古典派経済学の成立

はじめに

自己の利益を追求する人間が活動する場、それが市場である。すでに見てきたように、こうした人間活動を容認していく方向で経済学は形成されていく。その画期となったのがアダム・スミスである。

ここでは時代を少々遡って、スミスの経済思想の形成に大きな影響を与えたマンデヴィルを取り上げることにする。マンデヴィルを通じて、当時の人間がどのように市場経済を見ていたかを確認してもらいたい。

『蜂の寓話』
マンデヴィルが登場したのは、商業社会がもたらした負の側面である金権腐敗が蔓延していた時期であった。

マンデヴィル 1670-1733:オランダ生まれ、1691イギリスに帰化。医学 と哲学を学び、ロンドンで活躍。主著『蜂の寓話−私悪すなわち公益』(1714) がセンセーショナルな反響をまき起こす。 学派としては後期重商主義に入る。 以下、引用は泉谷治訳『蜂の寓話』、『続蜂の寓話』(法政大学出版局)による (「2」と記入してあるのは『続』である)。
■私悪(Private Vices)すなわち公益(Public Benefits)
『蜂の寓話』は、冒頭に蜂の巣を描いた風刺詩がある。 そこでは、個々に蜂たちが私欲と私益の追求にあくせくしているが、 巣は全体として豊に富み、力強い社会生活が営まれている。

「ある広々とした蜂の巣があって
奢侈と安楽に暮らす蜂でいっぱいだった。
....
蜂の大群が多産の巣にむらがり
かえってそのために繁栄していた。
おたがいの渇望と虚栄とを
満たそうとして何百万もが努力し、
他方さらに何百万もの仕事は
製作物の破損をめざすことであった。
彼らは世界の半分に供給するだけなのに
仕事に労働者が追いつかなかった。
莫大な資本でほとんど苦労もなく
利得の大きい事業に飛びこんだ者もいた。
またある者はのろわしい大鎌や鍬や
ひどくすべて骨の折れる商売が定めで、
哀れな連中が毎日すすんで汗を流し
食うために体力と手足を使いつくすのだ。」(11頁)

「かように各部分は悪徳に満ちていたが
全部そろえばまさに天国であった。
平時にこびられ戦時に恐れられ
彼らは外国人の尊敬の的であり、
富や生命を惜しまなかったので
他のあらゆる蜂の巣の均衡を保った。
その国家への天恵はじつに大きくて
罪の偉大な国民をつくるのに手をかした。
そして美徳は国家の政策から
巧みな策略を数多く学びとり、
そのめでたい影響力によって
悪徳と親しい間がらになった。
それからは全体でいちばんの悪者さえ
公益のためになにか役立つことをした。」(19頁)

「こうして悪徳は巧妙さをはぐくみ
それが時間と精励とに結びついて、
たいへんな程度にまで生活の便益や
まことの快楽や慰安や安楽を高め、
おかげで貧乏人の生活でさえ
以前の金持ちよりよくなって
足りないものはもうなかった。」(22頁)

マンデヴィルのおどろきは、個人の意図と全体の結果との食い違いにある。 個々の蜂は全体のことなどおかまいなしに、自分のためにのみ働いている。 しかし、社会全体の利益をもたらすという、意図せざる結果を生み出している。 この意図せざる結果という議論は、後のスミスやヒュームへと継承されていくことになる。

分業の体系

マンデヴィルは「誰もが飲み食いしなければならないことが、市民社会のきずなになっている」(2、370頁)と述べている。つまり、人々の道徳的な行動、すなわち慈悲心や利他心にもとづく行動ではなく、利己心にもとづく自分のための行動が市民社会を成立させるというのである。この当時の道徳観からいえば、利己心は道徳的には悪徳に分類されるものであった。

「人間が理性や自己抑制によって獲得できる真の美徳も、社会の基礎ではなくて、 道徳的にせよ、自然的にせよ、いわゆるこの世で悪徳と呼ばれるものこそ、 われわれを社会的な動物にしてくれる大原則であり、例外なく全ての商売や職業の 堅固な土台、生命、支柱である。....悪徳が消滅するとすぐに社会はたとえ完全に 崩壊しないにせよ、台無しになるに違いない。」(340頁)

「悪徳」(=欲望、利己心)が社会を支えているという認識は、後のスミスの議論と極めて類似している。さて、マンデヴィルの社会の把握の仕方を詳しく見てみよう。欲望が社会の土台をなしており、その上で行われている分業と生産物の交換(労務の交換)という上部構造によって市民社会が成立している。これがマンデヴィルが把握した社会構造である。

「貨幣は当然のことながら、あらゆる悪の根源だと言われ、著名な道徳家や風刺家は 必ずそれをあざけった。...しかし、市民社会の秩序や組織や存在自体にとり、 これほど不可欠なものを他にあげることはできない。 というのも、市民社会がまったく僕たちの多様な欲望を土台として築かれているように、 その上部構造(superstructure)全体は、お互いにたいしてなされる相互的な労務からできている。 必要なときに、いかにしてこういう労務を他人にしてもらえるかということは、 各個人のこの世における大きなほとんど変わるところのない心配だ。」(2、369頁)

欲望の広がりが分業を生み出すというだけではなく、分業による生産力の上昇も認識している。こうした議論はほとんどスミスの議論(ピン製造所の事例)を先取りしているといってもよいだろう。

「もし、一人目が弓矢を作ることにもっぱら専念して、 他方で二人目が食べ物を供給し、三人目があばら屋を建て、四人目が衣類を、 五人目が道具を作るならば、彼らは互いにたいして役立つようになるだけではなく、 職業や仕事そのもの、五人全員が行き当たりばったりにすべてに従事する場合よりも、 同じ年数ではるかに大きな向上を得るだろう。」(2、300頁)

有効需要論

マンデヴィルはスミスの先駆者といえる側面を数多く持つが、スミスとは対立する主張も行っている。その一つが節約の否定である。マンデヴィルは「奢侈はそれにふけるすべての個人と同様に、全政治体の富を破壊する」という通説を批判する(102頁)。奢侈や浪費があるからこそ雇用が生み出されるというのである。 素朴な形ではあるが、有効重要論を展開していると言うことができる (事実、ケインズはマンデヴィルの浪費論を高く評価している)。

「〔ぶどう酒〕商人の一番依存しているのが、浪費と暴飲であることは否定できない。 なぜなら、ぶどう酒は必要な者しか飲まないとか、誰でも健康をこわすほど飲まない というのであれば、この繁栄する都市ロンドンでかなりの壮観を呈しているあの大勢の ぶどう酒商人、ぶどう酒卸商、ぶどう酒屋などは、みじめな状態になるだろうからである。同じことは、多数の悪徳に直接つかえているトランプ製造人やサイコロ製造人についてだけでなく、自負と奢侈が国内からただちに追い払われるとするならば、半年で餓死するであろう呉服屋や家具商や仕立て屋その他に当てはまる。」(80頁)
「節約は正直と同じでみすぼらしくひもじい美徳であり、安楽であるためには 貧乏にも甘んじるという、善良で温和な人間が住む小さな社会にのみふさわしい。 しかし、大きな躍動する国家においては、すぐにそれに耐えられなくなるであろう。 それは人手を使わない無益で夢想にふける美徳であり、したがって、 大勢の者がいずれにせよ全員仕事をさせられなければならない商業国においては、 きわめて役に立たないものである。」(98頁)

「自生的秩序」論

20世紀の経済学者ハイエクによって注目された「自生的秩序」という考え方がある。 それは、人間の意図や設計によるのではなく、例えば市場のような場所で個々人が 自由に行動することによって、全体としての秩序が次第に形成されてくる、という 考え方である。ハイエクは自生的秩序論の先駆者としてマンデヴィルを高く評価する。

しかし、マンデヴィルを自生的秩序論者とするには、やや問題がある。 そもそも、『蜂の寓話』の序文で、 「各個人の悪徳こそ、巧みな管理によって」全体の幸福に役立つ(5頁)と 「管理」が必要なことを断っている。 マンデヴィルは政府について次のように言っている。

「それゆえどんな政府でもまずはじめに留意すべき点は、人間の怒りが害をおよぼす時は 厳しい処罰によってそれを抑制し、彼の恐れを増大させて怒りから生じるかもしれない 災いを防ぐことである。暴力の行使を禁じるいろいろな法律がきちんと執行されると、 自己保存のためにおとなしくしていることを教えられるにちがいない」(189頁)
ホッブズ同様に、恐怖による統治が社会成立の始源に置かれているのである。すなわち、統治が生み出した従順な人間を前提にして秩序形成が議論されているのである。こうした考え方を「自生的秩序」と呼ぶには無理がありすぎる。ちなみに、後のスミスの場合は、対等な人間と人間との関係から社会性が生まれてくるプロセスを「同感論」によって説明しており、自生的秩序と呼ぶにふさわしい論理構造になっている。

さらに、後期重商主義者らしく、政府が留意すべきものとして、「できるかぎり多くの製造業、技芸、手工業を促進させること」と「あらゆる領域における農業や漁業を奨励すること」(180頁)という産業促進策を奨励している。この点でもスミスと異なることは明らかであろう。