歴史学派の経済学 続き

ドイツ・マンチェスター学派
19世紀半ばのドイツの大学において優位を占めていたのはリストの経済学ではなく、イギリス古典派の流れを汲む自由主義的な経済学であった。彼らは自由貿易のメッカであったイギリスの工業都市マンチェスターの地名から、ドイツ・マンチェスター学派と呼ばれていた。ドイツ・マンチェスター学派はスミスやリカードウ以上に経済への国家干渉を嫌っており、国家の役割は国防と治安に限定すべきであると考えていた。そのために、彼らの国家観は「夜警国家」と呼ばれる。封建的な制度・思想が依然として強いドイツにおいて、急速に市場を押し広げることで近代化を遂げようとする思想的な表明であったと見なすことができよう。

資本主義の発展段階の相違: 経済政策を基準にして資本主義の発展段階を、重商主義段階、自由主義段階、帝国主義段階と区分することがある。イギリスについて見るならば、重商主義段階とは重商主義政策が実行された段階で、自由主義段階は経済政策としては積極的な政策をとらない段階である。すなわち、政府主導の産業育成や保護貿易を行わない段階ということになる。時期的には産業革命期から1870年ごろまでで、その学説的な表現が古典派経済学ということになる。19世紀末以降は寡占や独占が広まりはじめ、農業関税や工業関税といった経済政策による調整が図られるようになり、対外的には対外投資にともなう植民地獲得競争が展開されていく。この段階になると、労働者階級の境遇改善や階級対立の緩和を目的とした社会保険や労働条件の整備が行われ、義務教育制度なども整備されていく。さて、イギリスのような発展段階はアメリカなどにはある程度妥当するが、ドイツや日本には必ずしも当てはまらない。ドイツには自由主義段階と呼びうる時期がない。すなわち、イギリスの段階を当てはめるならば、重商主義段階から帝国主義段階へとつながっているということになる。ドイツ歴史学派は一面では重商主義的な性格が強い。事実、リストにせよシュモラーにせよ、イギリス重商主義を高く評価している。同時に、とりわけシュモラーのような新歴史学派はイギリスに先駆けて、帝国主義段階の政策を展開しようとしたと見ることもできる。

旧歴史学派と経済学の方法
リストによって生み出されたドイツ歴史学派は、ロッシャー(1817-94)、ヒルデブラント(1812-78)、クニース(1821-98)らに引き継がれていく。後に「旧歴史学派」と呼ばれるようになる。学問の方法の相違を強調することで、ドイツ・マンチェスター派に対抗しうる経済学を整備しようと試みていく。

古典派経済学は少数の仮定から理論を演繹的に作りあげようとした。彼らは市場における個人(原子的な個人)が利己心に基づいて行動することで市場に秩序が生まれ、経済活動が営まれていくと考えた。古典派経済学は普遍的な性格を持つ理論を追求していたと言える。これに対して、(新・旧)歴史学派は歴史記述的な性格が強い。法則を問題にする場合も、演繹的に法則を導くのではなく、歴史的経験から法則を帰納しようとした。また社会は個人の総和以上のもので、それぞれの国家の制度や思想・文化などが形成する個人という捉え方をする場合が多い。

■ロッシャー
ハノーヴァーに生まれたヴィルヘルム・ロッシャーはゲッティンゲン大学で学び、『歴史的な方法による国家経済学要綱』(1843)を著す。ロッシャーが構築しようとした「国家経済学(Staatswirtscahft)」は、政治学、法学と密接に結びついた学問であった。それは、個人を越える有機的な社会を対象とする「経済学」である。ロッシャーはリカードウの演繹的な経済学の方法を、抽象的・観念的な方法と批判した。経済が現在に到ったプロセスを把握することで、はじめてその国の国民の思想、経済的達成を説明できると考えた。そのために経済学の基盤を歴史研究に求めている。ただし、歴史記述を目標とはしていない。彼は生物学が進化法則を生み出したように、「国家経済学は国民経済の進化法則に関する学問である」と述べている。

国民経済の発展を幼年、青年、成年、老年の4段階になぞらえて、文明の発展が原始−文明−原始のサイクルをとるものとした。文明の発展段階は、自然・労働・資本の生産の3要素のいずれが支配的になるかで決まるとロッシャーは説明している。自然が支配的な段階が古代で、労働が支配的な段階が中世で、資本の支配的な段階が近代であるとした。近代は文明の最高段階であるが、有機体同様に衰退していく、やがて自然が優位な段階に進み、老年期を迎え原始に戻るとされた。

ロッシャーは大著『国民経済学体系』(1854-94)において、ヨーロッパにおける農業、商工業、財政、社会政策の諸制度を網羅的に記述した。それは政策的な知識を提供する百科事典的な体系であった。こうした姿勢は、後の「新歴史学派」へと継承されていく。

シュモラーと新歴史学派
1873年に結成された社会政策学会に結集した歴史学派を、それ以前のロッシャーたちと区別するために、「新歴史学派」と呼ぶ。その代表がグスタフ・シュモラーである。

シュモラー(1838-1917):リストと同じく西南ドイツに生まれる。チュービンゲン大学で学び、官吏となる。一時期、自由貿易論を賛美し、小冊子を刊行する。1872年ストラスブルクで経済学の教授となる。この時期に、ツンフト(ギルド)に関する実証研究を行い、ドイツ・マンチェスター派のトライチュケと論争する。シュモラーは当時台頭してきた階級闘争による社会変革という主張には賛成せず、国家による社会政策をもって社会の調和を生み出すべきだと考えた。主著『一般国民経済学綱要』(1900-04)。引用は1893年に刊行された『国民経済、国民経済学および方法』(田村信一訳、日本経済評論社)。
■シュモラーの時代
1830年ごろから、関税同盟(加盟国間の関税廃止・対外関税の統一)という形で次第に経済的に統一されていた。政治的には軍備を増強してオーストリアやフランスとの戦争に勝利したプロイセン主導で統一がはかられていき、1871年にドイツ帝国として統一される。この時、首相として活躍したのがユンカー出身のビスマルク(1815-1898)であった。 この時期のドイツは産業革命がほぼ終了し、重工業がすでに発展しつつあった。 プロイセンの経済的基盤は、重工業資本家層とエルベ東部のユンカーたちとの妥協であった(鉄と小麦の同盟)。 リストが予想したように、工業化の進展は労働運動を激化させてゆく。労働者階級はマルクスの影響を受けながら、階級闘争による社会変革を模索していく。1875年には社会主義政党であるドイツ社会民主党SPDの母体となる政党が誕生する。

ドイツは短期間で重化学工業化を押し進めることに成功する。次第に農業も保護主義的要求を強めていく。こうして、ユンカー階級と独占体となっていた重工業の保護主義の利害は一致していく。ユンカー出身であったビスマルクは、もともとは自由貿易政策を擁護していたが、やがて農業と重工業の利害を体現していくようになる。ビスマルクが採用したのが、いわゆる「飴と鞭」の政策による体制の統一であった。すなわち、一方で、ドイツ社会主義労働者党の台頭に際しては、1878「社会主義者鎮圧法」によって弾圧を加え、他方では社会保険立法(疾病保険や養老保険)を整備した。

■シュモラーの重商主義評価
シュモラーは『重商主義の歴史的意義』(1884年)において、それまでアダム・スミスなどによって否定的に扱われていた重商主義を積極的に評価した。村落経済→都市経済→領邦経済→国民経済という発展図式を考えた。ここでシュモラーが強調したのは、村落経済や都市経済から領邦経済への発展に果たした領主の役割である。領主こそが、村落や都市レベルではなく、領邦単位での貨幣の流通や租税制度を生み出したとシュモラーは主張する。アダム・スミスは封建領主の武力が経済の発展を阻害したことを強調し、商品経済の発展こそが経済発展の原動力であったと強調した。シュモラーはこうした考え方に意を唱えたことになる。

シュモラーはこうした議論の延長上に、ドイツが西ヨーロッパ各国に対して経済発展が遅れた理由を求めている。すなわち、各領邦間の利害の調節を図ることができず、統一的な国民国家の建設が遅れたために、ドイツの経済発展が遅れたと考えたのである。シュモラーは個別利害を超越して全体の利害(=国民経済の利害)を追求したのが、西ヨーロッパの重商主義政策であったと主張した。「重商主義はその真髄においては国家形成に他ならず、しかも国民経済の形成に他ならなかった」。こうしたシュモラーの重商主義観はユニークな見解である。

■最高の統一体としての国家
古典派(および新古典派)経済学においては、個人の総和として経済社会が考察される。ここで前提とされる個人は、自己利害の単純な損得勘定(=効用計算)にもとづいて行動する個人である(原子的個人の総和としての社会)。これに対してシュモラーは国家という全体に規制された個人(=国民)という前提から出発する。

「国民とは、言語と血統、慣習と道徳によって統合され、多くの場合はさらに法と教会、歴史と国家制度によって統合された多数の人間集団であって、彼らは、他の諸国民とよりもはるかに緊密な紐帯によって結び付けられている。この紐帯は、近代の国民言語や国民文学によって、また今日の学校教育、新聞、世論によって絶えず増強させられている。かつては家族・自治団体・氏族の成員の間でのみ強固な内面的・心的な連帯感が存在したが、今日ではそれは国民の間に生じている。統一的感情の総体が国民に生命力を与え、統一的観念の総体が国民的意識に入り込み、われわれが統一的な国民精神と名づけるものを作り出す。それは統一的な慣習、努力、意志的活動のなかに現れ、すべての個々人の行為と衝動を経済的側面においても支配する。社会の精神生活における多くの領域の中で...国民という言葉で呼ぶ領域が最高かつ最強である。」(10頁)
■帰納的方法
古典派(および新古典派)は、少数の心理学的前提のもとに行動する個人から経済社会を想定した。それゆえ、彼らの経済学は少数の前提から演繹的に導出された学問となる。これに対して、シュモラーは現実の人間が国民という複雑な社会関係に規制されている個人であるがゆえに、そこから経済社会を演繹できないと批判する。シュモラーが重視した経済学の方法は、帰納法である。具体的には、歴史と統計を重視した。
「イギリスにおけるスミスのエピゴーネンのように、政治経済学はほぼ完成されていると考える人にとって、もちろんそれは純粋な演繹的科学である。バックルは自己満足して『政治経済学は本質的に幾何学と同じ演繹的科学である』と大風呂敷を広げた。もし、われわれの学問の完成度の低さを知っている人が同じ発言をしたら、ただ驚くほかはない。もっともその場合に彼らが考えているのは比較的単純な問題や、交換論・価値論・貨幣論といったわれわれの学問の完成した部分のことなのである。そこでは、一つないし若干の心理的前提からの演繹によって主要な現象を説明できる。しかし、例えば、社会問題のような複雑な現象を研究している人は、ここではなお帰納を大いに必要としていることを明確に認識するであろう。」(136頁)
経済学に演繹的な部分があることをシュモラーは必ずしも否定していたわけではない。しかし、演繹的な部分が軽視されていることは否定できない。こうしたシュモラーの姿勢は、新古典派経済学の創始者の一員であったメンガーの目からは法則定立的な学問としての経済学を否定するものと映じたのである。

■倫理的方法
文化的共通性、言語、歴史、理念は長い歴史の中で個人のエトス(倫理的生活秩序)を形成してきたとシュモラーは主張する。したがって、経済学から倫理的要素は排除することはできないとした。ここで注意すべきはシュモラーのいう「倫理的 sittlich」という言葉の意味である。ここには歴史的に形成されてきた慣習や風習も含まれるのである。例えば、食欲を満たすために好き勝手に食事をとったりしない。社会的な明示的・暗黙的な規制にのっとりながら、時間的・空間的な制約を受けて、そして礼儀作法にしたがって食事をとる。つまり、食欲という利己的本能を儀式化し、修正することで社会生活が営まれているのである。経済活動とて同じであるとシュモラーは考えている。つまり、単純な損得勘定だけで実際の経済活動が行われているのではないとする。

「今日、政治的・国民経済的議論の中で行われているように、自由とか正義とか平等とかを、そこから非情で厳密な論理によって正しい行為を演繹的に導出できる孤立した最高原理と主張する人は、倫理的命題の意味を誤解している。それは行為者の念頭に置かれている導きの糸、目標であり、それが良き行為を正しく組み合わせて遂行させ、正しい行為のために力と情熱を与え、習慣的特性とさせ、個々人の精神に尊厳と品性を与えるのであって、そこから三段論法的に推論しうる経験的真理を与えるのではない」(35頁)
こうした主張は政策主体としての国家のあり方を反映している。シュモラーは「分配的正義」を復権させる。国家こそが「分配的正義」を実行する代表者であり、社会政策の価値判断を下しうる唯一の主体である。ここには政策指向の強い新歴史学派の性格が良く現れている。一般的には、当為sollenと存在seinとの区別が主張されるが、シュモラーはその区別を意識的にその境目を排除しようとしたのである。

シュモラーはジング・アカデミーにおける講演「社会問題とプロイセン国家」(1874年)において、階級間によこたわっている分配の不平等を批判している。階級の形成について、財産の不平等が教養の不平等を生み出し、それが後の世代にまで引き継がれる「原罪」と見なした。こうした「悲惨な罪から完全に逃れている財産・所得分配は、現在にいたるまでどの国民においても存在しない」。この不正義から階級闘争が生み出されていることをシュモラーは認めている。この不正義を是正するために主張されたのが、不労所得の排除と所得の再配分である。

こうしたシュモラーの提言は、労働者階級による政権の掌握という意味での社会主義を意図したものではなかったが、自由主義経済学者(トライチュケたち)から「講壇社会主義」と非難されることになる。またシュモラーの方法は後に、科学への倫理的判断の混入としてウェーバーによって非難されることになる。

社会政策学会
■社会政策学会
1873年に社会改良を指向する学者によって「社会政策学会」が設立される。その中心は、シュモラー(1844-1931)やブレンターノ(1838-1917)たちであった。新歴史学派は、社会政策学会に象徴されるように、非常に明瞭な社会改良という目的を持っていた。彼らももともとはイギリス的な自由主義経済学(ドイツ・マンチェスター学派)の支持者であったが、次第に社会問題の存在に目覚め、国家的な干渉を支持していくようになる。社会政策学会には、これらの大学教授に加えて、開明的な官僚・企業家、労使協調路線をとる労組指導者たちも参加していた。ビスマルクは社会政策学会を支援し、逆に社会政策学会はプロイセンの立憲君主的官僚主義を支えていく。社会政策学会の社会政策的な指向はドイツ・マンチェスター学派から「講壇社会主義」と揶揄されるが、社会主義革命を防止するという目的を持っていた。

社会政策とは、階級間の利害関係に国家的な干渉を加えて(例えば、失業保険)、社会を安定させる政策である。雇い主も含めて強制的に負担させることで、こうした制度を整備しようというのが社会政策学会のねらいであった。それは官僚主導の上からの改良ということができる。学会の性格は下記のシュモラーの開会演説によく表れている。

「われわれは、営業の自由の撤廃も労使関係の廃止も望んでいません。しかし、空理空論を尊重するあまり、ひどい弊害を甘受し、それをはびこるままにしておこうとは思いません。われわれが要求しているのは、国家が誤った実験のために下層階級にお金を与えることではなく、国家が従来とは全く異なる立場から、彼らの教化と教育に取り組むこと、国家が労働者層の地位を必然的に圧迫している居住条件や労働条件に関心を持つことなのです。」(出典:トマス・リハ『ドイツ政治経済学』152頁)
ヨーロッパには社会主義的な勢力は急速に発展しつつあった。 1871年のパリ・コンミューンは短期間であったけれども、 労働者が政権をとろうとした事件であった。 一方では、こうした労働者を主体とした下からの社会主義運動に対しては弾圧を加え、 他方では、政府による上からの社会政策によって労働者と資本家との対立を緩和する。 これが社会政策学会を基盤にしていた新歴史学派の試みであった。 労働運動については反対しないまでも、 それが秩序を形成していく積極的な要因になるとは考えていなかった。 彼らはあくまでも、官僚主導の社会立法にによって問題を解決しようとした。 彼らは社会調査を多く行うが、そのねらいは官僚主導の政策に役立つことにあった。
19世紀の末になると、社会政策の進展による費用負担を産業界は拒否するようになり、 「社会政策の黄昏」などと言われるようになる。 社会政策学派の主張も、だんだんとその中身を変えていく。 もともとは幼稚産業保護を目指した保護関税論も、 急速に発展した重化学工業の独占価格を支える工業関税論に姿を代えていった。 また、ロシアやアメリカからのヨーロッパへの低価格の穀物の輸入が増大するにつれて、 東エルベの農業地帯も厳しい競争にさらされるようになった。 そこで、ユンカー勢力も農業保護関税を要求するようになる。 新歴史学派はこの農業連帯関税をも肯定するようになる。 こうしてリストの問題意識を継承した新歴史学派は、 その役割を世紀末にほぼ終えたことになる。

ドイツ歴史学派と日本
1868年に明治維新をむかえた日本は、ドイツと類似した経済発展を遂げていく。明治期の日本における経済学の主流はドイツ歴史学派であった。

■自由貿易・保護貿易論争
日本では幕末から自由主義的傾向の強いイギリス経済学の導入が開始されていた。その潮流を代表するのが、田口卯吉(ウキチ、別名:鼎軒、1855-1905)である。田口は渋沢栄一の援助を受けながら『東京経済雑誌』(1879)を創刊して、自由貿易の論陣をはる。

保護貿易論をいち早く展開したのが、若山儀一(ノリカズ)であった。若山は1871(明治4)年に岩倉遣外使節にも随行した大蔵省役人であった。欧米への出発直前に保護貿易の必要を説く『保護税説』を刊行した。若山はすでにリカードウの比較優位説理解していたが、日本の貿易も産業も列強と競争するには弱体であり、不必要な外国製品の流入を抑制するために保護貿易が必要であることを『保護税説』で説いている。その「付録」では、リストともにアメリカ体制学派の一翼を担ったH.C.ケアリー(1793-1879)を典拠にして、保護政策が成功した事例が列挙されている。

1889年にはリスト『経済学の国民的体系』が大島貞益によって翻訳される(邦訳名『李氏経済論』)。大島はリストによりながら、リカードウの自由貿易論は結局のところ「独り農国は農を守り、製造国は製造を守るべし」という主張であると批判した。大島は政府が商工業に干渉して工業育成を試みることは必要不可欠であると主張した。5・15事件で暗殺される犬養毅も保護貿易の立場から田口と論争を行っている。こうした保護貿易の主張は、不平等条約を撤廃し、関税自主権を獲得することで実現されていく(1894年から1911年にかけて)。

■金井延と社会政策学会
1890年代の日本では急速な工業労働者の増大をむかえていた。しかし、労働組合の力は弱く、政府の規制がないために労働環境は劣悪であった。こうした状況の中で、工場法を制定し労働条件を整備する必要が政府の間でも認識され始めていた。しかし、田口卯吉のような自由主義者からは、雇用者や株主の不利益をもたらすという批判が工場法に向けられていた。

下層武士の子供として生まれた金井延(エン、1865-1933)は東京大学で統計学や経済学を学ぶ。卒業後、ドイツに留学しシュモラーの講義を受け、傾倒する。金井は労働運動に批判的で、シュモラーにならって弱者を保護し、強者を抑制することが国家の義務であると考えていた。

ドイツ社会政策学会を手本にして、1896年(明治29年)に社会政策学会が設立される。当初は小規模な研究会であったが、1907年以降、「大会」という形式で広範な聴衆を相手にした時事問題を論じる場を提供するようになる。そのテーマは、「工場法と労働問題」、「関税問題と社会政策」、「移民問題」、「労働争議」、「婦人問題」、「小作問題」などであった。1900年に公表された「社会政策学会趣意書」には次のように書かれている。

「余輩は放任主義に反対す。何となれば、極端なる利己心の発動と制限なき自由競争とは貧富の懸隔を甚だしくすればなり。余輩はまた社会主義に反対す。何となれば、現在の経済組織を破壊し、資本家の絶滅を図るは国運の進歩に害あればなり。余輩の主義とするところは現在の私有的経済組織を維持し、その範囲内において個人の活動と国家の権力とによって階級の軋轢を防ぎ、社会の調和を期するにあり。」(T.モーリス=鈴木『日本の経済思想』p.106より)
ここで語られているのは、私有財産制を維持しながら、それが生み出す階級対立を放任するのではなく、国家が調和すべきという主張である。

工場法は1911年に制定されることで、社会政策学会の当初の目標は実現したことになる。しかし、1917年のロシア革命の成功により、日本ではマルクス主義が勢力を強めていく。社会政策学会が掲げた国家による社会の調和という主張は、労働者階級による社会主義の実現という要求にとって代わられるようになる。一時期勢力を誇っていた社会政策学会は1920年代に分裂していく。