西ヨーロッパ史概観

はじめに

大陸とイギリスの歴史の影響関係

  1. イギリス←ヨーロッパ大陸
  2. イギリス|ヨーロッパ大陸 (百年戦争終了後15cから)
  3. イギリス→ヨーロッパ大陸・世界 (18cごろから)

第1段階(および第2段階)のイギリスを知るためには、 ヨーロッパ大陸の歴史を学ぶ方が都合がよい。 そこで簡単に西ヨーロッパ史を概観しておく。

日本にはイギリス史研究の膨大な蓄積がある。 そこには第3段階における(議会制度や産業革命の観点で見た)「先進国」イギリス を模範としようとする問題意識があった。
西ヨーロッパ史の整理
暴力的に単純化してしまえば、2500年間ほどの歴史は以下のように整理できる。

4つの時代
時代の名称時期特徴宗教
ケルト人の時代B.C.4c〜森の民 
ローマ帝国の時代B.C.1c〜安定した秩序帝国末期にキリスト教を国教化
ゲルマン民族の時代A.D.4c〜バラバラの領主支配ローマカトリック
近代国家の時代A.D.15cごろから近代国家の成立カトリック・プロテスタント

ケルト人の時代
B.C.4cごろまでにヨーロッパ中央部からイベリア半島、ブリテン島、北イタリアへ展開
別名「森の民」。製鉄技術。美術(装飾写本)。ヨーロッパの基層。

南ヨーロッパにいたケルトはローマに追われ、 中央ヨーロッパにいたケルトはゲルマン民族の移動で追われる。 現在では、アイルランド、ウェールズにかろうじて残るのみ。

ローマ帝国の時代
ローマ帝国は長い間ヨーロッパ人の理想的な「古代」のイメージであった。

都市国家ローマ(B.C.8c)→ケルトを破る→ローマ帝国(A.D.1c)

安定した帝国(Pax Romana 「ローマの平和」)
  強力な軍隊(重装歩兵)
  道路「全ての道はローマに通ず」

ローマが作った直線的な道路は、今日の高速道路および高速通信網に相当する。 遠く離れたイギリスにまで石畳の道路を張り巡らせたのは驚異的である。 イギリスでは19世紀まで新たな道路建設はなかったとまで言われている。
ローマ帝国の遺産
  ローマ法
  キリスト教
伝統的多数神を否定するキリスト教を弾圧→4c初:キリスト教容認 →4c後:帝国を統一する手段として国教化

ゲルマン民族の時代
A.D.5cから15c (15c=百年戦争が終結し、イギリスが大陸から独立)

「ゲルマン民族がローマの秩序を破戒し、中だるみの時代を作った」というのが 19世紀までのヨーロッパ人の評価。(現代の評価は異なる)

■第一次民族移動
375フン族の進入・ゲルマン民族の大移動→395ローマ帝国分裂→476西ローマ帝国滅亡
  ゲルマン民族の国家が成立
   西ゴート→スペイン、東ゴート→北イタリア、フランク→フランス、アングロ・サクソン→ブリテン

■フランク王国
  ゲルマン国家の中ではフランク王国がとりわけ発展

ローマカトリックと提携したことが、フランク王国が発展した理由の一つ。 すなわち、世俗的権力と宗教的権力との連合体の形成。 その当時、三位一体を認めるローマカトリックと否定する アリウス派の間で、 信仰上の対立があった。
  フランク王国=ローマカトリック(アタナシウス派)→ ←アリウス派=他のゲルマン部族
フランク王国は「異端」信仰をつぶすために、他のゲルマン国家へ勢力を拡大していった。
  カール大帝の活躍により8c後半には、現在のフランス、ドイツ、イタリアへ範囲を広げる
カール大帝が西ローマ帝国皇帝の称号を受けたために、形式的には西ローマ帝国の復活。 しかし、大帝が没すると(814)、短期間でフランク王国は解体。 よって、ローマ帝国のように安定した秩序をもたらさなかった。 それゆえ、フランク王国はバラバラな時代の一時的な例外と見なせる。 (そもそもカール大帝の王国は、行政・司法・財政の制度が確立されておらず、 また地方は各地の豪族の管理に委ねられていた。よってまとまりのある「国家」とはいえない。)
  フランク王国はローマカトリックをヨーロッパに広めることに貢献した。

■第二次民族移動

9cに略奪的性格が強いノルマン人(ゲルマン民族の一つ)が移動を開始。
デンマークのノルマン:デーン(9cにイングランドを支配)
ノルウェーのノルマン:ヴァイキング(9cノルマンディ→11cイギリスを支配)

ノルマンディにいたノルマン人は、1066年にヘイスティングの戦いで勝利し、 イギリス支配を開始する。 デーン→ヴァイキングへの支配者の交代は、ノルマン人同士の争いでもあるが、 12世紀になると「ノルマン」は「ノルマンディ人」を意味するようになっていた。 それゆえ、この事件は「ノルマン・コンクェスト (ノルマンによる征服)」と呼ばれる。 イギリス人ならば誰でも年号を覚えている歴史上の大事件である。 長い間フランスにいた「ノルマン」はすっかりフランス化されてしまい、 フランス語をはじめとして、多くのフランス文化をイギリスに導入することとなった。

ノルマン人の侵入に対して、地方の貴族(大土地所有者)が自分の土地を守り維持 していくためのシステムとして封建制が確立していく(9c)。

■封建制

封建制は土地を媒介とした主従関係。軍事・経済システム
ローマの恩貸地制度>→封建制度
ゲルマンの従士制度

封建制の成立条件:農業革命(農具の発展・三圃制・開墾運動)→農業生産性の上昇 →農民が軍事を専門にする戦士層(騎士たち)を養うことが可能に→兵農分離

主君から土地を与えられる代わりに、主君のために戦うのが基本的な関係。
両者は対等な契約関係であることがポイント(日本と異なる)。
無制限の忠誠ではなく限定があった。
一般に軍事奉仕は年間40日以内。
どちらか一方に契約不履行があれば主従関係は解消。
複数の主君と契約を交わすことも可能だった。

権利・義務の中身は多様。
土地だけでなく金銭や徴税権をもらうこともあった。
主君が捕虜となった場合の賠償金の支払い、主君の長女の結婚式の費用支 払い義務など。

基本的な構造は、「国王→諸侯→騎士=荘園(農奴・自由農民)」。 さまざまなヴァリエーションがある。

国王は名目的な存在で、実質的には地方の一諸侯にすぎなかった。
フランスでは王領は諸侯の領土よりも小さい。 西フランク国王はほとんど所領を持っていない。 時には、国王が他の諸侯に臣従することもあった。

国王が他の封建領主に対して絶対的な力を持ち始めることで、近代国家が成立していく。
近代国家化は西の方が早い。(イギリスが最初。ドイツは19世紀まで領邦国家)

■キリスト教

フランク王国がローマカトリックをヨーロッパに広める役割を果たした。

ローマ教皇を頂点に、大司教、司教、司祭のピラミッド構造。末端は教区教会制度。
司教は封建領主と同様に土地を所有していた(ヨーロッパ全体の4分の1)。
司教は所有する土地(司教領)を支配し、それが属する封建領主と協調して農民を統制。
農民は十分の一税を教会に納める。

世俗権力は封建的割拠の状態であったが、ローマカトリックは体系的な支配体制を 整えていた。 いわば当時の権力構造は、封建領主と教会の二重の権力構造であった。 両者は対抗的関係にあったが、11cから14cまで教会が勝利。
世俗に対する教会の優位を決定付けたのが「聖職叙任権闘争」。 グレゴリウス7世は教会の人事権に神聖ローマ皇帝(世俗)が関与することを排除した。 これに皇帝は反発するが、結局、諸侯を味方につけた教皇に屈服する (1077「カノッサの屈辱」)。

グレゴリウス改革
教会と修道院の設立と運営を王や貴族から教会の権利とする
聖職者(司教)の任命権を教会が独占
宗教的情熱を高める→レコンキスタ・十字軍・ 異端撲滅

学問のリーダーシップを教会が握る(真理の判定者としての教会)
司教教会の付属学校→大学(パリ、ボローニャ、オックスフォード)
スコラ哲学

近代国家の形成へ
ひととおり西ヨーロッパ史を概観するならば、ルネサンス、宗教改革、 封建制の動揺、国家の形成といったトッピクに言及しなければならない。 しかし、これらの問題の多くは地域ごとに異なるし、また時間差を含んでいる。 それゆえ、「近代国家の時代」は「西ヨーロッパ史概観」の中で論じるのではなく、 イギリス史の中で説明することにしよう。

厳密には、近世国家と近代国家とを区別する必要がある。 しかし、この両者の境界は明瞭ではないように思われる。 そこで本講義では両者を「近代国家」として扱う。