マルクスの経済思想 続き

マルクス経済学の変容
マルクスの経済思想は社会主義を目指す政治運動とともに世界に広まってゆく。その過程で行われた論争は、マルクス経済学の様々なヴァリエーションを生み出していく。ヴァリエーションを生み出した理由は、『資本論』で描き出された経済社会と異なる状況でマルクスの経済思想を展開させようと試みたところに求めることができる。20世紀の資本主義は19世紀イギリス経済とは異なる様相を呈し始めていた。そのために『資本論』がモデルにしていた経済像を、そのまま現実に適応することが困難になり始めていた。ここではドイツ、ロシア、日本におけるマルクス経済学の発展をとりあげておこう。

後発資本主義国ドイツは19世紀末に急速に重化学工業化を押し進めることに成功し、経済的にイギリスを凌駕しつつあった。こうしたドイツ経済の発展を支えたのが、銀行を中心とした株式会社制度の発展であった。「金融資本」という概念を用いて、新たな資本主義経済像を描き出したのがドイツのマルクス経済学者ヒルファディングであった。

マルクスの予言に反して、イギリスに代表される先進資本主義国の労働者が窮乏化しつつあるとは言えなくなっていた。こうした状況の中で、資本主義国は国内の経済問題を国外に転化することで解決を図っているという議論が生まれてくる。その代表がレーニンである。マルクスが資本主義国内の問題に着目したのに対して、レーニンは世界レベルで資本主義経済の問題を把握しようとしたと言える。

イギリスの場合には、封建的な自営農民層は一方で農業資本家へと成長し、他方では農業労働者あるいは工業労働者へと没落していった。ところが、ドイツや日本では農民層分解が進まないうちに、重化学工業が発展しはじめていた。こうした状況はマルクスが描いたのとは違う経済社会のパターンがあるのかいなか、という問題を生み出していた。この点については、日本におけるマルクス経済学内部の論争を中心に見ておきたい。

ヒルファディング
マルクスの没後、マルクスの理論を受け継いだのは、ドイツ社会民主党(SPD)であった。そのなかでカウツキーやヒルファディングといった理論家たちが、資本主義の発展を『資本論』をベースにしながら理論化しようと試みていく。

ヒルファディング:1877-1941。ウィーン生まれ、ドイツで活躍。1910年に主著『金融資本論』を著す。1923年、1928-29年にSPD政権下で大蔵大臣を務め、レンテンマルクの発行によって第一次大戦後のインフレーションの収束をはかる。ヒトラーの権力掌握後に亡命し、国外からナチスを批判しつづける。1941年逮捕され、パリの監獄で死去する。
■金融資本
18世紀に起きたバブル経済の苦い経験(南海泡沫会社事件)から、イギリスは長い間、株式会社を原則的に禁止していた。そのために個人が集めた資金により企業が立ち上げられていた。繊維産業のように固定資本が比較的小規模な産業ならば、資金の調達はそれほど大きな問題にならない。しかし、重化学工業のように大規模の設備が必要とされる産業では個人の資金だけでは容易に企業を立ち上げることは困難である。個人資金に代わって、株式会社制度によって大量の資金を集めることに成功したのがドイツであった。

この事態をヒルファディングは「金融資本」という概念で説明した。ヒルファディングが強調したのは銀行の役割の増大である。イギリスの銀行は伝統的に商業手形の割引に従事する商業銀行にとどまっていた(短期・小額・つなぎ融資的性格)。これに対してドイツでは銀行が大量の資金を市中から集め、それを産業資本に流し込む役割を果たした。こうした金融と産業資本との一体となった状態を金融資本と呼んだ。

金融資本の中心には銀行が位置している。だが、「金融資本=銀行」ではない。むしろ、ヒルファディングが金融資本概念によって強調したのは、産業資本と銀行とが一体となった体制である。それゆえ、「銀行はその資本のますます多くを産業に固定せざるを得ない。これによって銀行はますます多く産業資本家となる」という言い方もしている。
重化学工業は株式を発行することで大量の資金を集めた。その際、株式の引き受けを行ったのが銀行である(証券業務をかねたユニバーサル・バンキング)。産業資本は独占による高い配当利回りを確保できた。そのために一括引き受けした株式は額面以上の金額で市中で売却することが可能であった。この差額の取得を創業者利得と呼ぶ。
1株の額面が50円であったとする。仮に1株当り年間4円の配当が保証されていたとしよう。利子率が5%であるとすれば、この株式の市場価格は理論的には80円となる。銀行は額面で引き受けた株式(=1株当り50円を産業資本に支払って株式を購入)を、市中で(理論値どおりの)80円で売却すれば30円の儲けが生まれる。この儲けを「創業者利得」と呼ぶ。
銀行は創業者利得を獲得するだけではない。銀行は大株主として産業資本に役員を派遣することで、産業資本の経営にも介入していくようになる。こうして、人的な結合を通じて、銀行による産業資本の支配が行われていく。銀行による経営のコントロールは、もともとは競争関係にある複数の産業資本の競争を回避させ、独占の形成による独占価格の維持などを可能となる。ヒルファディングはここに生産の社会化の展望を見出だした。すなわち、銀行による生産のコントロールの延長上に、国家による生産のコントロールという社会主義の構想を描くことになる。

レーニン
ドイツ社会民主党は党内の路線対立もあって、第一次世界大戦に対して反戦の立場を貫くことができなかった。そのためにSPDの権威は失墜する。代わりにマルクス主義の指導者の地位を占めたのが、ロシア革命を指導したレーニンである。ロシア革命の指導者レーニンは、「帝国主義戦争を内乱へ」というスローガンのもとに、ドイツ社会民主党を中心勢力とする第2インターナショナルを批判した。

レーニン:1870-1924。 教育者の子としてウリヤノフスクに生まれる。1887年に、傾倒していた兄はアレクサンドル3世の暗殺事件に連座して刑死した。自らも政治運動のために、投獄され、シベリア送りとなる。第一次大戦中はスイスからロシア共産党を指導し、大戦末期に、「封印列車」でロシアに帰国。1917年、11月〔10月〕革命を成功させ、ソヴィエト労農臨時政府の人民委員会議長に選出される。邦訳は大月書店版レーニン全集による。
レーニン『帝国主義論』(1917)は、その内容の多くをヒルファディングに負っている。だが、理論的な内容よりも、予言の的中という点で『帝国主義論』は際立っていた。レーニンの予言は二重に的中する。ひとつはソビエト社会主義の誕生であり、もうひとつが第二次世界大戦の勃発である。ここにマルクス経済学「正統」としてのレーニンの権威が作り出された理由がある。
レーニンが行った世界大戦の予言は、資本主義社会は必然的に戦争を懐胎するものというイメージを作り出した。第二次大戦後も、資本主義は好戦的な体制であり、社会主義は平和愛好的な体制であるというイメージが長く流布するのに貢献したといえるであろう。

レーニン『帝国主義論』(1917)の内容を簡単に見ておこう。 マルクスが対象にした19世紀の資本主義社会は資本家間での競争が活発に行われている自由競争の経済であった。これに対して、レーニンが対象にした20世紀初めの資本主義社会は、企業規模が大きくなり、少数の独占企業が市場を支配する状況であった。独占資本による生産の管理のうちに、レーニンもヒルファディング同様に生産の社会化を見いだすことになる。つまり、生産の社会化の一歩手前の段階に資本主義社会が到来していると判断したのである。

「競争は独占に転化する。その結果、生産の社会化が著しく前進する。とりわけ、技術上の発明や改善の過程も社会化される。これは...未知の市場での販売のために生産している経営者たちの旧来の自由競争とは、まったく異なるものである。...資本主義はその帝国主義的段階で、生産の全面的な社会化にぴったりと接近する。それはいわば、資本家たちを、彼らの意志と意識とに反して、競争の完全な自由から完全な社会化への過渡的な、ある新しい社会秩序に引きずり込む。」(p.236)
しかし、生産は社会化しつつあっても所有は私的なままにとどまっている。資本主義的な所有制度では、労働者の生活水準は上昇し得ない。すなわち、労働者の消費需要は低く押さえ込まれたままである。だから、巨大な生産力がありながら、それを発揮することは不可能である。この生産と所有との矛盾を解決する方法が、収益性の高い海外への直接投資や債券投資による資本輸出であった。こうして、もはや資本主義の矛盾は一国内では解決できず、植民地支配による帝国主義として存立せざるをえなくなったとレーニンは見た。この資本輸出こそ、レーニンが20世紀の資本主義を帝国主義として規定した理由である。
「自由競争が完全に支配していた古い資本主義にとっては、商品の輸出が典型的であった。だが、独占が支配している最新の資本主義にとっては、資本の輸出が典型的となった。....先進諸国では膨大な「資本の過剰」が発生した。....資本主義が資本主義である限り、過剰な資本は、その国の大衆の生活水準を引き上げることには用いられないで−−なぜならば、そうしてしまえば資本家の利潤が下がることになるから−−、国外へ、後進諸国へ資本を輸出することによって利潤を高めることに用いられるであろう。これらの後進諸国では利潤が高いのが普通である。なぜならば、資本が少なく、地価は比較的低く、賃金は低く、原料は安いからである。」(p.277)
このように海外に依存することでしか存立し得ない資本主義を、レーニンは「寄生的で腐朽した資本主義」と呼んだ。帝国主義は資本主義の最終段階で、まさに末期的な「死滅しつつある資本主義」であると、その滅亡が近いことを予言した。
「帝国主義のもっとも本質的な経済的基礎のひとつである資本輸出は、金利生活者層の生産からこの完全な遊離をますます強め、いくつかの海外の諸国や植民地の労働の搾取によって生活している国全体に、寄生性という刻印を押す。」(p.320)
レーニンは植民地の再分割のために、戦争が不可避であることを、すなわち、第二次世界大戦の予言であった。第一次世界大戦直後に語られたこの予言は20年後に的中する。ここにレーニンの絶対的な権威が成立することになる。
「アメリカその他の国の金融資本は、 非平和的な方法によって一変されつつある新しい勢力関係を基礎として、 世界を再分割しつつあるのではないだろうか?... いったん勢力の相互関係が変化した場合、矛盾の解決は、資本主義のもとでは 力による以外には何に求めることができようか?」(p.316)
後に、レーニンの『帝国主義論』から資本主義の「全般的危機論」が導き出され、スターリンらによって広められていくことになる。「全般的危機論」のもと、20世紀の資本主義の展開は、資本主義の矛盾の激化とその一時的な弥縫策という単純な図式で把握されることとなった。長い間、マルクス経済学の世界では、現状分析およびその理論化がこの図式に拘束されていたといえよう。

日本におけるマルクス経済学の発展
すでに見たように、ドイツ歴史学派の日本への導入は、工場法制定などに一定の役割を果たした。しかし、19世紀の日本の経済学は欧米の経済理論の輸入段階にとどまっており、特定の政策を正当化するために経済理論を利用しようとする姿勢にとどまっていた。

大正期のデモクラシーの進展は様々な思想を発展させる機会を生み出した。その一つとして学者の間ではマルクス主義への関心が生まれていた。他方、1900年代から開始される印刷工組合や鉄工組合といった労働組合の結成によって、次第に組織的な労働運動が展開されていく。1917年ロシア革命の影響もあり、両者は結びついていき、学問的研究と政治活動とが融合していくようになる。日本経済を分析する目的のために独自の経済学が発展していくようになったのは、1920年代ごろからである。日本における経済学の発展を促したのが、日本資本主義論争というマルクス経済学内部での論争であった。

■日本資本主義論争
そこで議論されるようになったのが日本の経済発展の段階をいかに規定すべきか、という実践的な問題であった。マルクスの唯物史観によれば、封建社会は市民革命を経て資本主義社会になり、資本主義社会は社会主義革命を経て社会主義に到るはずである。この発展段階を日本に当てはめるとどうなるのか。これが論争の起源であった。論争は経済学者、歴史学者を二分する日本の社会科学史上、最大の論争へと発展する。一方のグループは『日本資本主義発達史講座』(1932-33年)に結集したために「講座派」と呼ばれた。もう一方のグループは雑誌『労農』において論陣をはったために「労農派」と呼ばれた。

講座派の見解では、当時の日本はフランスの絶対王政期(ルイ14世の時代)に相当するとされた。つまり、明治維新は天皇を中心とする絶対王政を成立させたもので、市民革命ではないということになる。したがって、政治的な目標は、まず市民革命を成功させて、資本主義社会を成立させるところにおかれた。それゆえ、日本経済の根底には封建的な農業が置かれていることが強調された。こちらのグループを代表するのが、野呂栄太郎、山田盛太郎、服部之総らである。

これに対して労農派の見解では、明治維新は市民革命とされた。したがって、すでに日本は資本主義社会に到っており、次なる政治的目標は社会主義革命ということになる。労農派の論者は、日本の社会に数多く残っている封建的な要素も資本主義社会の中でやがては消滅していく残滓に他ならないと主張した。このグループを代表するのが、山川均、櫛田民蔵、向坂逸郎、猪俣津南雄らである。

■山田盛太郎『日本資本主義分析』
ここでは山田盛太郎(1897-1980)の主著『日本資本主義分析』(1934)によって、講座派の見解を眺めておこう。国際的な経済環境の中で、日本は工業化を進展させた。その過程で地主と小作農との半封建的な関係は解消しないどころか、ますます強化されることで、資本主義の経済体制に組み込まれている。また、政治体制についてみれば、天皇を中心とする官僚および軍部による強力な政治機構を生み出していた。山田は「軍事的半農奴制的資本主義」という概念によって日本資本主義を規定した。そのポイントは日本資本主義を欧米とは異なるロシアや日本に独自なタイプと見ているところにある。すなわち、労農派のように、欧米的な資本主義に向かう一時的な過渡期としてではなく、一つの類型として戦前の日本資本主義を位置づけたのである。

「英国資本主義は自由競争の祖国として現われ、独米資本主義は集中独占の本場として現われ、露日資本主義は軍事的農奴制的=半農奴制的の典型国として現われ、いずれもそれぞれ、世界史的意義を劃している。」(23頁)
山田の見解では、一方での重工業の展開と、他方での貧しい農民経済は相互補完的な日本経済の両輪であると位置づけられている。ただし、経済の主要な基盤は農村にあると見なしていた。両者の関係は次のように説明されている。海外へ進出するために強力な軍事力の維持と、軍需工業を中心とした重工業の育成が必要である。そのために必要となる資金は財政でまかなわれている。農村の高い地代にかけられる税金がこの財源となっている。それを可能とするのが、封建的な農村社会の存在である。農民は封建的な旧来の地主・小作関係に縛られることで、搾取されており、それにより地主は高い地代を獲得している。こうして工業と軍事を支える財源が農村に求められたのである。農民の低い生活水準は、結果的に工業労働者の賃金を低く抑えることに貢献した。また、軍事力は海外への進出のためだけではなく、貧しい農民たちの反乱を抑え込む装置としても機能している。これが山田の見解であった。

資本主義が発展すれば、地代も市場メカニズムによって規制されるはずである。しかし、日本の高率な地代は市場価格を反映しておらず、軍部の存在を背景とした地主の政治的な力、すなわち「経済外的強制」によって決定されていると山田は見ていた。こうした関係を山田は「半封建的」あるいは「半農奴制的」と規定したのである。

「半隷農的零細耕作農民および半隷奴的賃金労働者の地盤=供給源たる所の、厖大なる半農奴制的零細耕作土壌そのもの、それの同時的、相互規定的の、強力的な創出過程。かくの如き関係下における創出になる半封建的土地所有制=半農奴制的零細農耕は、軍事的半農奴制的日本資本主義の基本規定として現われる。」(225頁)
農   村
=経済的基底
 封建的な地主・小作関係
 →→高い地代→→→→
 →貧しい小作人
→地代を基礎にした多額の租税→
天皇を頂点とした官僚機構が支配
→重工業(特に軍需
産業)の育成
→軍隊の強大化<
対外的: 植民地分割戦争
国内的: 農村の反抗鎮圧

労農派からの講座派批判 土屋喬雄は徳川時代後期からすでに地主と小作人との間には商品経済的な関係が浸透し始めており、一部では土地の売買が行われていることを指摘した。つまり、資本主義の萌芽的な姿が明治以前に存在していることを指摘したのである。また、服部之総は幕末においてすでにマニュファクチュアが発展していたことを指摘した。向坂逸郎は山田の分析が経済を静態的に把握しているために、日本資本主義のダイナミズムを見過ごしていると批判した。労農派に近い立場にいた宇野弘蔵は、農民の貧しさを農村の封建的な性格に求めるのではなく、有機的構成の高い重工業を中心とした工業化であったために工業での労働雇用量が少なく、農村に相対的過剰人口を滞留させたことに要因を求めた。また、「半封建的」などの「半」という概念規定がそもそも概念規定上無益な概念であるといった批判も行われた。

■天皇制論
天皇制の位置づけは日本資本主義論争における重要な焦点の一つであった。山田の図式に従えば天皇は両面的な存在である。すなわち、一方では米作社会を司る存在として農村の頂点に位置し、他方では工業化を推進する近代的な官僚組織の頂点に位置することになる。この二つの経済的基盤を代表することで、国家の一体性を体現する存在たりえたのである。

軍隊は重工業を推進せんとする近代的な官僚組織の側に立つはずであった。とはいえ、軍人の大半が農村出身であったがゆえに、軍人は必ずしも「農村の反乱を鎮圧する」心情を持ちえるものではなかった。2.26事件(1936年)において青年将校たちが決起した大きな理由は、東北地方に代表される疲弊する農民の救済にあった。彼らは財閥と官僚が一体となった腐敗した権力こそが農村を窮乏へと追い込む原因であると考え、その打倒を目指したのである。すなわち、農民の反乱を鎮圧すべき軍隊の一部が、農民の心情に立って反乱を起こしたことになる。

この事件は天皇の性格を浮き彫りにする事件でもあった。よく知られるように1936年の2.26事件に際して、官僚の暗殺に激怒した昭和天皇は「朕自ら馬を引く」と、反乱軍の鎮圧に乗り出そうとした。ここにおいて天皇は窮乏にあえぐ伝統的な農村社会を代表するものではなく、冷徹な近代的官僚制の代表であることが決定的になったと言えよう。少なくとも青年将校たちはそう諦観した。第二次大戦後にクローズアップされるようになった天皇が、祭礼としての田植えに専念し、死の間際まで冷害を憂慮した天皇であったのは、1936年に捨て去った側面を回復せんとする姿だったのかもしれない。

■「日本経済論」
今日でも日本資本主義論争に決定的な解答が与えられているというわけではない。日本資本主義の段階規定という日本資本主義論争の論点は、すでに今日的な関心からは議論の対象とはなりえないといえよう。とはいえ、日本の特殊性・普遍性論争という観点で見れば、現代の論争の原型を日本資本主義論争が与えたと言うことができる。例えば、「日本的経営」は日本に特殊なものか、それとも普遍的なものか、といった論争の原型は、日本資本主義論争にあると見ることができる。