重商主義の経済思想

はじめに
15世紀末のコロンブスによって大航海時代が本格化する。 経済的に大きな影響があったのは、南米のポトシ銀山などから採掘された銀であった。 16世紀中から17世紀中にかけての約1世紀の間に、それまでヨーロッパに存在していた 3倍の量の銀が流入したと推計されている。 これにより、物価革命と呼ばれる長期的な物価騰貴をヨーロッパは経験する。 銀の流入は利子率を低下させ、それが経済活動を刺激することになった。 ここから貨幣や利子率への関心が生まれていく。

新大陸との貿易の中心は16世紀まではスペインであった。 しかし、17世紀はじめの南米の銀産出量が激減したことも あって、スペインは次第に衰退した。 スペインにかわって勃興したのが、スペインからの独立戦争に勝利したオランダであった。 1602年にオランダは東インド会社を設立して、東南アジアの香辛料製造地帯を手中に収める ことに成功した。 イギリスも1600年に東インド会社を設立して、東南アジアからインドへの進出をはかっていく。 こうして、ヨーロッパは世界への進出を競って行くことになる。 ヨーロッパの覇権争いは、主力輸出品である毛織物産業を成長させることになった。 ここから製造業をどのように育成すべきかという関心が生まれていく。

イギリスに焦点を絞るならば、 百年戦争やばら戦争で疲弊した封建領主の地位が15世紀に低下していく、 その結果、相対的に国王の権力を強化させることになった。 また、毛織物産業の展開による羊毛需要の増大によって、 15世紀後半になると「囲い込み」が始まる。 その結果、産業資本に雇用される労働者が生まれた。 国王は、経済的には商人資本と結びつき、軍事的には常備軍を保有し、 いわゆる絶対王政を確立することで、スペイン、オランダ、フランスなどと 重商主義戦争を遂行していくことになる。

二つの重商主義
この時期の経済思想は重商主義と総称されるが、それは一般に15世紀末から 18世紀半ばにかけての長期間を括る経済思想の呼称である。 時期が長いこともあって重商主義の中身は実に多様であり、論者によってウェイトの置き方が 異なる。 テキストにあるように、一括りにすするのは「かなり乱暴なことである」が、 政策志向が強いというかぎりでは、だいたい共通している。 より正確に言えば、政策論争の文献の中に、経済理論が断片的に埋め込まれている という感じである。 こうした発想の背景には、何らかの仕方で国家(政府)が規制・保護・管理しないと、 経済はうまく動かないであろう、という認識があった。

重商主義の初期の論者は、価格革命をはじめとした貨幣現象に注目し、 物価上昇の原因などを探った。 他方、後期の論者は、貿易体制を支える輸出産業の育成などに目を向けることになる。

わが国では、イギリス重商主義について、 名誉革命(1688)を境にした「前期重商主義」と「後期重商主義」という区分が行われてきた。 前期と後期の経済思想の内容だけ見れば、この境目は必ずしもはっきりしたものではないし、これほど単純に整理できるものではない。 しかし、内実が多様な重商主義を概観するのに便利なので紹介しておく。

前期重商主義後期重商主義
「固有の重商主義」
権力基盤絶対主義的重商主義議会主義的重商主義
経済基盤商人資本初期産業資本
主張取引差額・貿易差額産業資本の保護
学者マンロック、デフォー
時代背景特権的独占による商人資本と王権の結合商人資本の抑制とマニュファクチュアの保護

わが国では大塚史学という経済史の影響で、後期重商主義を本来的な重商主義とする 見方が強く、それに「固有の重商主義」(小林昇)という名称が与えられ、その役割が強調されてきた。しかし、後期重商主義の主張はパンフレットなどに散在しており、あまり体系的な議論とはなっていないように思われる。

トマス・マン

トマス・マン:1571-1641。 初期重商主義の代表者。 絹織物商の息子で、1615年から東インド会社の重役として終生活躍。 『東インド貿易論』(1621)や『外国貿易におけるイングランドの財宝』(1664:没後公刊) などで東インド会社の活動を弁護した。 以下、引用ページ数は『イングランドの財宝』(東大出版会)による。
■外国為替論争
当時の東インド会社にはマリーンズ(生没年不詳)などから批判がよせられていた。マリーンズは、東インド会社が国内の金銀を流出させ、それがイギリス国内の不況の原因であると考えていた。

マリーンズは金銀が流出する原因の一つがイギリスの為替レートの過小評価であると考えていた。 つまり、為替レートが低いために、輸入財が実際よりも高価に、輸出財が実際よりも安価になっていると考えたのである。その結果、貿易赤字になっているとした。 だから、マリーンズは為替レートを高くすれば、金銀の流出が止まると考えた。 イギリスの真の通貨の価値は、商人たちに金銀の含有量を知らしめれば、適正な為替レートになるというのがマリーンズの対策であった。

もし、価格の変動に対して輸出や輸入の量が不変であれば(厳密に言えば、輸出入の価格弾力性が低ければ)、マリーンズの主張は正しい。しかし、価格の上昇に対して輸出入の財の量の変動が大きければ、マリーンズの主張は成り立たないことになる。

マリーンズの考えは、通貨の価値をコントロールすれば経済をコントロールできるというものである。そして通貨の価値は国王の命令で金銀の含有量を変えることでコントロールできるというものであった。

これに対してマンは、外国為替が貿易差額を決定するのではなく、財に対する国際市場での需要と供給が貿易差額を決定すると反論した。すなわち、財に対する需要が為替を決定するという議論ということになる。こうした認識は、国家主権を超越した経済法則の存在をマンが想定していたことを意味する。

当時の国際金融の中心はオランダのアムステルダムであった。 オランダの金融業者たちは豊富な資金を利用しながら為替相場を操作し、 金銀平価と市場価格との乖離などを利用しながら、投機的な利ザヤを稼いでいた 〔イギリスから鋳貨や地金をオランダに搬入→オランダ鋳貨と交換→ イギリス外国為替の購入→イギリスで為替を鋳貨幣に交換〕。 したがって、為替相場は貿易の実需を必ずしも反映しておらず、 マリーンズの主張したように、為替が原因で金銀が流出しているという事態が 現実には発生していた。こうした事態をマリーンズはよく知っていたようである。
■東インド会社批判
金銀の流出については、東インド会社に原因があるとする主張もあった。 彼らは東インド会社の金銀輸出を禁止すべきと主張した。
  1. 対東インド貿易の赤字(香料等の奢侈品輸入>イギリスの毛織物輸出)
  2. 仲介貿易で得た金銀を仲介貿易に投入→国内の産業資本への金銀不足
    とりわけ16世紀後半から深刻な金銀の流出が深刻
    →金銀輸出禁止という重金主義の主張・イングランド銀行設立
  3. 奢侈品の輸入が不生産的消費を刺激する→国内産業の成長抑制

こうした批判に対して、マンは東インド会社を擁護していくことになる。

■マンの商業観
当時の商人は低い評価を受けていた。 「貴い天職に見合うほどに、しかも、その重要さに相応するほどの受けるべき評価を 受けていない」(15頁)。 しかし、国にとって貿易商人は必要不可欠な存在であるとマンは述べる。 「貿易商人は実に王国の富の管理者と呼ばれていて、他の国民と通商を営むものだ。 それは、責任のみならず栄誉もともなう職務であるから、 すぐれた手腕と誠意とをもって遂行し、 私の利益が公の福祉に従うようにせねばならない。」(11頁)

「〔ベニスやオランダにおいては〕商人の能力が、政治がたいへん立派に行われている ということにも、現れていることは否定しえない。 ....だから、商人の助言や判断を封じてしまい、したがって、ある国の貧富を 左右する方法や手段を、彼らがとれぬようにするものがあるとすれば、 それは軽率もはなはだしい行為である。 一国の貧富が、実に、もっぱら彼ら商人の貿易取引という職業によって影響される のだといことは、以下にはっきり示されるだろう。」(15頁)
■富の源泉としての全般的貿易差額
マンは貿易差額を増大させることが国の富を増やす方法であるとする。
「わが富および財宝を増加させる普通の方法は外国貿易である。われわれ は年々外国のものを消費するよりも、多額のものを外国に売るという規則 を守らなければならない。」(17頁)
マンが問題にする貿易差額は「個別的差額」ではなく、「全般的差額」である。 ここにマンの議論の中心がある。 すなわち東インド会社に向けられてきた批判は、個別的差額に着目したものであって、 全般的差額を理解していない間違った批判ということになる。
「わが貿易差額には、全般的なものと個別的なものとがあることを理解しなければならない。 全般的差額とはわが国の年々の貿易がすべて一括して算定される場合であり、 私が先に明らかにしたものである。」(72頁)
つまり、東インド会社(輸入>輸出→赤字)の貿易だけをみて、 取引の是非を論ずるべきではなく、輸入品を再輸出することによる輸出額も 含めて一国にとっての利益を判断せよ。これがマンの主張である。

配布したプリントの図では、イギリスと東インドの貿易が赤字を計上していた個別的差額 ということになる。 見て分かるように、輸入品はヨーロッパ大陸へ再輸出されることで、 貿易全体では黒字を生み出している。

「最初は一層多くの外国商品の輸入を可能にし、それによってわが国の 貿易を拡張する。そしてそれを再輸出すればわが国の財宝は少なからず増加する」(33頁)

「われわれ人間の行動が総体的に慎重に考慮されねばならないのと同様 に、この重要な業務〔東インド貿易〕の結末をみて正しく考察されるな らば、多くの人々が考えていること〔個別的差額主義〕の反対が正しいことが分かる。 人々は、この仕事の端緒だけしか吟味しようとしないので、その判断を誤り錯誤に 陥るのである。 すなわち、もし、農夫の行動を種まき時に大地の中へ良穀をどんどんまき捨てるさまでしか 見ないならば、われわれは彼を農夫と見ずに、むしろ狂人だと思うであろう。」(40頁)

マンの主張は後にノースといった経済学者たちに継承されていく。 彼らも特許を得た貿易商(貿易会社)による交易の自由を主張したので、 「トーリー・フリー・トレーダー」と呼ばれる。 確かに、特権会社の自由な貿易を主張した点ではフリー・トレーダーであるが、 貿易への自由な参入を規制している点では、自由な経済活動を擁護したわけではない。

■信用貨幣と貨幣数量説
重商主義、特に初期のそれは、貨幣を国富と見て、国内における貨幣を増大させるのが 政策目標であると言われてきた。 しかし、マンは国内の金銀の増大を追求していない (この点についてはアダム・スミスがマンを正しく評価している)

「イタリアなどの国では、貨幣不足に対して対策をもっているので、 貨幣不足のために商業が衰えたり妨げられたりすることはない。 すなわち、彼らは債務証書の譲渡を行い、また公私立の銀行を設けて、 日々非常に多大の金銀について、記帳のみによって甲から乙へと 容易にかつ意のままに信用の振替を行っている。 他方、それらの信用の基礎を成す大量の金銀は、その間に商品として外国貿易に 使用されている。」(36頁)
かくして、貨幣の不足が国内産業を停滞させる必然性はないとした。 さらに、注目すべきことに、貨幣数量説の認識をはっきりと示している。
「すなわち、貨幣が多ければ商品はいっそう高価になり、同様に、商品が高価になれば その使用と消費とが減少する。 このことは大土地所有者にとってはなかなか理解しにくい教訓であろうが、 しかし、一国全体としては守るべき真の教訓であると私は確信している。 われわれが貿易によって貨幣を何ほどか貯えたとしても、その貨幣でもって 貿易を行わないため、ふたたび失ってしまってはおおごとだからである。」(37頁)
この「使用と消費」は外国の需要である。28頁参照。

マンの主張は直ちに政策として実行されたわけではない。 東インド会社による金銀輸出には、そのたびごとに特許状が必要とされ、 制限が課せられていた。 1663年にようやく、金銀の輸出制限が廃止される。 その背景に、金匠手形の発達などの信用取引の増大があったことを指摘する 見解もある。まさにマンの指摘どおりである。