労働者の生活

はじめに
政治の歴史(政治史)や経済の歴史(経済史)ではなく、 人々の生活を歴史の対象とする「社会史」という分野が近年盛りあがっている。 そうした研究の中から、18、19世紀の労働者の生活について、 前半では、結婚や高齢者問題といったライフサイクルに、 後半は衣食などに照明をあてたい。

離婚と妻売り
カトリックにとって結婚はサクラメントの一つで、 それを解消させること、すなわち離婚はできなかった。 宗教改革以後のスコットランドでは離婚が可能であったが、 イングランドでは宗教改革以後もカトリック的な結婚観が存続していた (国会で承認されると離婚もできた。 しかしそのための費用は労働者の年収30年分程度に相当した)。 庶民の離婚が可能となったのは、1857年「婚姻係争法」が成立してからである。 しかし、それ以前にも正式な法律とは別に、 「妻売り」と呼ばれる慣習による事実上の離婚が存在した。

妻売りは市場という公正な取引の場所で行われた、公開の競りである。 競りといっても、芝居の一種で妻を買う男はたいていは決まっていたし、 もちろん妻も競りにかけられることに同意していた。 競りの代金の大半は、新しい夫婦を祝う飲食代に当てられた。 つまり、離婚と再婚とを同時に行う儀式ということになる。 妻売りの記録は18世紀後半から19世紀に多いが、実際には17世紀から18世紀にかけて 多かったらしい。

「〔妻売りは〕庶民の間でときにみられた婚姻解消法の一つである。 ...夫婦が互いに心から飽き、別れることに同意した場合、 夫がその離別を真正にして確実なものとするために公衆の評判の種にする。 夫は妻を動産とみなし、その首に綱をつけて、もよりの市場につれていき、 競りにかける。...購入するものはたいてい事前に決められている。」 『女性の生まれながらの権利、姻戚、品行に関する法律集』(1777年)より

結婚という慣習
19世紀の結婚は、中世以来の「教会結婚」と 1836年から始まった法律上の「民事結婚」の二重体制であった。

■民事結婚
登録所で、所長と登録官および2名以上の証人の前で行う結婚。 宗教が意味付けていた婚姻を近代的な行政が取りこんだことを意味する。

■教会結婚
教会結婚は「結婚予告」から始まる。 それは、新郎新婦の教区教会で(異なる場合は両方の教会で)の 日曜の礼拝の場で3週連続で行われた。 内容は「結婚させるべきでない理由を知っているものは申し出よ」という 呼びかけである。 結婚予告が済んだ後、教会で式を挙げて正式な結婚が成立した。

■「1753年結婚法(ハードウィック結婚法)」
中世以来認められてきた次のような簡便な結婚方法があった。 (1)「私はあなたを妻/夫として受け入れます」と誓い、証人が二人いれば結婚が認められた。 多くの農民や労働者がこれを利用していた。 (2)所属する教区以外の教会あるいはパブや監獄などでの結婚(「秘密婚」という)。 これら(1)や(2)の簡便な結婚方法は、親の押しつける結婚を拒否する手段として使われた。 恋愛結婚の増加がこうした簡便な結婚方法を普及させたといえる。 「1753年結婚法」はこのような簡便な結婚方法を無効にした。 つまり、恋愛結婚に対抗する親の権利の擁護のためにできた法律なのである。

「1753年結婚法」は金持ちの親が財産を守るため作られた法律という性格があった。 貧民にとっては、約束を交わして枕をともにすればそれが結婚であった。 そのために「1753年結婚法」以降も、法律が認めなくても、 簡便な結婚を地域は認めていくことになる。

【グレトナ・グリーン結婚】スコットランドでは旧来の結婚方法が有効であった。 そこでイングランドの御曹司が親の目を盗んで、スコットランドに出かけて結婚する こともあった。 なかでもイングランドとの国境にある村グレトナ・グリーンは、 駈落ち先としてしばしば利用され、挙式を執り行ういんちき牧師もいた。 こうしてスコットランドに逃げてきての結婚は、 「グレトナ・グリーン結婚」と呼ばれるようになった。

結婚年齢と婚前妊娠
産業革命の要因で説明したように、 18世紀後半から19世紀前半にかけて、イングランドでは出生率が上昇し人口が急増していく。 出生率の上昇をもたらしたのは初婚年齢の低下である。 17世紀までは男女とも結婚年齢が高かったが、18世紀後半から19世紀にかけて低下していく。
初婚年齢
時期男性女性
1600-4928.225.9
1650-9928.026.2
1700-4927.826.4
1750-9926.923.3
1800-4926.023.9

【昔は早婚?】 現在の日本は少子化が進んでいる。 その理由は女性の晩婚や非婚にあると言われている。 しかし、17世紀のイングランドも女性の初婚年齢は26歳を超えていた (1996年の日本女性の初婚年齢は26.4歳)。 この時代の平均寿命が40歳程度であることを考慮すると、かなり晩婚だったと言えよう。 また、約20%の女性が生涯結婚することはなかった。
18世紀から19世紀にかけて婚前妊娠率も上昇する。 19世紀前半には実に40%近くが「できちゃった結婚」だったのである。 初婚年齢の低下に加えて、婚前妊娠の増大は、出生率の上昇要因となった。

なぜ結婚年齢が低下したり、婚前妊娠率が高まったのだろうか?

ライフサイクル・サーヴァント
17世紀ごろから19世紀中ごろにかけて、子供たちの多くは14歳前後で親元を離れて、 別の家庭に使用人として住み込んだ。 ライフサイクルの一環としての使用人(サーヴァント)ということで、 これは「ライフサイクル・サーヴァント」と呼ばれる。 徒弟になる場合もあれば、女中のような家事使用人となることもあったが、 もっとも多かったのは農家に入る農業サーヴァントであった。

農業サーヴァントの場合には、たいていは一年間の年季奉公で、刈入れが終わると 1年間分の給料をもらって解雇された。 そして「雇用の市」に出かけて、翌年の雇い主を探し、契約を結んだ。

サーヴァントとして家庭に入った若者は、その家の一員と見なされた。 「家族 family」の中にはサーヴァントも含まれるのである。 住み込んでいる間は、サーヴァントは実の息子や娘とほとんど同じように扱われた。 だからサーヴァントの監督責任は実家の親ではなく、主人の方にあった。 当時の家族は3つの人間関係から成っていたことになる。 すなわち、夫婦関係、親子関係、主人とサーヴァントの関係である。

サーヴァントの地位は主人の監督と保護のもとで訓練を受ける存在で、 子供と大人の中間のような存在であった。 サーヴァントの間は独身でなければならず、 一人前の生活ができるようになってはじめて結婚することが可能となった。 経済力のない若者の結婚がサーヴァントの期間に抑制されていたことが イギリスの晩婚の要因と言われることもある。

18世紀末から、すなわち産業革命がはじまるとともに、 次第にライフサイクル・サーヴァントは衰退していく。 なぜならば、工場の誕生によって子供が雇用されるようになり、 親元から工場に通って働くようになったからである。 工場労働者の賃金は低かったために、子供の稼ぎがあってようやく一家の生活が 成り立つような状態だった。 そこで親は子供を手元においておき、労働させることを選んだのである。

高齢者の生活
全ての子供たちをサーヴァントとして送り出すと老夫婦が残されることになる。 そこで若い労働力の確保のためにサーヴァントを雇うことになる。 そのために、貧しい農家でもしばしばサーヴァントを雇わざるをえなかった。

【核家族の成立】 一般に近代以前は、核家族ではなく大家族制度であったと言われる。 しかし、イギリスは世界で最初に核家族へと移行し、16世紀には核家族が一般的であった。 イングランドの世帯規模は17世紀後半で一世帯平均4.7人で、それ以後19世紀中ごろまで ほとんど変化がない。
成人した子供が老親の面倒をみるために実家に帰ることはほとんどなかった。 財産の相続を条件に老後の面倒を見てもらうという契約が交わされることもあった。 逆に言えば、そうでもしないと老親は面倒をみてもらえないドライな関係が 普通だったのである。

高齢者の扶養は子供ではなく、救貧法による給付が支えていた。 つまり高齢者の生活は地域が支えていたことになる。 17世紀の一村落では寡婦の40%が給付を受けていた。 (社会保障制度の原型が400年ほど前から存在していたことになる) 19世紀末にイギリス経済が凋落すると、従来の救貧制度では高齢者への支出が まかないきれなくなり、20世紀初めに現代的な年金制度が登場することになる。

産業革命期の綿工場地帯では、老親が若い夫婦と一緒に住む事例が現れてくる。 つまり、核家族から大家族への「逆行」が発生するのである。 外では働けない高齢者も子守りはできる。 子守り役が見つかると、若い妻も外に働きに行くことができる。 なぜならば、綿工場のような働き口が近くにあると、 3世代同居が経済的に効率的になったからである。 その結果、実の親だけでなく、他人である高齢者を家に拾ってくるケースさえあった といわれている。

【社会保障制度】 一般的には、近代化とともに核家族化が進行したために、 それまで家族が担ってきた高齢者の扶養などが不可能となり、 代わりに行政が面倒をみるという形で、社会保障制度が成立したと説明される。 日本などはこうした説明のとおりであるが、少なくともイギリスにはあてはまならない。

労働者の家計
18世紀半ばの都市人口は16%程度であったが、19世紀半ばには50%近くに達している。 農村人口が高かった18世紀までは、自分の家でパンを焼く家庭が多かった。 しかし、囲い込みにより共同地が失われるにつれて薪が拾えなくなったことと、 また女性が労働に追いたてられるようになったこともあって、 自家製パンを焼く習慣はしだいに消滅していった。 こうしてパン屋からパンを買うというライフ・スタイルができあがった。 1870年代以降に労働者の生活水準が飛躍的に上昇するにつれて、 家計に占めるパンのウェイトは低下していくが、それまでは最も基礎的な食料であった パンが最大のウェイトを占めていた。

【エンゲル法則】 19世紀ドイツの統計学者エンゲルが見出した法則。 所得の上昇につれて家計に占める食料費の割合が減少していくという経験則である。

労働者でも職種や地域で差がある。 19世紀半になると比較的豊な労働者は肉を食べられるようになっていたが、 まずしい労働者の食卓に肉があがることはまれだった。

貧しい労働者が購入する食料品の質は劣悪であった。 パンにはジャガイモやアンモニアソーダ、時には石膏、骨粉(人骨さえあった)が 混ざっていた。 安物の紅茶には茶殻からの再生品が使用された。 1840年代のロンドンには茶殻再生工場が8つもあったという。 ホテルやコーヒーハウスで出た茶殻は買い取られ、工場でゴム溶液につけられ、 顔料で色をつけられてもう一度売られていた。

紅茶と砂糖
砂糖入りの紅茶は、中米からの砂糖、中国からの紅茶という世界システムの産物である。 最初はいずれも贅沢品であった。 イギリスの東インド会社が中国から茶を輸入しだすのは17世紀半ばからで、 当時は上流階級の飲み物であった紅茶も、18世紀になると中流階級へと広まる。 そして、18世紀末になると労働者も紅茶を飲み始める。 昔は贅沢品であったが、労働者が飲むようになるころにはその意味が変わっている。

紅茶と砂糖を輸入するようになって、砂糖入りの紅茶が労働者の朝食となっていく。 今風に言えば、簡単に摂取できる「飲むカロリーメイト」の出現である。 それは、ハイカロリーの朝食を短時間で済ませることで、 労働者の時間的規律を生み出し、さらには長時間労働をも可能にしていく。

【奴隷廃止と砂糖】 カリブ海で作られていた砂糖は、 フランス産砂糖よりも割高であったが、 保護関税によって安価なフランス産砂糖との競争から護られていた。 その結果、食費の割高に、ひいては高い労賃の原因になっていた。 この当時イギリスの議会には、工場主の利害に立つマンチェスター派と カリブのプランテーションの利害に立つ「西インド諸島派」がいた。

保護関税を撤廃させるために、マンチェスター派は奴隷制廃止という論法を使って 西インド諸島派を攻撃し、消滅させることに成功する。 つまり、割高な国内の労賃コストを引き下げるために、奴隷制度廃止が主張されたのである。

こうして1833年にイギリスは奴隷制度を廃止する。 そもそもマンチェスター派は人道的な奴隷制廃止を考えていなかったので、 外国の奴隷制度は容認していた。 逆に、かつての奴隷制度擁護派であった西インド諸島派が外国の奴隷制反対を唱える という逆説が生まれることになる。

最下層の生活
H.メイヒューは1850年代にロンドン(当時のロンドンの人口は300万人ぐらい)の 貧民調査を実行し、 『ロンドンの労働とロンドンの貧民』にまとめた。 そこには定職につけない多くの貧しい人々が描かれている。 そのいくつかを紹介しておこう。

■街頭商人
野菜や飲み物、古着、新聞、ペットなど様々なものが街頭で売られていた。 彼らは店舗をもたず、首からつるした箱やかご、せいぜい折りたたみのテーブルか 手押し車を利用するだけであった。 商品を市場から仕入れてきて、不安定な収入を得ていた。 ロンドンで3万人ぐらいいたと見積もられている。

■拾い屋
路上のゴミやぼろ布などを集める「くず拾い」、 下水溝で金属の破片などを集める「どぶさらい」、 テムズ河岸で金目のものを拾う「泥ひばり」と呼ばれる者たちもいた。

■街頭労働者
煙突掃除人や街路清掃夫、ゴミ運搬人などがいた。 ゴミ運搬人は清掃業者から荷馬車を借りて路地を回り積荷を一杯にしては ゴミ集積場へと運んだ。

■港湾労働者
テムズ河にあるロンドン・ドックには港湾労働者が沢山集まってきた。 石炭の積み出しや木材荷揚げなどの仕事をした。

■売春婦
ロンドンには約3000の売春宿があり、8万人のプロの売春婦がいた。 売春婦の中にも高級「ナイト・ハウス」に出入りする高級娼婦から、 貧しい街娼までいた。 低賃金で重労働の針子たちの中には、一種の副業として体を売るものもいた。 メイヒューは針子のうちの4分の1が売春婦であると述べている。 幼い売春婦も多く、ロンドでは公然と少女売春が行われており、 「外国人旅行者が批判する問題」であったと言われている。

二つの世界
イギリスが最も繁栄していた19世紀は、富めるものと貧しきものとの階層差が最も開いていた 時代で、一つの国に二つの世界があったと言えるかもしれない。 産業革命についての「楽観説」の論者が指摘するように、労働者階級の生活水準は19世紀に 上昇したことはまちがいないであろう。 しかし、全ての労働者の生活が豊になったと考えるのは間違いである。 ラウントリーの調査が明らかにしているように、19世紀末でも労働者の多くはまともな 生活を成り立たせることができなかったのである。

【貧困調査】貧困問題は大きな社会問題であった。 それゆえ、貧困の実態を解明し、対策を立てるために、 メイヒューの調査をはじめとして、18、19世紀には多くの社会調査がイギリスで行われた。 ラウントリーによるヨーク市の調査(『貧困:都市生活の研究』1901)は、 3割以上が中流以上の生活を送っていること、 そしてほぼ同数の貧困層がいることを明らかにした。 この調査によると肉体的健康を保つのに必要な最低限を満たせない者が10%、 最低限をぎりぎりで満たしている者が18%に達している。
イギリスが福祉国家化に本格的に取り組むのは、ヘゲモニーを失った20世紀になってからである。 経済を市場メカニズムに委ねたまま貧困を存続させていった背景には、 19世紀イギリスを支配した「自由」の理念があった。 今日でもなお先進国の中では依然として、イギリスは階層差が最も大きい国の一つである。
【アメリカ】 現在世界一の経済力をほこり、至上空前の好景気に沸いている20世紀末アメリカでも、 7分の1の家庭が生活保護を受けているのである。 言うまでもなく、世界全体に目を向けるならば、今日でも人口の半数以上が 貧困生活を送っている。むしろそれこそが、「世界標準」なのである。 貧困問題は遠い昔の話ではない。