シュムペーターの経済学

シュムペーターの体系

シュムペーターは1883年オーストリア領モラヴィア地方に生まれた。この年はシュムペーターがライバル視したケインズが生まれ、マルクスが没した年でもある。シュムペーターはオーストリア学派の牙城であるウィーン大学で法学と経済学を学び、若くしてグラーツ大学の教授職を得る。第一次大戦後に成立したオーストリアのカール・レンナー内閣では短期間ではあるが大蔵大臣の職を務めた(1919年)。その後、ビーダーマン銀行の頭取となるが、1924年に破産する。東京大学経済学部から客員教授としての招聘もあったが、1925年にボン大学に、1932年ハーヴァード大学に移籍する。ハーヴァードでは後にノーベル経済学賞を受賞するサミュエルソンやトービンなどを育成する。しかし、1936年にケインズ『一般理論』が刊行されると、弟子たちはシュムペーターの理論から離れ、ケインジアンとなっていく(このときの苛立ちをしたためた書簡が埼玉大学経済学部に所蔵されている→シュムペーターの書簡)。

シュムペーターには様々な学派の影響を認めることができる。経済理論の観点だけでも、(1)オーストリア学派、(2)ワルラス(ローザンヌ学派)の一般均衡論、(3)マルクス経済学の影響を指摘できる。このように多様な側面を持つために、シュムペーターをいずれかひとつの学派に含めることは不可能である。さらに、シュムペーターは経済理論の世界にとどまることなく、経済史や社会学、歴史学へと視野を広げていった。まさに社会科学体系の構築を目指していた人物なのである。

主要著作には、経済の動態的メカニズムを解明しようとした『経済発展の理論』(1912)と大著『景気循環論』(1939)がある。前者は理論的なアプローチが中心であるが、後者は歴史的な分析にウェイトが置かれている。『資本主義・社会主義・民主主義』(1942)は資本主義の歴史的発展とその限界を考察した文明論である。遺稿『経済分析の歴史』(1954)は広範な周辺領域をも視野に入れた経済学史の大作である。(邦訳は、塩野谷祐一他訳『経済発展の理論』(岩波文庫,『発展』と略記)、中山伊知郎他訳『資本主義・社会主義・民主主義』東洋経済新報社、1995年版、『資本』と略記)

静態と動態

主著『経済発展の理論』からシュムペーターの経済学の特徴を探っていくことにしよう。シュムペーターはワルラスの一般均衡論を「静学」の完成形態と見なしていた。一般均衡論とはあらゆる経済諸量の相互依存関係を分析して、全ての市場における需要と供給の均衡を問題にするものである。全ての市場の需給を均衡させるような均衡価格は存在するのか、あるいはそうした価格は一意的なものであるのか、これらを一般均衡論は問題にする。均衡価格が実現している世界は、全ての経済諸量が年々歳々、同じ規模で生産・消費されていく世界である。その意味でまさに「静学」の世界である。

このような一般均衡論の結論を理論的に徹底させると、利潤(および利子)が存在しえなくなるとシュムペーターは考えた。例えば、ある資本財がその費用を上回る収益(すなわち利潤)をもたらしたとすれば、その資本財への需要が増加して資本財価格が上昇し、やがてそれまで存在していた収益は消滅していくというのである。こうして需給が均衡すると利潤はどこにも発生しないことになる。この議論の根底に置かれているのは、オーストリア学派に由来する「帰属価値」という考え方である。この考え方によれば、商品の価格は本源的生産要素である労働と土地の費用に還元される。つまり、「資本」という生産要素も、土地と労働を用いて生産されるから、資本財の価格も土地と労働の費用に還元されると考えるのである。

「帰属の計算は生産の最終要素すなわち労働用役および土地用役までさかのぼらなければならない。それは生産された生産手段にとどまることはできない。なぜならば、生産手段に対しても同じ議論が繰り返し適応されていくからである。すなわち、この限りにおいていかなる生産物もこれに含まれている労働用役および土地用役の価値以上の価値を超過しえない。...最終生産物にも中間生産物にも利益が付着していることは許されない。」(『発展』上81頁)

要するに、静態経済では全ての生産物の価値は労働用役と土地用役との合計に等しくなる。このシュムペーターの議論は、静態経済には後に説明する「企業者」も「資本家」も存在しえないということを意味する。しかし、現実の経済には利潤が存在している。つまり静態ではなく動態こそが、経済の本質に他ならないということになる。この点を『資本主義・社会主義・民主主義』の言葉で補っておこう。

「資本主義は、本質的に、経済的な変化の形態あるいは方法であり、決して静態的なものではなかったし、静態的ではありえないものである。....資本主義的エンジンを起動させて持続させる基本的な推進力は、新しい消費財、新しい生産方法や輸送手段、新しい市場、資本家的な冒険心が生み出す新しい形態の産業組織である。」(『資本』129頁)

ここで言う「基本的な推進力」は『発展』の中では「新結合」と呼ばれている。さて、このようにシュムペーターは資本主義の動態的な性質を強調している。しかしながら、静態理論の価値を完全に否定したわけではない。というのは、静態理論と対比させることで動態理論の構成要素を確定できるし、また後に見るように動態経済においても不況期の経済は静態理論で描写された状況へと収束していくからである。

補足「利潤ゼロ」の意味:通常のミクロ経済学の教科書には、「代表的企業の長期の利潤は経済理論上はゼロである。ただし、経済理論でいう費用は機会費用であるから、そこには利子分が含まれているので、会計的な意味で利潤がゼロとなるわけではない」、という趣旨の説明が与えられている。しかし、機会費用として費用に含まれる利子についても、シュムペーターは長期ではゼロになると主張する。つまり、会計的にも利潤は発生しえないというのである。この議論はただちに論争を呼び起こしたし、今日でも評価の分かれるところである。私見では、長期均衡をゼロ成長と同一視するシュムペーターの議論には、やや混乱があるように思われる。

新結合と企業者

シュムペーターが考察しようとするのは、「動態」的な変化をとげている経済である。具体的には景気循環として表れてくることになる。動態的な変化をもたらす要因は消費者の嗜好の変化ではなく、もっぱら生産の側から起きるとシュムペーターは述べている。

「経済における革新は、新しい欲望がまず消費者の間に自発的に現れ、その圧力によって生産機構の方向が変えられるというふうに行われるのではなく、むしろ新しい欲望が生産の側から消費者に教え込まれ、したがってイニシアティヴは生産の側にあるというのが常である。」(『発展』上181頁)

それでは生産の側の変化とはいかなるものなのであろうか。シュムペーターは生産を「物や力の結合」と捉えている。したがって、生産物や生産方法の変更とは、物や力の結合を変更させることになる。結合の変更を「新結合 neue Kombination」と呼ぶ。具体的に次の5つの場合をあげている。

「1 新しい財貨、すなわち消費者の間でまだ知られていない財貨、あるいは新しい品質の財貨の生産。
2 新しい生産方法、すなわち当該産業部門において実際上未知な生産方法の導入。これはけっして科学的に新しい発見にもとづく必要はなく、また商品の商業的取り扱いに関する新しい方法をも含んでいる。
3 新しい販路の開拓、すなわち当該国の当該産業部門が従来参加していなかった市場の開拓。ただしこの市場が既存のものであるかどうかは問わない。
4 原料あるいは半製品の新しい供給源の獲得。この場合においても、この供給源が既存のものであるか、−−単に見逃していたのか、その獲得を不可能と見なしていたのか−−あるいは始めて作り出されねばならないかは問わない。
5 新しい組織の実現、すなわち独占的地位(たとえばトラスト化による)の形成あるいは独占の打破。」(『発展』上183頁)

この1と2は今日、「イノヴェーション」と呼ばれるものに相当する(後年のシュムペーターも「新結合」に代えて「イノヴェーション」を用いるようになる)。さて、「新結合」の担い手が「企業者」である。シュムペーターの言う「企業者 Unternehmer」は、会社内の地位によって決まるのではなく、新結合を遂行する役割から規定されていることに注意しなければならない。だから、支配人や重役が企業者となることもあれば、起業の際の発起人かもしれないし、場合によっては技術者が企業者の役割を果たすこともある。逆に、新結合の遂行を終えたら、たとえ企業を経営する地位にいたとしても企業者ではなくなるのである。

「だれでも新結合を遂行する場合にのみ基本的に企業者であって、したがって一度創造された企業を単に反復的に経営していくようになると、企業者としての性格を喪失するのである。またそれゆえ、だれでも数十年間の努力を通じてつねに企業者のままでいることは稀である...。」(『発展』上207頁)

静態経済では利潤は存在しないが、動態経済では「企業者利潤」が発生するとシュムペーターは考えている。シュムペーターがあげている繊維工業の事例に従って、その内容を説明していこう。繊維工業が手工労働だけで生産している経済において、だれかが力織機を使って仕事をする経営の可能性を見いだしたとする。彼は銀行から資金を借り入れて、力織機を用いた事業を立ち上げる。生産量が増加することによる生産物価格の下落があっても、力織機の費用と従来の生産方法よりも少ない人数の労働費用との間で、費用を超過する収入があれば、それが「企業者利潤」である。

「力織機はその中に含まれた労働用役および土地用役が従来の方法によって生産しうるよりも物理的により大きな生産量を生産し、また力織機は経済主体にとって費用さえ支払えば利用可能である。したがって、手工労働のみが用いられた場合に均衡価格すなわち、費用価格として成立した価格によって測られた収入と...支出との間に差額が生じる。この差額は需要者および供給者としてのわれわれの経済主体の登場によってもたらされる価格変動によって消去されるとは限らない。」(『発展』下14頁)

新結合を担った企業者は「本源的生産手段を創造したのではなく」、既存の用途を変更しただけである。よって、この差額は労働と土地に帰属することはなく、新結合に帰属すべき差額ということになる。こうして「企業者利潤」の存在が説明される。

ただし、企業者利潤はいつまでも存続し続けるわけではない。新結合の模倣者が多数登場してくるからである。

「魅惑的な利潤の刺激によって力織機による新しい経営が続々と成立する。この産業部門の完全な再編成が、生産の増加、競争的闘争、旧式経営の排除、ときには労働者の解雇などをともなって現れる。...究極の結果は一つの新しい均衡状態でなければならない。そこでは新しい与件のもとに再び費用法則が支配し、生産物価格はいまや、力織機の中に含まれている労働用役および土地用役に対する賃金と地代に、生産物を作るために力織機に付加される労働用役および土地用役に対する賃金と地代を加えたものに等しくなる。...その結果、われわれの経済主体およびその当初の後続者たちの超過額が消滅する。もちろん、ただちにではなく、一般には多少とも長い期間にわたる継続的減少のあとにはじめて消滅する。」(『発展』下15頁)

要するに、模倣者が増えることで生産物価格は本源的生産要素の費用の総和に等しくな り、企業者利潤は消滅するというのである。こうした議論がマルクスの「特別剰余価値論」とほとんど同じであることは改めて述べるまでもないであろう。この力織機の事例のように、既存の生産物の生産方法の改善のことを一般に「プロセス・イノヴェーション」と呼ぶ。これに対して、新しい生産物を生み出すことを「プロダクト・イノヴェーション」と呼ぶ。シュムペーターは後者についても説明している。新しい財貨に対しては、費用と無関係に消費者の評価によって価格が形成される。この評価と費用との間に生まれる差額が企業者利潤ということになる。この差額もやがては消滅していく。

新結合の登場とその普及が景気循環を生み出していくことになる。こうした動態的な変化は、小さな変化が累積していって生まれる漸次的な変化ではなく、急激な非連続的変化であるという。その事例としてシュムペーターは馬車と鉄道の事例をあげる。馬車から鉄道への移行は、馬車への小さな改良を積み重ねたものではなく、質的に不連続な変化である。こうした不連続的な変化こそ経済に動態的な変化をもたらす新結合の特質なのである。シュムペーターが着目するのは、この不連続的な変化をもたらす新結合の担い手、すなわち企業者の個人的資質である。マルクスが個人にではなく資本主義のシステムそのものに生産力を発展させる動因を求めたのに対して、シュムペーターはあくまで企業者という個人の役割を重視するのである。『資本主義・社会主義・民主主義』では次のように述べている。

「企業者の機能が発明を利用すること、もっと一般的に言えば、新商品の生産や新方法による旧商品の生産のためにまだ試みらていない技術的可能性を利用すること、原材料の新供給源や生産物の新販路を開拓すること、産業を再組織すること等によって生産様式を革新ないしは革命化することにあることはすでに述べた。初期の鉄道建設、第一次世界大戦前の発電、蒸気や鋼鉄、自動車、植民地事業等は大きな範疇の目ざましい実例であり、さらにその中には特殊な種類のソーセージや歯ブラシで当りをとるなどの無数の手近な例までも含まれる。...このように新しいことを行うのは容易なことではなく、独自の経済的機能をなしている。その第一の理由は、新しいことが誰もが知っているありふれた業務のらち外にあるからであり、第二の理由は、社会環境が新しい仕事に資金を融通したり、新しい品物を買うことを拒否することから、それを生産しようとする人への有形の攻撃にいたるまで、社会情勢に応じて様々な形で抵抗するからである。慣行の軌道を乗り越えて信念をもって行動し、このような抵抗を克服していくには、ごく少数の人にしか備わっていない資質を必要とする。そしてこの資質こそ、企業者機能とともに企業者タイプを規定するものである。」(『資本』206頁)

企業者は、企業の外に出れば成り上がりもので、教養も精彩も欠いているし、しばしば大勢順応的でさえあると述べている。しかし、新結合の遂行のためには既成の教養や知識などは役に立たない。「周到な準備工作や事実に関する知識、知的理解の広さ、論理的分析の才能でさえ、場合によっては失敗の原因にさえなる」(『発展』上224頁)というのである。さらに、従来の思考習慣に縛られないだけではなく、「新結合を単なる夢や遊戯ではなく、実際に可能なものとするためには、意志の新しい違った使い方が必要となる。このような精神的自由は、日常的必要を越える大きな力の余剰を前提としており、それは独特なものであり、性質上、稀である」(『発展』上226頁)と、強い意志の持ち主であることが強調される。こうした企業者像は時に、英雄主義的な企業者像であると言われることもある。

補足「創造的破壊」:新結合は企業者利潤を生み出すだけではなく、同時に古い生産方法を破壊していくことになる。このことを後の『資本主義・社会主義・民主主義』では、今日では広く使われている「創造的破壊」という言葉で呼ぶようになる。
「国内外における新市場の開拓、手工業的作業場や工場から、U.S.スチールのような企業へという組織上の発展は、生物学的な用語を用いていうならば、産業的突然変異と同じプロセスである。このプロセスは、経済構造を絶えず内部から変革し、絶えず既存のものを破壊し、絶えず新しいものを創造するのに似たプロセスである。この創造的破壊というプロセスが、資本主義に関する本質的な事実である。そこに資本主義の本質があり、それがあらゆる資本主義的企業の存続を可能にしてきたのである」(『資本』130頁)

■銀行家
『経済発展の理論』というと企業者に焦点が当てられがちであるが、企業者と同じくらい重要な位置をしめているのが「銀行家」である。シュムペーターの理論では、企業者は無一文の存在と仮定されている。したがって、企業者だけでは新結合をやりたくてもできない。ここに資金を流し込んでやるのが銀行家である。具体的には、銀行による信用創造を用いて企業者は新結合を実行していくことになる。企業者と銀行家が両輪となって経済の動態が生まれるというのがシュムペーターの資本主義観である。

銀行家の役割は理論的にも重要である。静態経済は完全雇用状態であると想定されているから、遊休資源が存在しているわけではない。そのために、信用が与えられた企業者が生産手段(あるいは土地や労働)を獲得しようとすれば、それは既に利用されている生産手段を奪い取ってくることに他ならない。つまり、銀行家は企業者に生産手段を奪い取る手段を提供することにある。シュムペーターによれば、現代では結局、資本家が蓄えた積立金にせよ貯蓄にせよ銀行家のもとに流れ込んでおり、その用途を決定するのは銀行家である。したがって、銀行家こそ「唯一の資本家」であり、経済の監督者なのである。

「銀行家は単に購買力という商品の仲介商人なのではなく、またこれを第一義とするのではなく、なによりもこの商品の生産者である。しかも現在では全ての積立金や貯蓄はことごとく銀行家のもとに流れ込む。...彼はいわば私的資本家たちにとって代わり、彼らの権利を剥奪するのであって、いまや彼自身が唯一の資本家なのである。彼は新結合を遂行しようとするものと生産手段の所有者との間に立っている。...彼は新結合の遂行を可能にし、いわば国民経済の名において新結合を遂行する全権能を与えるのである。彼は交換経済の監督者である。」(『発展』上197頁)

さて静態経済では、企業が取得する利潤も、資本の提供者である資本家(あるいは銀行)が受け取る利子も存在できなかった。しかし、動態経済において企業者利潤が発生することで、銀行家は企業者利潤からの控除として利子を受け取ることが可能となる。「企業者利潤こそ利子の源泉である」(『発展』下178頁)。したがって、利子は企業者利潤とともに騰落することになる。

銀行は景気循環の過程で重要な位置づけを与えられている。新結合を遂行する模倣者たちに銀行が資金供給をつづければ好況過程が開始する。それは一時的には物価上昇と利潤の増加を伴うが、やがて新結合が普及すると利潤が減少し始める。そして成功した企業者は銀行へと返済をはじめるために(貨幣供給が減少するから)物価下落と不景気がはじまる。好況期は不均衡の拡大期であったのにたいして、不況期は均衡へと向かう時期であり、静態理論が描き出した状況に接近する局面でもある。このように銀行信用は景気循環を生み出す重要な要因として位置づけられているのである。

『景気循環論』

『経済発展の理論』では好況と不況という2局面から景気循環が考察された。好況は新結合が「群生的に」遂行される過程で、均衡撹乱を本質とする。他方、不況は新しい均衡へと向かう「吸収過程」と呼ばれ、投資の減退、利子率・企業者利潤の低下、信用収縮によるデフレーションを伴う。こうした不況を異常な事態と見るのではなく、経済の「正常な状態」と見るところに、シュムペーターの議論の特質がある。不況期こそ新結合を準備する時期であると見ていたからである。『経済発展の理論』で提出されたアイデアは、歴史的・統計的データを盛り込みながら『景気循環論』(1939年)において詳細に展開された。『景気循環論』では、好況、景気後退、不況、回復期という4局面で景気循環が考察されると同時に、3種類の循環の重ね合わせてとして資本主義社会の歴史が分析されるようになる。

今日では良く知られている考え方であるが、コンドラチェフの循環、ジュグラーの循環、キチンの循環の合成として景気循環を把握しようとする。すなわち、55年周期のコンドラチェフ循環は約10年周期の6個のジュグラー循環を含み、ジュグラー循環は3キチン循環を含むという仮設である。いずれの循環もイノヴェーションの遂行が循環の主要な原因とされる(ただしキチン循環については後に通説どおり在庫循環であることを容認するようになる)。

シュムペーターは150年間ほどの経済史を景気循環の歴史として描き出している。その基本的な柱になっているのがコンドラチェフ循環である。1843年から1913年を一つのコンドラチェフ循環ととらえ、循環を開始させた要因として鉄道ブームを、また20世紀にはじまるコンドラチェフ循環の要因として電気をそれぞれ挙げている。

『景気循環論』はケインズ『一般理論』(1936年)への対抗を意識して書かれているが、『一般理論』の名声の陰に隠れてしまい、必ずしも成功した書物とはいえない。しかし、資本主義の発展を大小の景気循環の重なりとして把握しようとするアイデアは、今日の実証分析に様々な影響を与えている。

資本主義の将来

シュムペーターは資本主義の歴史を巨大な景気循環の中で把握したわけであるが、その循環が永遠に続くものとは考えていなかった。1930年代は世界恐慌が与えたインパクトが大きかったために、資本主義に対する悲観的な見方が広まった時代である。マルクス経済学者に限らず、経済学者をはじめとする多くの知識人たちが資本主義は早晩、社会主義へ移行していくと考えていた。社会主義を望ましい経済体制とは考えていなかったものの、シュムペーターもまた同時代の知識人と同様に、資本主義は滅亡し、必然的に社会主義へ移行せざるをえないと見ていたのである。「資本主義はその成功によって滅ぶ」という有名な言葉をシュムペーターは残している。経済の発展それ自体が自らの発展の原動力を喪失させてしまうというのである。

その主要な原因は、企業者精神の衰退である。すでに見たように既存の習慣や知識に拘泥することなく、大胆に新結合を遂行していくのが企業者であった。これは個人的な才能に負うものとシュムペーターは見ていた。しかし、大企業は企業者の機能を組織内部に取り込むことで日常業務化してしまう。そして合理的な管理が経営の発展をいわば機械化させてしまう。こうして企業者が個人の資質を十二分に発揮する場が失われていくことで、資本主義は衰退に向かうというのである。

「たとえ企業者の職能を主動因とした経済過程そのものは萎縮することなく進行したとしても、この社会的機能はすでにその重要性を失いつつあり、しかも将来必ずや加速度的に失われる。その理由はこうである。一方において、現在では慣れた日常的業務の埒外にある仕事をこなすことも昔よりははるかにたやすくなっている−−革新そのものが日常的業務となってきている。...資本主義初期の商業的冒険のロマンスは、いまや急速に昔日の光彩を失いつつある。なぜならば、かつては天才のひらめきの中に描かれるべきはずであったものが、いまでは正確に計算されるようになり、しかもそのようなものがいよいよ増しているからである。」(『資本』207頁)

「もし資本主義の発展が停止するか、まったく自動的になるかすれば、産業ブルジョアジーに経済的基礎は...日常的管理の仕事に対して支払われるごとき賃金だけに押しつめられてしまうであろう。資本主義的企業は、他ならぬ自らの業績によって進歩を自動化させる傾向を持つから、それは自分自身を余計なものにさせる傾向を持つとわれわれは結論する。完全に官庁化した巨大な産業単位は中小企業を追い出し、その所有者を収奪するのみならず、階級としてのブルジョアジーをも収奪するにいたる。そしてこの過程において、ブルジョア階級は自己の所得を失うのみならず、もっと重要なことに、その機能をも失うことが避けがたい。社会主義の真の先導者は、それを説法した知識人や先導者ではなく、ヴァンダービルト、カーネギー、ロックフェラーの一族のような人たちである。」(『資本』210頁)

シュムペーターと日本経済