新古典派経済学 その3

マーシャルの時代

マーシャル:1842-1924。 ケンブリッジ大学を卒業し、また同校の経済学の教授となる。 ジェヴォンズが古典派との断続を強調したのに対して、 マーシャルはむしろ連続性を重んじ、また歴史学派からも多くのものを取り入れている。貧民街を訪れ、ヴィクトリア朝の繁栄の裏側にある貧困の実態を見たことが、 経済学の研究に従事するきっかけであったという。 マーシャルはケンブリッジ大学においてピグーやケインズなど多くの有能な弟子を 育てた。 引用は全て『経済学原理』(長澤訳を参考にしたがかなり改訳してある)、ページ付けは原書8版による(現行Macmillan版には巻末に8版のページ付け対象表が掲載されている)。

■大規模生産の時代
イギリスは19世紀後半から長期的な物価の下落を経験していた。マーシャルはそこに「収穫逓増の法則」が作用していると考えた。その要因として産業の集積が生み出す輸送費用の逓減などをあげている。こうした収穫逓増の想定は、リカードウ以来標準的と見なされてきた収穫逓減の法則を覆すものであった。今日のミクロ経済学の教科書に従えば、収穫逓増を前提すると理論的には寡占や独占といった不完全競争に到ることになる。しかし、マーシャルは競争が存続し続けると考えていた。経済史の観点から言えば、この時代のイギリスは、株式会社が普及し、自由競争の時代から独占の時代へと移りかわりつつあったが、マーシャルは独占という現実を理論の中心に置くことはなかった。

■「冷静な頭脳と温かい心」
後発資本主義国であったドイツやアメリカに追いつかれつつあったとはいえ、広大な植民地を抱えていたイギリスは経済的な覇権を握りつづけていた。しかし、繁栄の裏側には、スラム街に生活する貧しい労働者が数多くいた。貧困の解決はマーシャルにとって重要な課題であった。マーシャルはケンブリッジ大学の教授就任演説の中で、経済学を志す者は「冷静な頭脳と温かい心 cool head but warm heart」が必要であると主張した。今日の主流の経済学は、価値判断を免れた「資源配分の科学」であると明言している。しかし、マーシャルにとって、貧困をいかに解決できるかという価値判断を含む問題は経済学の中心におかれるべき課題であった。を避けることが関心が貫かれている。少なくとも、マーシャルにとっての経済学は、などにとどまるべきものではなかった。経済学者になるためには「温かい心と冷静な頭脳が必要である」という有名なセリフを残したマーシャルは、繁栄するビクトリア朝の裏面から目をそらすことはなく、経済の担い手である企業者や資本家たちに社会的責任を果たすべく「経済騎士道」を要求したのである。

■進化論の影響
1859年に刊行されたダーウィン『種の起源』は様々な思想領域に多大な影響を与えた。マーシャルも例外ではない。「力学」をモデルにしてきた経済学は、さらに「生物学」をもモデルにしなければならないとマーシャルは主張した。「組織(=organization 有機体)」と「動態」がマーシャルのキーワードでもある。生物体に見られる、機能の分化と同時に、機能ごとの緊密な相互関連にもとづく総合を社会組織の中にも見い出そうというのである。マーシャルは生産要素の一つとして「組織」を組み入れることになる。「力学」モデルの到達点が「均衡」であるとするならば、「生物学」モデルの到達点が生物同様に成長・発展を遂げる「動態」の解明にある。

『経済学原理』の性格

ジェボンズが「限界」概念という新しいアイディアを見出したのに対して、マーシャルはそれを用いて体系へと組み上げるのに尽力した。マーシャルが『経済学原理』を著したのは、ジェヴォンズらの限界革命からおよそ20年後の1890年であった。『経済学原理』は経済学の方法論から応用までを含んだ体系的な書物で、長い間、世界中で用いられる標準的な教科書となった。そこで登場した多くの概念がそのまま今日まで使われており、今日のミクロ経済学教科書の原型を含んでいる。しかし、すでに示唆してきたように、今日の標準的な理論からはみ出る多くの論点をも含んでいる。

マーシャルにとって経済学の対象は、富にとどまらず人間までも含むものであった。また、対象とした人間も、新古典派が想定したような自己の利益だけを追求する「経済人 homo economics」ではなく、より現実に近い倫理的な人間である。

「政治経済学または経済学は人生の日常の実務における人間の研究であり、人間の個人的、社会的行為のうちで、福祉(wellbeing)の物的条件の獲得と利用にもっとも密接に結びついた部分を考察の対象とする。それゆえ、経済学は一面においては富の研究であると同時に、他面においては人間研究というより重要な側面を持っている。」 (p.1)
「倫理的な諸力(foreces)もまた経済学者の考慮すべき諸力の一部である。これまで『経済人』という名称の下に、いかなる倫理的な力の影響をも受けることなく、細心に、精力的に、しかし機械的、利己的に金銭的な利益を追求する人間の行為に関して、抽象的な科学を構想する試みが行われたことがあるのは事実である。しかしそのような試みは成功したことがなく、また徹底的に遂行されたこともなかった。なぜならそうした試みも、人間を完全に利己的な存在として扱わなかったからである。人間は自らの家族のために生活の糧を準備するという非利己的な願望に動かされている場合ほど、苦役と犠牲によりよく耐えうる事態は存在しないし、人間の正常な動機の中には家族に対する愛情が含まれていることが暗黙の前提になっていたからである。...それゆえ本書ではある産業集団に属する人がある状態に置かれた場合に期待される行為を正常な行為と考え、そこから生ずる行為が規則的である動機については、単にそれが利他的であるという理由で、その影響を排除する試みを一切していない。」(p.v)
このように『原理』は出発点からして、その後の新古典派とは異なっている。『原理』の特徴は篇別構成の中にもよく表れている。

■『経済学原理』の篇別構成の内容

第1篇 方法論
第2篇 基本概念
第3篇 需要論
第4篇 生産論
第5篇 部分均衡論
第6篇 国民所得分配論

第2から5篇までは道具立ての相違はあるものの、その多くは今日の標準的なミクロ経済学の教科書が対象としているものと重なっている(均衡の持つ意味は大きな相違がある)。これ対して『原理』第6篇「分配論」ではマーシャル独自の議論が展開されている。

第6篇の第一特徴は対象設定の仕方である。第5篇までは生産や消費、交換の一般的な状態は不変と想定されており、マーシャル自身が「仮説的休眠状態」と呼んでいた。ところが、第6編では「生物学的類推」の比重が高まり、より一層、現実的な市場に近づいている。第二の特徴は「国民所得」への着目である。マーシャルの考える「国民所得」は消費財の形態にある商品の総額であり、今日の国民所得の把握の仕方とほぼ同じと言えよう。しかし、ケインズが雇用の観点から国民所得の大きさを問題にするまで、新古典派経済学の中で「国民所得」は軽視されていく。したがって、マクロ経済学への橋渡しの位置にマーシャルがいたということも可能である。しかし、国民所得の分配へのマーシャルの関心は主に古典派経済学の問題関心を継承するものと見たほうがよい。第6篇の最終章には「進歩と生活水準の上昇」というタイトルが付されており、労働者の生活水準の上昇を伴う、経済成長の可能性が探られている。こうした発想がスミスやリカードウにもあったことはあらためて述べるまでもないだろう。

均衡理論
■需要分析
マーシャルは、まず商品と効用との関係を問題にし、次に効用を貨幣で表現するという ステップをふむ。 前者については、個々の商品に対する人間の欲求には限界があるために、 商品の保有量が増大するにつれて効用は逓減していく。 ここまではジェヴォンズと同様である。 効用の大きさは、その商品を購入するのに支払おうとする貨幣で表現できると マーシャルは考える。 ここでは貨幣については限界効用が不変であることが前提されている。 「貨幣すなわち一般購買力の限界効用の変化に対して全く考慮を払っていない....。 同一の時点においてはある人の物的な資力は不変であるために、 彼にとって貨幣の限界効用は一定の大きさである」(p.95)とマーシャルは言う。 こうして右下がりの需要曲線が導出される。

ミクロ経済学の教科書をひもとけば分かるように、需要曲線は右下がりとは限らない。 マーシャルもギッフェン財の存在を知っていた。 しかし、それを分析する意図はなかった。 『経済学原理』の中では右下がりの需要曲線は、分析の対象ではなく、 議論の出発点であったと言ってもよいかもしれない。 しかし、そうなると貨幣の限界効用を一定と仮定して、効用と需要曲線とを結びつける 議論は不必要であったということになるであろう。 だが、マーシャルは価格の分析だけで満足していたわけではない。 その先に、人間の活動や嗜好の変化といった問題、あるいは厚生経済学へと連なる 問題意識があった。 だから次のように述べている。 「われわれの研究の当面の段階で可能な需要の議論は、ほとんど純粋に形式的な種類の 入門的な分析に限定されざるを得ない。消費のより高度な研究は経済分析の本体の後に 来るべきであって、その先に来るべきではない。 その出発点は経済学の固有の領域内に存在するけれども、 その結末はその領域内に見出すことはできない。」(p.90)

需要については、「需要の弾力性」や「消費者余剰」などを詳しく検討している。

■部分均衡
マーシャルは需要曲線と供給曲線との交点として均衡価格を考えようとする。 したがって、ジェヴォンズのような2商品の交換という想定は、 マーシャルの目にはきわめて不十分なものに映ったにちがいない。 需要と供給については有名な鋏の比喩を用いて、両者が価値を決めることを強調した。

「価値が生産費によって支配されるか効用によって支配されるかを問うことは、紙を切るのが鋏の上刃であるか下刃であるのかを問うのと同じ程度の合理性しか持たないといってよいかもしれない。不注意な簡略法としてならば、一方の刃を固定しておいて、他方の刃だけを動かして紙を切った時には、紙を切ったのは動かした方の刃であると言ってよいかもしれない。しかし、そのような言い方は厳密には正しくない。....一般原則としては、とりあげる期間が短ければ、価値に対する需要側の影響をそれだけ重視しなくてはならないし、期間が長ければ、生産費の影響をそれだけ重く考えなくてはならない、と結論してさしつかえないようである。」 (p.348)

マーシャルは市場での需要と供給との均衡を扱うのに、 「部分均衡論」と後に呼ばれる手法を用いた。 それは「他の事情が等しければ (ceteris paribus)」という条件をつけて、 対象を単純化して分析するやり方である。 ある商品の需要と供給は他の多くの市場から影響を受けるし、 逆に他の市場に影響を与えることで相互作用のうちにある。 そこで、この相互作用をとりあえず遮断したものとして、 需要あるいは供給の変化を問題にするやり方が部分均衡分析である。 こうした手法は、ワルラスが体系化した、全ての変数の同時的な均衡を扱う 一般均衡論と比較すれば、より現実に近い均衡のプロセスを扱うものといえよう。 現代経済学の大御所サミュエルソンは一般均衡論こそ経済学の完成形態であると考えていた。そのために、マーシャルの経済学を考慮に値しない不完全な経済学であると低く評価した。しかし、ワルラス経済学を知っていたマーシャルは、あえて一般均衡論の方向には進まなかったのである。

均衡の安定性については、今日のミクロ経済学の教科書に「マーシャル的調整」として登場するもの(需給のグラフに垂直線を引いて超過利潤(損失)を解消させるように供給量が変化する)と全く同様に、グラフを用いて説明している。しかし、その主眼は均衡の安定性というよりもむしろ、現実には均衡量と均衡価格がたえず変動することにあった。言い方をかえれば、無時間的に安定へと向かう力学的な均衡ではなく、時間の中で生物学的に成長する経済に関心があったということになる(下記の引用において、前段は現代のミクロ経済学における均衡のイメージである。しかし、マーシャルが言いたいのは、むしろ後段の部分にある)。

「需要と供給が安定均衡状態にある時には、何らかの偶発時によって生産の規模が均衡状態から乖離するとしても、均衡状態に戻す傾向を持つ力がただちに作用するであろう。紐に吊り下げられた石が均衡の常態から移動させられた時には、引力が均衡の位置にただちに戻す傾向があるのと同じであろう。....しかしそのような振動は、現実の生活においては、紐に自由に吊り下げられた石のように、規則的であることはほとんどない。....なぜならば、需要表と供給表は実際には長時間にわたって不変のままにとどまることはなく、絶えず変化しつつあり、それらの変化につれて均衡量と均衡価格が変化し、量と価格がその周囲を振動する中心点が新しい位置に変わるからである。」(p.346)

■均衡の区分
マーシャルは時間を、一時的、短期、長期、超長期の4種類に区分している(p.379)。 こうした区分は、部分均衡分析の手法と密接に関連している。 なぜならば、ここでの時間は供給側の需要への調整の仕方による理論的区分であり、 変化の要因をどこまで認めるかによる区分となっているからである。言い方をかえれば、どの条件を不変と想定するか。これが時間区分の規準となっているのである。

(1)一時的:一日で全てを売り切る市場での均衡。 垂直の供給曲線と需要曲線との交点が均衡価格となる。 このときは生産費は価格に影響を与えない。現在では「超短期」とも呼ばれる。

(2)短期:供給の調整においては、機械や土地などが生産量に応じて変化しないものとして、原材料や労働時間の調整によって生産量を変化させる場合である。このとき収穫逓減が作用するために、供給曲線は右上がりとなる。この均衡は今日のミクロ経済学の議論と同じである。

(3)長期:今日のミクロ経済学では固定設備(機械などの資本設備)を変化させる時間区分として「長期」を考える(よって固定費用は存在しなくなる)。しかし、マーシャルの言う「長期」は資本設備だけではなく、知識の獲得や組織の変化、さらに外部経済の変化をもともなう時間区分である。こうした想定は収穫逓増を一般的と考えるマーシャル特有の経済観と密接につながっている。長期において、収穫逓減や収穫一定の産業も存在するが、時間が長い場合には収穫逓増となるのが一般的な産業であるとマーシャルは考えていた。

長期において収穫逓増となる主要な理由をマーシャルは「内部経済」と「外部経済」が作用することに求めた。内部経済とは個々の企業の経営効率によって決まる経済性のことである。企業の規模が大きくなるにつれて、適正な分業が実現することで効率が高まる。これが内部経済である。これに対して、外部経済とは、その産業全体の発展によって生ずる経済性のことである。例えば、ある産業が特定地域に集中して立地することで、その産業に必要な熟練労働者の形成を容易にしたり、交通手段が発展したりする。このように、個々の企業では実現できないが、ある産業の全体によって可能となる生産費の引き下げが外部経済である。マーシャルが重視したのは外部経済の方であった。しかし、外部経済の作用は1企業だけで生み出せるわけではない、そこで長期を分析するために「代表的企業 (representative firm)」を想定することになる。代表的企業とは長期的に成功を収めた企業で、外部経済と内部経済とをともに活用できる企業のことである。

注意:今日の用語とマーシャルの用語とは意味が若干異なる。今日の「外部経済」は対価なしで獲得できる利益を意味するが、マーシャルの場合は産業全体で生み出せる「経済(=節約)」の意味である。また、今日の「代表的企業」は長期均衡における利潤ゼロの企業という意味で用いるが、マーシャルの場合には必ずしもそうではない。
「生産全体の規模の増大は、個別企業の規模に直接依存することのない経済を当然増大させる。そのうちで最も重要なのは、おそらく同一地方に集中することによって、もしくは蒸気機関による輸送、電信と印刷機によって提供される現代の通信の便宜を利用することによって、相互に助け合う産業の関連分野の成長から生ずるものである。....商品を生産する正常な費用を生産の一定の総量に応じて注意深く分析しなければならない。この目的のためには、その総量に対応する代表的生産者の費用を研究しなければならないであろう。....代表的企業はかなり長い生命を持ち、かなりの成功を収め、正常な才能をもって運営され、生産される財の種類とそれらを販売する条件と一般的な環境を考慮したうえで、生産の当該の合計量に属する外部ならびに内部経済を正常に達成できる企業でなければならない。」(p.317)
「このような費用[限界費用]が需要の増大の結果として直ちに下落するとは予想しない。逆に、産出量の増大につれて短期の供給価格は増大するものと予想する。しかし、われわれはまた、需要の漸進的な増大があるときには、上述のような代表的企業の規模と効率が徐々に増大することを予想し、それが支配できる内部および外部の双方の経済が増大することを予想する。これらの産業において、長期に関して供給価格表を作成するときには、われわれは財の産出量の増大に対して減少する供給価格を書き込む...。」(p.460)
今日の標準的なミクロ経済学では、収穫逓増のケースは独占の中で扱われるケースとして説明される。しかし、マーシャルは競争的市場の中でも、長期では収穫逓増が一般的であると考えていた。
補足: 『原理』の世界では独占は例外的に考察されるにすぎない。しかし、収穫逓増が作用している場合には、所与の価格のもとで企業は生産量をどこまでも増大させようとするはずであるから、論理的には独占が生まれることになる。ここに理論的な矛盾があるとしてマーシャルの没後、「ケンブリッジ費用論争」が闘わされた。その結果、マーシャルの弟子たちは独占や寡占理論を発展させていくことになった。マーシャルもこの問題の存在には気づいていた。しかし、現実には独占は決して一般的ではなく、収穫逓増と競争的市場が並存している状態が一般的であると考えていた。それを説明できる理論をマーシャルは探求していたと考えられる。

(4)超長期:知識や人口の発展や、需要と供給との世代から世代への変化を生み出す期間である。しかし、超長期については分配の歴史的変化を伴う時間区分として語られてはいるものの、市場均衡そのものについての説明はない。

有機的成長論
マーシャルの経済学は、一方では部分均衡論として今日の主流の経済学へと継承されていった。しかし、他方では、その枠からはみ出る側面も数多く持っていた。マーシャルにとって均衡へ向かう経済の分析は、経済学の出発点にすぎなかった。経済社会はシステム全体が自律的に、生物の進化のように発展すると見ていた。これを彼は有機的成長(organic growth)と呼んだ。それゆえ、古典力学ではなく、「経済生物学」こそが経済学者の求めるべきものと述べている。

「〔最初は経済学者(マルサス)から生物学者(ダーウィン)が恩恵を受けたが〕...今度は経済学者の方が、一方においては社会組織とくに産業組織と、他方においては高級な動物の身体の組織の間に発見された、多数の深い類似性によって、多くの恩恵を受けるようになっている。...その統一性とは社会的有機体であると自然的有機体であるとを問わず、その発展においては、一方において個々の部分の間における機能の分割の増大と、他方においては個々の部分の間の緊密な結合が進行するという、一般原則にほかならない。」(p.241)
こうした発想は、例えば「産業組織」の重視にも見出すことができる。通常、生産要素は労働、土地、資本の3種類に分類される。しかし、マーシャルはそれに「組織 organization」を加えている。この組織のレベルは様々であり、一企業という組織、同一業種の企業群という組織、多様な業種間の組織、国家という組織がある(p.115)。

労働、土地、資本はそれぞれ国民所得の分配分として、賃金、地代、利潤(利子)を受け取る。 それでは、生産要素である組織はいかなる分配を受け取るのであろうか。 マーシャルは企業組織の分配分を「合成準地代 (複合的な準地代) composite quasi-rent」と呼ぶ。(p.626) この合成準地代が誰の所得になるのかを決定するのは、企業と被雇用者との間にある 事実上の損益分配制であるとする。 すなわち、「雇主と被雇用者の間に分配する確定的な分け前を決定するものは、 交渉を除いてはありえない」(p.628)のである。 このように、マーシャルは労働の需給によって決定される賃金という議論だけではなく、こうして交渉による切り上げの余地を合成準地代として説明したのである。

この議論は労働者の状態改善への展望と結びついている。 そこで重要となるのが、「生活水準」という概念である。

「生活水準の上昇という言葉は、ここでは欲望に対して調整される活動の水準を意味するものとする。したがって、生活水準の上昇には知性と精力と自尊心の増大をも含意している。生活水準の上昇は、支出における注意力と判断力の向上をもたらし、食欲を満たすだけで、体力を強化することに役立つことのない飲食や、肉体的、道徳的に不健康な生活様式を避けるように導く。」(p.689)
生活水準の向上は、物的な消費の増大と密接に関連しているとはいえ、 それと同一のものではない。労働の質を高めることで、生産性を高め、実質賃金の上昇を生み出すのが生活水準の上昇なのである。さらに言えば、物的な生活水準だけではなく、余暇の増大をもマーシャルにとっては生活水準を決定する重要な要因であった。
「家計の持っている所得と機会を正しく利用する力は、それ自身が最高級の富であり、また全ての階級において稀な富であるという事実に、経済学者は直面せざるをえない。生活を高貴にすることにも、真により幸福にすることにもほとんど、あるいは全く役に立たない仕方で消費されている支出は、おそらくは労働者階級の場合でさえ年1億ポンドにのぼり、その他のイングランドの人口は4億ポンドをそのように支出しているであろう。労働時間の短縮は多くの場合に国民分配分を減少させ、賃金を低下させることは事実であるとしても、最も価値の低い消費をとりやめることによって、所得の損失が補われるならば、また、余暇をよりよく利用することを学ぶことができるならば、大部分の人々にとって労働時間の短縮はおそらく良いこととなろう。」(p.720)
マーシャルは当時のイギリスの経済体制をどのように評価していたのであろうか。 「国民分配分の現在の分配は確かに不良であるが、一般に考えられているほど不良ではないことも考慮しなければならない。」(p.713)このように肯定的に評価しいたのである。マーシャルが展望していたのは、労働者階級全体の生活水準の上昇とそれにともなう生産の増大ならびに実質賃金の増大の好循環である。社会は漸進的に変化していくと考えているマーシャルは、労働組合の役割を肯定的に見ていたが、社会主義者の主張する産業の国有化を否定したのである。
「この分配論の研究は主に次のようなことを示唆している。すでに作用しつつある社会的ならびに経済的諸力は、富の分配を望ましい方向に変えつつあること。そのような諸力は持続的であり、その力は増大しつつあること。 またそれらの影響の大半は累積的であること。 社会経済的な有機体は見かけ以上に、微妙かつ複雑であること。 大規模な誤った構想に導かれた変化は重大な災厄をもたらすかもしれないこと。 とりわけ、政府が生産のあらゆる手段を収用し、所有することは、 比較的責任感の強い集産主義者が提案しているように、漸進的に実行に移す場合にも、 一見して考えられる以上に、社会的繁栄の根本を深く切断するかもしれないこと。」(p.712)
補足: 有機的成長についてマーシャルがまとまった説明をしているわけではない。そのためにいくつかの解釈があるが、ここではライズマンらの解釈に従っておく。