保障し、王権の専制を予防した文書である。

ピューリタン革命と名誉革命によってイギリスの絶対主義は消滅し、議会の権利や市民的自由の原則が承認された。また、これらの革命によって生産を拘束する封建的な諸制度が廃止され、ピューリタン革命中の航海法によって海外貿易も有利となり、資本主義の順調な発展の道が開けた。これらのため、この二つの革命はのちのアメリカ独立やフランス革命などととならんで市民革命(ブルジョア革命)とよばれている。(1)


(1)資本主義の発展のための有利な制度改革が行われた点では市民革命だが、革命の主要勢力がジェントリで、商工業ブルジョアでないため、市民革命とみなさない考えもある。

名誉革命の要点はここに記されているとおりである。しかし、政党の説明の仕方などに現代的な誤解を与えかねないところもあるので、やや古い文献であるが、中村英勝『イギリス議会政治の発達』(至文堂)から補っておく。チャールズ2世の統治下で「王位継承排除法案」に賛成するグループと反対するグループがそれぞれ、ウィッグとトーリーと呼ばれるようになる。しかし、この2大「政党」は現代のような明確な組織をもっていたわけではない。

「トーリー党の信奉する政治理論からすれば、彼らは名誉革命の際、正統の国王であるジェイムズ2世の廃位に反対するはずであったが、実際に反対したのはクラレンドン伯らのハイド派だけであった。...名誉革命の際に積極的に活動したのは、王位継承排除法案の際のホイッグ党を形成した諸グループの中の一部に過ぎなかった。ジェイムズ2世を逃亡させるのに実際に力を持っていたのは、トーリー党内の諸派であったが、革命の善後処理においてトーリー党は分裂し、ホィッグが主導権を握った。結局、ホイッグ党の、議会に王を決定する権利があるという主張が勝利を占め、トーリー党の一部もこれに同調したわけである。

政党は沢山の派閥に分裂していた。ウォルコットの研究によれば、これらの派閥は3つに分けられる。(1)宮廷との結びつき、(2)家族関係による派閥、(3)独立のカントリー・ジェントルマン。(1)は陸海軍の駐屯地や王宮の所在地など政府や宮廷の影響の強い選挙区から選出された38人とそれに同調する約100人の議員からなっている。後者は68人の宮廷ウイッグと33人の宮廷トーリーから成っていた。(2)212人の議員が有力な貴族その他の門閥と親族・友人関係によって結びついていた。その中には、選挙ボスであったホワートン卿とその協力者からなる「ジャントー」と呼ばれる派閥、ニューカースル公を中心としてその親族・姻戚関係にあるペラム家、タウンゼント家、ウォールポール家のグループの16議員や他に、サマセット公やカーライル伯などの宮廷貴族グループやマールバラ公のグループ、ハイド家のグループなどがあった。(3)独立議員は150人近くいて、34人のカントリー・ウイッグと60人のカントリー・トーリー、それに48人の独立の高教会派からなっていた。」(17頁)

したがって、ウイッグとトーリーの二大政党のパターンのみで把握するのは妥当ではなく、宮廷派と地方派(カントリー)という分類が必要になる。大臣の主たる努力は、宮廷ウイッグと宮廷トーリーを糾合して多数派を形成することに向けられていた。このような分析視角は歴史学者ネイミアによって導入されたもので、今日では広く受け入れられている。なお、1750年代になると、宮廷についているか、官職についているものは全て「ウイッグ」となり、それ以外の議員はカントリー・ジェントルマンやラディカルズも含めて「トーリー」と呼ばれるようになる。1760年代になると与党が野党から「トーリー」と呼ばれるようになり、名称と現実が食い違うようになる。

さて、「議会主権」の確立も今日的な民主主義とは同一ではない。同文献から名誉革命後の議会のあり方を補足しておく。なお、引用は一部省略してある。

「権利章典により、国王の法律停止権や法律適用免除権が違法とされたため、議会の立法権が完全に確保された。また議会の承諾なくして金銭を徴収することも明確に違法と規定され、議会の課税同意権が究極的に確立された。議員選挙の自由、議会内における言論の自由も確保された。議会の同意なくして平時に常備軍を徴収し維持することも違法となった。同じ年に制定された「軍罰法」により軍隊の規模が定められたが、この法律は1年限りのものであったため、毎年の予算案を成立させるためにも、毎年議会を開くことが必要となった。

ピューリタン革命前よりとなえられてきた「議会主権」の主張はここに実を結んだのである。しかし、この「議会主権」の主張は「人民主権」論とは全く異質的なものであった。人民主権論の根底には自然法思想があったが、権利章典になると再び「古来の権利と自由」という伝統的観念が主張の根拠となっている。しかし、コモン・ローにもとづいていたこの伝統的観念は、名誉革命後になると議会制定法の支配となる。かくて、「議会主権」と「法の支配」がみごとに結合されたのである。」(11-12頁)

それでは議員の出身構成を同文献によって補っておこう(一部要約)。

「1701年の庶民院には513人の議員がいたが、その約70パーセント、350人は地主であった。もっともその中80人は、地主であると同時に、陸海軍、宮廷、官庁などに勤務し、鉱山を経営したり、商業に従事したりしていた。議員の中純然たる商人とみなすべきものは43人で、その中15人は東インド貿易、11人は西インドおよびアメリカ貿易に従事していた。その外銀行化が12人で、醸造業者が5人、造船業者、鉄器商、製塩業者などそれぞれ1人であった。彼らは利潤を土地に投資してジェントリの仲間入りをするいこともできた。かくてこの時代の庶民院が、ブルジョア化しつつあった地主と、地主化しつつあったブルジョアから成っていたことが判る。その外48人の陸海軍将校がおり、宮廷や官庁の役人が113人もいた。その大部分は収入目当ての閑職についていた人々で、重要な役目についていたのは20数名に過ぎなかった。」(13頁)