キリスト教の経済思想

はじめに

原始キリスト教は聖書の誕生により、経典宗教として普遍的な性格を帯びてくる。 しかし、2世紀ごろに完成したとされる聖書は、当然のことながら時代的制約を受けている。聖書の教えと現実社会との整合性をどのようにはかるかがその後の神学者たちの大きな課題になってくる。ここでは聖書と中世の偉大な神学者トマス・アクィナスを取り上げることにする。

聖書の経済思想
聖書には財産や金儲け、あるいは労働に関する記述がいくつか登場する。 それらは必ずしも整合的に書かれているわけではないが、 市場(営利活動)について否定的な見解が数多く見られる。 その点では、アリストテレスなどの主張と類似性がある。 別の角度から言えば、聖書もアリストテレス同様に商業のうちに伝統的な共同体を 解体させる作用を見い出していた、と言えるであろう。 さて、中世から宗教革命期にかけて、何人かの聖職者たちが経済に関する議論を行っている。 現実に広まりつつあった商品経済に対して、 すなわち、聖書の教えと抵触しかねない現実に対して、 どのような理由で、そしてどの程度まで容認すべきか、 これが聖職者たちに課せられた課題であった。

厳密に聖書を問題にしようとするならば、テキストの成立事情を考察する必要がある。 たとえば、新約聖書に限定しても、紀元50年ごろに書かれたと推定されている 「テサロニケの手紙」と150年ごろと推定されている「ペテロ第二の手紙」とに 異同があるのは当たり前であろう。 また、後の聖職者に課せられたのと同様に、 聖書編集者たち自身も聖書成立以前の原始キリスト教と現実との整合という課題を意識 していたはずである。 さらに旧約聖書にいたっては、紀元前7世紀ごろから紀元1世紀ごろという長大な成立史 がある。 ここでは大まかに、2世紀ごろにはだいたいの編集が終了したテキストとして、 経済関連の記述をいくつか挙げておく。
■神の財産
「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」(詩篇 24-1)

■貨幣・財産・貪欲
「食事をするのは笑うため。 ぶどう酒は人生を楽しませる。 金銭はすべての必要に応じる。」(伝道者の書 10-19)

「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。 ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、 非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(テモテへの手紙 第一 6-10)

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、 また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲に陥ります。」 (テモテへの手紙 第一 6-9)

「あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりも、 ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい。」(マタイの福音書 19-24)

「自分のために金銀を非常に多く増やしてはならない」(申命記 17-17)

「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。」(ルカ 6-20)

「弱いものを銀で買い、貧しいものを1足の靴で買い取り、くず麦を売るために。 ....このために地は震えていないだろうか。」(アモス書 8-6)

「金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。 イエスは彼らに言った。あなた方は人の前で自分を正しいとする者です。 しかし神は、あなたがたの心をご存知です。 人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、嫌われます。」(ルカ 16-14)

■利息
「外国人から利息をとってもよいが、 あなたの同胞からは利息を取ってはならない。 それは、あなたが入って行って、所有しようとしている地で、 あなたの神、主があなたの手のわざのすべてを祝福されるためである。(申命記 23-20)

新約聖書の中には、旅行に出かける主人が下僕に金銭を預け、それを殖やさなかった下僕がとがめられる話が出てくる(マタイ25-27、ルカ19-23)。この比喩をもって、利息の正当性を主張しているとする解釈が多いようである。しかし、下僕は利息の支払いを条件にして金銭を借りたわけではない。当該箇所には、利息を支払う「銀行」の存在が説かれている。バビロン捕囚中のユダヤ人の間には金融機関を営む者もいたようである。
■貧しきもの
「貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、 私はあなたに命じて言う。国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、 必ずあなたの手を開かなければならない。」(申命記 15-11)

トマス・アクィナス

■トマスの時代
12世紀ごろ荘園制を基盤とする典型的な封建制社会が完成したとされている。封建制社会は土地を媒介とした軍事・経済システムということができる。農村内部では農奴と荘園領主という支配・服従関係が支配的であり、まだ商品経済が十分に展開されていたわけではいない。しかし、この時期にはイタリア商人による地中海交易が展開されていたし、また13世紀になると北ヨーロッパでハンザ同盟が成立していることからわかるように、都市部とりわけ海外貿易を担っていた地域では商業活動が盛んになっていた。こうした商業活動が展開しつつあった時期にトマス・アクィナスは活躍した。

トマス・アクィナス:1225-1274。南イタリア生まれ。中世キリスト教最大の神学者。主著は『神学大全』。親の許しもないままにドミニコ修道会に入会したために、家族は脱会させるために彼を城の中に幽閉した。そして美女を部屋に送り込み、色仕掛けで世俗社会に連れ戻そうとした。しかし、トマスは美女を部屋から追い払い、ドミニコ会規則に従った生活を送ったという。真偽の程は定かではないが、有名な逸話である。『神学大全』からの引用は創文社版による。

当時の主要な神学者はスコラ学派(スコラ哲学)と呼ばれており、キリスト教の教義を合理的かつ体系的に説明しようとしていた。それは信仰と理性との調和をはかる試みといえる。その代表者がトマス・アクィナスである。トマスはアリストテレス哲学を取り込むことで、神学と法学の体系を構築を完成させた。主著である『神学大全』は口述筆記による膨大な著作である。学問的な討論形式をとっており、全部で600ほどの設問に対する解答と反論そして両論を比較検討する主文という構成になっている。ここで論じられた自然法思想は後世に極めて大きな影響を残すことになる。「アクィナスの自然法論は、かれの神学が中世の正統神学となったため、教会法などを通じて影響力をもった。そしてそれは、十六世紀にスペインのサラマンカ大学を拠点としたひとびとによって再生され、近世へ橋渡しされることになった。」(石部・笹倉『法の歴史と思想』放送大学テキスト)

■人間観と社会制度
トマス以前のキリスト教神学(アウグスティヌス 354-430など)においては、人間の社会制度は全て人間が犯した原罪に対して神が与えた罰であると見なされていた。つまり原罪を犯す前の世界においては、人間が別の人間を支配する政治権力や奴隷制度は存在していなかったと考えられていた。これらの制度は罪に根ざしたものであり、一種の罰と位置づけられていた。これに対して中世後期に登場したトマスになると、原罪に社会制度の起源を求めようとする発想は弱まってくる。人間が人間を支配する政治の必要性について次のように述べている。

「人間は自然的に社会的動物である。だから原罪以前の状態においても、人間は社会の中で生活していたであろう。しかし、多数者が集まって営む社会的生活は、もしもその中の誰かが権威を持って共通善について配慮するのでなければ、存在しえないであろう。」(第1部96問第4項)

このように原罪とは関係なく、社会の規模から政治制度の必要性を主張していることになる。この議論の典拠の一つとしてアリストテレスの『政治学』が挙げられている。アリストテレスは、「人間は社会的(ポリス的)動物」であるという有名な命題を語った。この命題をトマスは、人間は本来、政治権力なくして社会を形成できる、という人間観を表明したものと解釈したのである。またアリストテレスの場合も政治の必要性を認めいている。したがって、トマスの議論は旧来の神学思想に対抗して、アリストテレス的な人間観を復興させたものと見なすことができる。

後の時代のマキャベリやホッブズと比較するならば、トマスの人間観は近代への過渡的な性格を持つものと整理できる。というのは人間が社会的存在であることを前提にしながら、同時に政治の必要を説いているからである。例えば、ホッブズにとって人間はもともと社会的な存在ではなく、生存のために闘争を繰り広げてしまう存在である。だからこそ、強力な国家権力によって人々の闘争を抑え込み、社会を形成・維持することが不可欠であるという結論が導かれることになる。

さてトマスの引用にもどろう。「共通善」というのは共通の利益のことである。これはトマスの思想の最重要概念である。法も政治も共通善を実現するために存在しなければならないのである。この共通善という考え方は、今日にまで及んでいる重要な考え方である。

■私有財産制度の容認
聖書に述べられているように、万物は神の所有物である。だから、神は誰かに土地を与えたのではなく、万人に与えたという考えられていた。こうした認識から、中世初期の自然法(教会法)では、財産は共有制こそが正しいという見方が支配的であった。私有財産制度は政治制度と同様に、原罪に対する罰の一種と考えられていた。

これに対して、トマスは私有制度を容認した。神が与えた法に従えば私有財産は認められない。しかし、人間が制定する実定法は神が与えた法を解釈したものであるから、神の法とは矛盾しない。したがって、実定法が認める私有財産制度は容認されなければならない。これが旧来のキリスト教思想と現実との不一致を何とか整合させようとしたのである。こうした議論を補強するために、共産制に対する私有財産制度のメリットを3点指摘している。おおよそはアリストテレスの反復となっていることを確認してもらいたい。

「人間が固有のものを所有することは正当であるばかりでなく、次の3つの理由から人間生活のために必要不可欠である。第一に、万人あるいは多数者に共有であるものよりも、自分だけの権能に属するものを取得することにより大きな配慮を払うからである。....第二に、ある物財を取得することについての固有の配慮責任を課した方が、より秩序正しく処理されるからである。これに対して、誰彼の区別なしに何でもかまわず取得できれば、混乱が生ずるであろう。第三に、このことによって各人が自分のもので満足している限り、人々の間により平和的な状態が維持されるからである。」(第2-2部設問66第2項)

要するに、(1)私有財産の方がその獲得に努力し、(2)共有財産だと混乱が生じ、(3)各人の私有財産に満足していれば平和になる。これが私有財産を正当化する理由である。ただし、後の時代に「緊急〔請求〕権」と呼ばれるようになる、困窮者の財産請求権という例外を明確に認めている。聖書から「この世に富んでいる人々に対して、快く施し分け与えよ」(テモテへの手紙第一 6-17)を引用しながら、「緊急事態」には財産を分与することをトマスは当然の義務としている。それだけでなく、緊急事態においては窃盗さえ許されるのである。

「緊急必要性がきわめて緊迫かつ明白であって、その場にある物財でもって現在の緊急必要性に対して対処しなければならないほどである場合には、...他人に物財をあからさまにであろうと、密かにであろうと取って自分の緊急性に対処することが許されるのである。このような行為は厳密にいって窃盗ないし強奪にあたるともいえない。」(設問66第7項)

私有財産制度を容認する後の論者は、緊急権の存在と私有財産制度との両立に頭を痛めることになる。

■公正価格論
私有財産制度を擁護した以上、その売買も当然のことながら容認される。ただし、自由な売買が許容されているわけではない。商品は公正な価格で売るべきであるというのが伝統的な教会法の考え方であった。トマスも公正価格論をとっている。それが「均等」での売買という考え方である。

「それゆえに、事物をそれの価値より高価に売るか、 あるいは安価で買うことは、それ自体として不正であり、また許されないことである」 (設問77第1項)
しかし、同時に公正価格が厳密に確定されないことを認めている。
「事物の正しい価格は時として厳密に確定されず、 むしろ何らかの推計に依存するものであり、 したがって僅少な付加もしくは減少は正義の均等を取り去るものとは思えない」(同上)

■商取引の正当性
アリストテレスは利益を目的とした取財術を否定していた。 しかし、トマスも利益それ自体を追求することは否定しているものの、 「自分の労苦に対する給与」のようなものである 「節度ある利益」をあげる商取引は正当なものとしている。

「だが、商取引の目的である利得は、その本質のうちに何ら高潔もしくは 必要不可欠という要素を含んでいないとはいえ、 他方、その本質のうちに悪徳的もしくは特に対立するような要素は何ら含んではいない。 ここからして、利得が何らかの必要不可欠な目的、 あるいは高潔な目的にさえも秩序付けられることを妨げるものは何もない。 そして、このようにして商取引は正当なものたらしめられるのである。 たとえば、ある人が商取引において追求するところの節度ある利得を、 ....利得が目的であるかのように追求するのではなく、 むしろいわば自分の労苦に対する給与と見なすような場合がそうである。」 (設問77第4項)

どの程度までの利益が「節度ある利益」なのかははっきりしないが、 「正しい価格の半分の額を超えて詐取されたような場合は、 人定法といえども返還を強制する」と述べている。 それゆえ、利益がコストの半分を超えれば「節度ある」ものとはいえなくなることは間違いない。利益率を50%以下にすべきというこの議論は、ローマ法を踏襲したものであるが、50%以下ならば許容範囲であると明言しているわけではない。

トマスの公正価格論を整理するとおおよそ次のようになる。

公正価格=原材料費+輸送費+危険負担+節度ある利益

結局、トマスの議論は取引の形式的正当性に帰着してしまう。

■交換的正義
トマスはアリストテレスの応報的正義にほぼ相当するものとして、 交換的正義を考えている。 しかし、その内実には大きな違いがある。 アリストテレスでは、等価交換が応報的正義の内実であった。 何をもって「等価」なのかははっきりしないが、すくなくとも利益をあげること (取財術)は排除されていた。

ところが、トマスの交換的正義においては、「節度ある利益」という限定があるものの利益が容認されている。事実、『神学大全』において「均等」の中身は詳しく分析されていない。むしろ、交換について詳しく検討されているのは、正当な取引の形式である。例えば、欠陥があることを知っていて売りつけたような場合には、その取引が無効になる、といったことが詳しく論じられているのである。自発的でインチキがない取引により決定される価格であれば、基本的には公正な価格であると見なしていることになる。このようなトマスの考え方は、商業活動の容認へと大きく道を開いたことになる。二つの正義論についてアリストテレスにならって次のように述べている。

「もし共同体に奉仕した人間に対して、彼の行った奉仕への報いとして何かが与えられるとすれば、それは分配的正義ではなく、交換的正義に属することであろう。なぜならば、ある人が与えるものと受け取るものとの間の均等が問題になるのは交換的正義であり、彼が受け取るものと他の人が受け取るものとの間の均等性が分配的正義に属するからである。」(設問61第4項)

文言はほとんどアリストテレスと同じであるが、アリストテレスの応報的正義が「等価」であることを重視したのに対して、トマスの場合には実質的には「取引形式」が重視されていたと言えよう。

■利子の徴収禁止
当時のキリスト教世界では、時間は人間のものではなく、神のものであると考えられていた。 そして、利子は時間が生み出すものという認識があった。 トマスもアリストテレス同様に利子は徴収してはならないと考えられていた。

「貸した金のゆえに利子を受け取ることはそれ自体において不正なことである。 ....酒あるいは麦を貸したものが二つの返還を求めたならば、 ――すなわち、一つは等しい物の返還、そしてもう一つは使用の代金、 つまり利子と呼ばれるもの――不正義の罪を犯すことになるのである。」 (設問78第1項)
ただし、危険負担という観点からの、リスクプレミアムを容認している点は注意を要する。
当時の冒険貸借では、危険負担という隠れ蓑を利用して、実質的には配当報酬を もたらす出資活動が行われていた。 このような活動に、株式会社の原型を見出す見解もある。