大陸とイギリスの歴史の影響関係
第1段階(および第2段階)のイギリスを知るためには、 ヨーロッパ大陸の歴史を学ぶ方が都合がよい。 そこで簡単に西ヨーロッパ史を概観しておく。
日本にはイギリス史研究の膨大な蓄積がある。 そこには第3段階における(議会制度や産業革命の観点で見た)「先進国」イギリス を模範としようとする問題意識があった。西ヨーロッパ史の整理
時代の名称 | 時期 | 特徴 | 宗教 | ケルト人の時代 | B.C.4c〜 | 森の民 |
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ローマ帝国の時代 | B.C.1c〜 | 安定した秩序 | 帝国末期にキリスト教を国教化 |
ゲルマン民族の時代 | A.D.4c〜 | バラバラの領主支配 | ローマカトリック |
近代国家の時代 | A.D.15cごろから | 近代国家の成立 | カトリック・プロテスタント |
南ヨーロッパにいたケルトはローマに追われ、 中央ヨーロッパにいたケルトはゲルマン民族の移動で追われる。 現在では、アイルランド、ウェールズにかろうじて残るのみ。
都市国家ローマ(B.C.8c)→ケルトを破る→ローマ帝国(A.D.1c)
安定した帝国(Pax Romana 「ローマの平和」)
強力な軍隊(重装歩兵)
道路「全ての道はローマに通ず」
ローマが作った直線的な道路は、今日の高速道路および高速通信網に相当する。 遠く離れたイギリスにまで石畳の道路を張り巡らせたのは驚異的である。 イギリスでは19世紀まで新たな道路建設はなかったとまで言われている。ローマ帝国の遺産
伝統的多数神を否定するキリスト教を弾圧→4c初:キリスト教容認 →4c後:帝国を統一する手段として国教化
ゲルマン民族の時代
A.D.5cから15c (15c=百年戦争が終結し、イギリスが大陸から独立)
「ゲルマン民族がローマの秩序を破戒し、中だるみの時代を作った」というのが
19世紀までのヨーロッパ人の評価。(現代の評価は異なる)
■第一次民族移動
375フン族の進入・ゲルマン民族の大移動→395ローマ帝国分裂→476西ローマ帝国滅亡
ゲルマン民族の国家が成立
西ゴート→スペイン、東ゴート→北イタリア、フランク→フランス、アングロ・サクソン→ブリテン
■フランク王国
■封建制
■キリスト教
近代国家の形成へ
ゲルマン国家の中ではフランク王国がとりわけ発展
ローマカトリックと提携したことが、フランク王国が発展した理由の一つ。
すなわち、世俗的権力と宗教的権力との連合体の形成。
その当時、三位一体を認めるローマカトリックと否定する
アリウス派の間で、
信仰上の対立があった。
カール大帝の活躍により8c後半には、現在のフランス、ドイツ、イタリアへ範囲を広げる
フランク王国=ローマカトリック(アタナシウス派)→ ←アリウス派=他のゲルマン部族
フランク王国は「異端」信仰をつぶすために、他のゲルマン国家へ勢力を拡大していった。
カール大帝が西ローマ帝国皇帝の称号を受けたために、形式的には西ローマ帝国の復活。
しかし、大帝が没すると(814)、短期間でフランク王国は解体。
よって、ローマ帝国のように安定した秩序をもたらさなかった。
それゆえ、フランク王国はバラバラな時代の一時的な例外と見なせる。
(そもそもカール大帝の王国は、行政・司法・財政の制度が確立されておらず、
また地方は各地の豪族の管理に委ねられていた。よってまとまりのある「国家」とはいえない。)
フランク王国はローマカトリックをヨーロッパに広めることに貢献した。
ローマの恩貸地制度 >→封建制度
ゲルマンの従士制度
世俗に対する教会の優位を決定付けたのが「聖職叙任権闘争」。
グレゴリウス7世は教会の人事権に神聖ローマ皇帝(世俗)が関与することを排除した。
これに皇帝は反発するが、結局、諸侯を味方につけた教皇に屈服する
(1077「カノッサの屈辱」)。
ひととおり西ヨーロッパ史を概観するならば、ルネサンス、宗教改革、
封建制の動揺、国家の形成といったトッピクに言及しなければならない。
しかし、これらの問題の多くは地域ごとに異なるし、また時間差を含んでいる。
それゆえ、「近代国家の時代」は「西ヨーロッパ史概観」の中で論じるのではなく、
イギリス史の中で説明することにしよう。