歴史学派の経済学

はじめに
18世紀後半にスミスは楽観的な資本主義像を描き出した。 スミスは自由放任を唱えることはなかったが、 市場を問題解決の場として見ていたと言うことはできる。 国内経済の問題を自由貿易によって乗り越えようとするリカードウも、 スミスの継承者ということができよう。

19世紀イギリスは世界の工場として君臨し、 古典派経済学はその体制のイデオロギーの支柱となっていた。 とはいえ、19世紀の中ほどになると古典派経済学に対抗する経済思想が登場してくる。 ここでは二つの経済思想を取り上げることにする。 そのひとつがリストに代表されるドイツ歴史学派である。 彼らは後発国の立場に立って、古典派経済学が先進国に都合の良いイデオロギーであり、 後進国には適用すべきでないことを主張した。 もうひとつが、マルクスに代表される社会主義の経済思想である。 スミスの富裕の一般化という予想に反して、 資本主義社会は大量の貧しいプロレタリアートを生み出していた。 経済は周期的な恐慌に見舞われ、1840年代のヨーロッパは各地で革命的状況が 生まれていた。 彼らは資本主義社会を否定して社会主義社会の実現を追求しようとした。

リストの時代のドイツ

フリードリッヒ・リスト:1789-1846。 フランス革命が勃発した年に南ドイツのロートリンゲンで生まれる。 テュービンゲン大学教授の職を捨てて議員となり、ドイツ統一の論陣を張るが、 急進的なリストは迫害され、1825年アメリカに渡ることを余儀なくされる。 アメリカでは『アメリカ経済学綱要』(1827)を執筆して、保護主義に理論的根拠を与える。その後アメリカ領事の資格でドイツに戻り、 鉄道建設に尽力したりするが、封建的勢力の圧力を受ける。 1846年ピストル自殺。主著『経済学の国民的体系』(1841)。 ドイツ最大の経済学者と評されることもある。革命の詩人ハイネとも交流があった。 引用は小林昇訳『経済学の国民的体系』岩波書店による。
リストの生まれたころのドイツは神聖ローマ帝国の傘下にあったが、 200以上の領邦と1500近い騎士領から成っていた。 言語こそ一つであったが、実質的に独立で、相互に対立していた。 経済的には度量衡や通貨単位はばらばらで、 領邦を通過する商品には関税がかけられていた。

フランス革命は人間が天賦の人権を有することを宣言し、民主制を王政にとってかえた。 人権宣言とは、人間社会に共通の普遍原理を宣言したものであって、 後に登場するナポレオンは、この普遍的な理念をヨーロッパ全体に軍事的に 押し広げようとしたと言える。 1812年にロシア遠征で失敗するまで、 ドイツ(ライン同盟)はナポレオンの支配下におかれた。 この過程で最大の領邦であるプロイセンが勢力を拡大していく。 政治的な統一は1871年のビスマルクによるプロシア王国を待たなければならなかったが、 1834年にプロイセンを中心にドイツ関税同盟が成立し、ゆるやかな経済的統一が生まれた。

当時のドイツはエルベ川の両側で経済の発展の違いがあった。 エルベ西側はライン地帯に代表されるように工業化が進行しつつあった。 他方、エルベ東側は「ユンカー」と呼ばれる地主勢力が、 農業経営に強力な支配力を持っていた。 ユンカーの実態は封建領主に近く、そこで働く労働者は様々な経済外強制によって、 農奴のような地位に落しめられていた。 法律的には農奴は解放されていたが、経済的に弱小な農民は結局、 土地から離れることはできずユンカーのもとで、農奴と同じように働かされていた。 そこでは、賃金が現物で支給され、かつての賦役と同様に、 ユンカーの所有地を耕作させられていた。 エルベ東側は西ヨーロッパへの穀物輸出地帯となっていた。 ユンカーは農民を過度な労働を課して安価に生産された穀物を輸出することで 大きな利益をあげていた。ユンカーは当然、自由貿易を主張することになる。

ユンカー: 19世紀前半のプロイセン、とりわけエルベ川東部における大土地所有の保守的貴族層を指す。農奴解放後もユンカーは経済外的な諸特権(僕婢奉公の強制、団結禁止権、領地内警察権など)にもとづいて、封建的な色彩の強い雇用関係を農民との間に結んでいた。ドイツを統一したプロイセン軍部はユンカーにより掌握されていたために、帝国統一後も大きな政治的影響力を行使することができた。第二次大戦後の土地改革によってユンカーは一掃される。
エルベ西側のライン地方をはじめとする工業地帯は、 工業生産力の点ではイギリスやフランスから見ればはるかに遅れた状況であった。 競争力はまだ弱く自由貿易を実行すれば、間違いなくイギリスやフランスの製品の輸入によって、 発展しつつあった工業は壊滅するであろう、という危機的状態であった。 それゆえ工業地帯は保護貿易を望んだのである。

関税同盟の中心であったプロイセンは、東部の穀物輸出地帯を主な領域としていた。 そのために、関税同盟は低い関税を採用することとなった。 その結果、産業革命を完成しつつあったイギリス製品が大量に輸入され、 ドイツの新興産業、とりわけ繊維工業は大きな打撃をこうむった。

リストにおけるアメリカとドイツ
リストがアメリカを訪れた1825年はアメリカ体制学派の経済学が確立しつつあった時期である。アメリカ体制学派の起源は、A.ハミルトン(1757-1804)に遡ることができる。ワシントン政権期の初代財務長官に就任したハミルトン(1789)は、建国期アメリカの様々な経済問題に直面する。独立戦争の戦費調達のために起債した連邦債の償還や、連邦政府の財源確保、製造業の保護育成といった課題である。これらに対してハミルトンがとった政策を「ハミルトン体制」と呼ぶ。その骨子は幼稚産業の段階にとどまっていた工業に対して新興政策と保護関税によって保護・育成を実行し、農業と歩調のとれた発展を促すことで、国内での農業と工業との相互的な需要を増大させながら経済発展を図ろうとするものであった。このハミルトン体制に経済学的な根拠付けを与えようとしたのがケアリ(1760-1839)とレイモンド(1786-1849)であった。彼らは国民が繁栄するためには、保護貿易と経済管理によって生産力を上昇させる必要があることを主張した。

リストはイギリスの工業製品の流入にさらされつつあったドイツと同じ課題をアメリカに見出すことになる。アメリカでは、保護貿易を主張する北部工業地帯の利害と、自由貿易を主張する南部農業地帯の利害との対立が存在していた。この対立の中で、リストは北部工業地帯の利害を擁護することになる。そのきっかけとなったのが、保護貿易の推進団体であったペンシルヴェニア工業・技術促進協会から依頼された『アメリカ経済学綱要』の執筆である。体制学派の中心的な論者となっていく。

「アメリカ合衆国は、それ以前の他のあらゆる国民よりも多くの利益を貿易の自由から引き出せる立場にあり、その独立の当初にすでに世界主義的学派の学説に影響されていたので、他のあらゆる国民よりもこの原理を模範としようと努力した。しかし、この国民がイギリスとの戦争によって2度にわたり、自由貿易の場合に他国民から買い付けていた工業製品を自分で製造しなければならなくなり、平和状態がおとずれた後には2度にわたって、外国の自由競争によって破滅の淵に追い込まれたために、そこから次のことを我々は警告されたのである。すなわち、現在の世界状勢では、大国民はすべて、永続的な繁栄と独立との保障を、何よりもまず自国の諸力の自立的で均衡的な発展に求めなければならないということである。」(『国民的体系』177頁)
同じ視点が帰国後に書かれた『経済学の国民的体系』でも展開されることになる。 ドイツにおいても競争力の低い工業を発展させるためには、保護貿易によってイギリスなどの競争から国内産業を保護する必要があった。 同時に、封建的な状態に縛り付けられている農民を解放して、近代的な農民を形成する 必要があった。それは近代化のプロセスであると同時に、 工業製品に対する需要者の形成という点では、国内市場を充実させるという意味があった。

つまり、国内的には封建的勢力と対抗し、国外的にはイギリスと対抗することが リストの課題であった。 両者を結びつけている自由貿易というイデオロギーを反駁することが、 リスト経済学の中心的な課題となる。

自由貿易と国民経済学
産業革命をなしとげたイギリスやフランスの普遍主義は、はたして後発国ドイツの現状に当てはまるのであろうか。リストによれば、古典派経済学は全人類がいかにすれば幸福になるかを教える科学であった。リストも経済が発展していくならば、いつかはスミスの主張する自由競争や自由貿易となるであろうことを認めている。しかし、リストに言わせれば、スミスの議論は国ごとの発展段階を無視した議論である。 リストはそれを「世界主義経済学(kosmopolitische Oekonomie)」と呼ぶ。 リストは交換価値を主要な対象とする世界主義経済学に、 生産力を主要な対象とする「国民経済学」(別名「政治経済学」)を対置する。

「人間の社会は二重の観点から見ることができる。すなわち、全人類を視野におく、 世界主義的観点によるものと、特別な国民的利益や国民的状態を考慮する政治的観 点によるものとである。それと同様に、個人の経済と社会の経済とを問わずあらゆ る社会は二つの観点から見ることができる。すなわち、富を生み出す個人的、社会 的、物質的諸力を考慮する場合と、物質的諸財の交換価値を考慮する場合とである。 /こういうわけで、世界主義的経済学と政治経済学、交換価値の理論と生産諸力の 理論とがある。それらは本質的に異なり、独立に発展させられなければならない。」 (『国民的体系』56頁)
「世界主義経済学」、すなわち自由貿易を理念とするイギリス古典派経済学を、 「自分の科学に与えた政治経済学という名前にもかかわらず、国民国家の性質を全く無視 し」ているとリストは批判する(246頁)。 この学派の欠陥は、「やがては成立するはずの状態を現実に存在していると見なした」 上で、そこから「自由貿易が大きい利益をもたらすという結論を引き出した」(190頁) 点にある。
「世界の現状のもとでは一般的自由貿易から生まれるのものが、 世界共和国ではなくて、支配的な工業・貿易・海軍国の至上権に おさえられた後進諸国民の世界的隷属より他にないということは きわめて強い根拠が、しかもわれわれの見解では、くつがえすことの できない根拠がある」 (『国民的体系』190頁)
「イギリスの国民のようにその工業力が他のあらゆる国民を大きく陵駕している国 民は、その工業・貿易上の支配権を、できるかぎり自由な貿易によって最もよく維 持し拡大する。この国民の場合には、世界主義的原理と政治的原理とはぴったり同 じものである」(『国民的体系』62頁)
しかし、イギリスとて、その歴史を振りかえれば、航海条例やキャラコ輸入禁止など さまざまな保護貿易や産業保護によって現在の地位を築いたのである(107-111頁)。 アメリカを見れば、製造業の保護があったからこそ、北部諸州で木綿工業が興隆できた のである(160-162頁) すなわち、自由貿易を普遍的に正しい政策と考えるのは、歴史的な経験に照らせば、 誤りであることは明らかである。

温帯の地域では、未開状態→牧畜状態→農業状態→農・工業状態→農・工・商業状態 へと経済発展していくとリストは考えた。 しかし、各国が同じ経済発展段階になければ、 農業状態から農・工・商業状態へと自然と移行できるわけではない。 後進国は関税制度によって工業化を推進する必要がある。 その結果、最終段階に達したならば、自由貿易に切りかえることが正しい政策であるとしている。 つまり、単純な自由貿易否定論を唱えていたわけではない。 「保護貿易が是認されるのは、国内工業力の促進と保護とを目的とするときに かぎられ」ると、保護貿易に厳しい制約を課しているのである(364頁)。

国民的生産力
リカードウが説いたように、自由貿易が貿易国双方にとって利益をもたらすこと、 そして保護貿易は当面の利益を損失させることを、リストも認めている。 しかし、将来の生産力を育成するためには、現在の利益を犠牲にすることが 必要であると説いた。テキストにあるように、 「富を作り出す力は富そのものよりも無限に重要である」と考えたのである。

「国民は精神的ないし社会的諸力を獲得するためには、物質的財を犠牲にして、そ の欠乏を忍ばなければならず、将来の利益を確保するためには、現在の利益を犠牲 にしなければならない。」(『国民的体系』208頁)
「保護関税によって国民がこうむる損失は、いつの場合でもただ価値に関するもの であるが、その代わりに国民は諸力を獲得し、これを使っていつまでも莫大な額の 価値を生産することができるようになる。したがって、価値のうえでのこの失費は、 もっぱら国民の工業的育成の費用とみなすべきものである。」(『国民的体系』63頁)
それでは生産力をどのように把握していたのであろうか。 リストが問題にする「生産力」は個々の産業の生産技術にとどまらず、 産業の結合を重視する。 そこでは交通や通信の発達は言うまでもなく、スミスが不生産的労働と位置付けた 領域をも包含されており、むしろ精神的諸力の方が重視されていると言えるほどである。
「生産諸力の増大が、作業の分割と個人的諸力の結合との結果、 個々の工場にはじまって国民的結合にまで高まってゆくしだいを 注目されたい。 ...一つ一つの工場の生産力は、その国の全工業力があらゆる部門にわたって 発達していればいるほど、またこの工場が他のあらゆる工業部門と密接に結合して いればいるほど、いよいよ大きい。 農業生産力は、あらゆる部門にわたって発達した工業力が地域的、商業的、政治的に 農業と密接に結びついていればいるほど、いよいよ大きい。」 (『国民的体系』216頁)
「国民の中での最高の作業分割は、精神的作業と物質的作業との分割である。 両者は相互に制約し合う。 精神的生産者が、道徳性、宗教心、啓蒙、知識の増大、自由と政治的改善との普及、 国内での生命財産の安全、国外へ向けての国民の努力と勢力などの促進に貢献する ことの多ければ多いほど、物質的生産はますます大きくなるであろうし、 物質的生産者が財を生産することの多ければ多いほど、それだけ精神的生産は促進 されうるであろう。」 (『国民的体系』223頁)
スミスは分業を強調したが、それに対抗するかのようにリストは結合を重視する。 だから生産力は「作業の分割ではなく、むしろ、個々人を一つの共同の目的のために精神的、肉体的に結合すること」(57頁)と強調していうるのである。 注意すべきは、たんなる農業や工業といった経済的な分業および結合だけではなく、国民を結合させる政治制度まで生産力に組みこまれている点である。 生産力の中に国家統一というドイツの課題が組み込まれていると言っていいだろう。 それゆえ、リストは生産力を「国民的生産力」として規定することになる。 言い方をかえれば、「結合」の総括として国家がい続けられているのである。
「国民はその生産力を、個々人の精神的および肉体的諸力から、 あるいは彼らの社会的、市民的、政治的状態および制度から、 あるいは彼らの自由にできる自然資源から、あるいは彼らの所有している 用具、すなわち以前の精神的および肉体的努力の物質的産物から汲み出す。」 (『国民的体系』283頁)
「個々人がどれほど勤勉、節約、独創的、進取的、知的であっても、国民的統一がなく国民的分業および国民的結合がなくては、国民は決して高度の幸福と勢力とをかちえないであろうし、またその精神的・社会的・物質的諸財をしっかりと持ち続けることはないであろう。」 (『国民的体系』57頁)
リストが唱えた包括的な「生産力」の規定はドイツ歴史学派に継承されていく。 今日の主流派経済学の目からは、こうした規定は経済学の範囲を逸脱しているようにも 思われるであろう。 しかし、外部経済を問題にした新古典派の大成者マーシャルも、 狭義の技術にとらわれない生産力の視点を、歴史学派から継承している。
リストの生産力の理論は、イギリスに対する後発国ドイツが持っていた 様々な解決すべき課題を要約したものと言えよう。

農工均衡発展論
すでに見たようにリストは農業と工業との結合を重視していた。つまり、リカードウ貿易論が含意していたような工業への特化という目標を好ましいとは考えていない。農業・工業・商業の均衡のとれた発展をリストは目指そうとしていた。そのために、農業と工業との利害の一致をリストは主張する。

「保護政策が国内工業のためをはかって工業製品の消費者には不利益となり、ひとり工業家だけを富ませるものだとすれば、この不利益は主として、こういう消費者の中の一番多数で重要な階級である地主と農業者とが負うに違いない。ところが、この階級にとってこそ、工業の勃興から生まれる利益は工業家自身にとってよりもはるかに大きい、ということが立証される。なぜならば、工業によって、いっそう多様でいっそう大量の農産物に対する需要が創り出され、この農産物の価値が高められ、農業者はその土地とその労働の諸力とをいっそうよく利用することができるようになるからである。」(『国民的体系』294頁)
ここでリストは原料供給部門あるいは工業労働者の消費財供給部門として、農業に対する需要の側面から工業を見ている。だが、リストは農業による工業製品の消費にも着目していた。つまり、農業と工業が互いに生産物を需要しあいながら、発展していく国家を構想しているのである(類似の議論としてマルサスの農工均衡発展論がある)。こうした議論は『国民的体系』の続刊として1842年に刊行された『農地制度論』で詳しく展開された。

工業保護だけではなく、ドイツ東部あるいは南部に残されていた封建的体質の農業を近代化することもリストの課題であった。そこでは、均分相続制度が生み出した零細経営の農民が沢山おり、彼らは「塩なしのジャガイモと脂肪抜きの牛乳とで暮らす」と言われていた。こうした小規模の農業を適正規模にすることで生産性の上昇と農民の生活水準の上昇を構想したのである。ただし、リストはイギリスで進行していたような、農業の資本主義化(=農民層分解)には問題があると見ていた。農業プロレタリアートの増大による階級闘争の激化を懸念していたからである。工業においては不可避的に労働者階級は増大し、階級間の対立は強まっていく。そこで、家族的な中規模経営による農民を育成することで、社会のプロレタリア化への対抗勢力が生まれることに期待したのである。

中小規模の近代的な農業(近代的な独立自営農民)の創出をリストは目指そうとした。「豊かで教養があり、しかもそれによって自立している中産階層」へと農民が近代化され、政治的な担い手になることが期待されたのである。そのために、(1)国有地や村有地を売却して私有地にすることで農地面積を拡大すること、(2)分断され、入り組んでいる耕地を整理すること、(3)過剰な農民を商業や工業に吸収させること、(4)過剰な農民をハンガリーからバルカンにかけての国外移民を組織的に行うこと、などを提案した。

リストの現代的意義
今日的な視点から見ると、以下の2点がリストの現代的意義として指摘できるであろう。

(1)自由貿易帝国主義の告発。 自由貿易のイデオロギーの下に世界のイギリス支配体制が作り出されつつあることを リストは見抜いていた。 自由貿易により先進国の経済体制に組み込まれ、後進国の経済発展が阻害されるという 考え方は、20世紀の従属理論や世界システム論と共通する視角に立ったものである。

今日の精緻化された貿易理論において、消費パターンの変化や技術進歩の可能性などの 経済発展の要素を盛り込んだ場合には、 交易条件が一方的に悪化していくケースがあることが知られている。 とりわけ、農業に特化した発展途上国にそうした悪化がおきやすい。 経済成長のメリットを交易条件悪化のデメリットが上回ることさえありうる。 これは「窮乏化成長」と呼ばれる事態で、バグワティ(J.Bhagwati)によって主張された。 (詳しくは、天野明弘『貿易論』などを参照されたい)。 リストは理論化することこそなかったが、直感的にこのような事態が生まれることを 認識していたことになる。

自由貿易体制の拡大は、歴史的に様々な対抗運動を引き起こしてきた。 2001年4月にWTOの拡大に対するケベックでの暴動以来、先進国の労働者なども巻き込んで、毎年のようにサミット批判などが繰り返されている。

(2)資本主義の多様性の認識。今日では先進資本主義国だけをとりあげても、 均質な資本主義というシステムがあるのではなく、 制度や慣行に大きな相違があることが指摘されている (例えば、アルベール『資本主義対資本主義』における 英米の「アングロサクソン型資本主義」と日独の「ライン型資本主義」との対照など)。 リストが単に非アングロサクソンの視角に立っていたというだけではなく、 「経済」が様々な社会的要因に支えられているという視角を持っていたことは、 資本主義の多様性の認識へと連なる性格であったと言えるであろう。