アダム・スミス:1723−1790。 スコットランドのカーコーディという小さな町で生まれる。 父は税関職員であった。 グラスゴー大学でハチスンから道徳哲学を学び、後にオクスフォード大学へ留学するが、 オクスフォード大学の停滞した状態に失望する。 1751年に母校グラスゴー大学の論理学教授となり、翌年、道徳哲学の講座に移る。 1759年に『道徳感情論』を出版し、好評を博す。 1764年から2年ほど大陸旅行を行い、ケネーらと交わる。 1776年に『国富論』を刊行。1778年に、スコットランドの税関委員を任命され、 エディンバラに居を定める。 以下、引用は『道徳感情論』は水田洋訳(筑摩書房)、 『国富論』は大河内一男監訳(中公文庫)による。前者はTMSと後者はWNと略記する。
【補足】:フランシス・ハチスン 1694−1746。グラスゴー大学で哲学・文学・神学などを学ぶ。 後に母校で道徳哲学の教授となる。 ハチスンは、人間は生まれつき 「他人の幸福への、利害を離れた根源的欲求」の感情を持っているとした。 これが道徳の基礎となると考えた。 それゆえ、富のための富みの追及という資本主義的な活動は、否定すべき対象となる。■ジャコバイトの乱
■産業革命前夜
イングランドでは1760年代ごろから木綿・織布製造に蒸気機関が導入されはじめ、
産業革命がはじまる。
しかし、『国富論』には産業革命の影響はおよんでいないと考えられる。
したがって、『国富論』に登場する生産部面は、工場ではなくマニュファクチュアの作業場
となっている。
■アメリカ独立前夜
イギリスの植民地であったアメリカは、貿易をイギリスの商人と製造業者によって独占されていた。
アメリカは工業原料をイギリスにしか輸出できず、また工業製品をイギリス以外から
輸入することはできなかった。
また、植民地内部で工業完成品を作ることは禁じられていた。
こうした状況の中、植民地においては、本国議会に代表を送れなかったので、 「代表なくして課税なし」という不満が高まっていった。 一方、イギリス国内においても、植民地を維持するための行政費や軍事費に対する不満が 高まっていった。 1775年にはじまった独立戦争は、『国富論』刊行の1776年にアメリカの勝利で終わる。
同感論
『道徳感情論』の課題は、密接に関連している二つの課題に答えようとした書物である。第一は、利己的な行動を行う人間が対立せずに、社会的に平和共存を実現できるしくみを明らかにすることであった。言い方を代えれば、市場社会論の説明である。スミスの基本的なシェーマは、権力によって強制的に個人の行動に制約をかけるのではなく、社会の中に存在する人間は、自分の行動が他人と衝突することがないように、感情や行動を自発的に抑制するようになる、というものである。第二は、利己的個人からなる社会において道徳的に守らなければならないルールは何であるかを説明することである。ちなみに、スミスはこの道徳的ルールの延長上に、法律の基礎付けを試みようとした。しかし、それは成し遂げられることはなかった。さて、この第二の課題が通常の意味での「道徳」の課題ということになろう。
『道徳感情論』で重視されるのが、「同感(sympathy)」である。他人の感情を直接知ることはできないが、他人が置かれている境遇を観察することで、すなわち「想像上の立場の交換」によって、他人の感情を推し量ることができる。例えば、人が殴られそうになるのを見れば、「われわれは自然に身を縮め目、自分自身の足や手を引っ込める」(TMS、7頁)。これが同感の基本である。
ここで注意しなければならないことがある。他人の心の中身を自分の心の中に再現するのが同感ではない。他人が置かれている境遇を知ることで、その人がとる行動を自分なりに想像し理解できることがスミスの言う同感なのである。だから、他人の心の中は分かりっこないとスミスは明言している。飢えと寒さに苦しむ赤ん坊が泣いているとしよう。母親はなぜ赤ん坊が泣いているのかを十分に想像し納得することができる。これが同感である。もちろん、赤ん坊の本当の心の中までは母親でも分からない。母親は自らの長年の経験に照らして、赤ん坊の心の中を想像しているにすぎないのである。母親は赤ん坊の心の中を想像し、泣くことを当然のこととして理解できる。これが同感なのである。だから、スミスは死体にも同感できるという言い方をしている。死体に心があるはずもないし(多分)、誰も死んだことなどない。しかし、冷たい暗い土のなかで腐敗しつつある自らの体を想像できる。これが同感である。
■相互的同感
他人に同感すること、逆に他人から同感を得ることを人々は欲するとスミスは考えた。すなわち、人間は「相互的な同感」に喜びを感じるのである。
「何かの出来事の主要な利害関係者が、われわれの同感によって喜び、同感がないことによって傷つけられるのと同様に、われわれが彼に対して同感しうる場合には、われわれも喜び、そうでない場合には、傷つけられるように思われる。」(TMS、17頁)
この点がきわめて重要なポイントである。ここに社会的な秩序形成の端緒がある。スミスがあげている事例を用いて説明してみよう。教師Aはうけをねらってギャグを言ったにもかかわらず、学生は誰も笑ってくれないことでとても傷ついている。なぜならば、他人からの同感を得られなかったからである。このスミスが挙げているケースは次のように発展していくと予想できる。まず、教師Aは笑いをとれない低レベルのギャグを言わなくなり、日々鍛錬しハイブローなギャグ・センスを磨いていくであろう。そして学生は、少々レベルが低くてもギャグに同調し、自然と笑い出す感性を身につけていくであろう。こうして理想的な教室が生まれる。
少々脱線したが、スミスの議論の大よその流れはこんな感じだ。要するに、他人から同感を得られるように行動し、他人に同感できるような感情を抱くようになる。言いかえるならば、他人の視線を内面化して生きていくようになる。これが社会を形成する能力なのである。
注意すべきことは、スミスの考える同感は、他人に対する憐憫の感情である同情とは異なる。現代風の言い方になおせば、「特別な利害・感情関係のない個人どうしの間でも成り立ち得るクールな是認の感情を言う」から、「利己的経済行為を否定するものでは」ない。例えば、兄弟の間や親しい友人の間であれば、同感を得られやすいかもしれない。 しかし、スミスが問題にするのは、見知らぬ他人の同感である。
「われわれは普通の知人からは、友人よりも少ない同感を期待する。 ....見知らぬ人々の一集団からは、われわれはさらに少ない同感を期待する。 そこでわれわれは、彼らの前ではもっと多くの平静さをよそおうのであり、われわれの情念を 、われわれがその中にいるある〔見知らぬ〕集団がついてくること期待できそな程度にまで 下げようと努力する。」(TMS,29頁)
■中立的観察者
このように「見知らぬ人」の同感を考慮しながら生活していくことで、
自分の行動や感情は自然と抑制されていくことになる。
こうして、社会に適合的な感情や行動が形成されていくことになる。
「見知らぬ人」をスミスは「中立的な観察者」と呼ぶ。
「対立する諸利害の、何か正当な比較をなしうるには、われわれは立場を かえなければならない。 われわれ自身の場所からでも彼らの場所からでもなく、 われわれ自身の目からでもなく彼らの目からでもなく、 いずれにも特別な関係を持たず、われわれの間で公平性をもって 判断する第三者の場所から、第三者の目から見なければならない。 その第三者は、いずれとも特別のつながりをもたず、 われわれのあいだで中立性をもって判断するものなのである。」(TMS、200頁)中立的な観察者は、ある限度の範囲内で自分自身の幸福を追求することを是認する。 中立的な観察者がどこまで是認し、どこから是認しなくなるかについて、 有名な「フェア・プレイ」の比喩でそれを説明している。
「もし各個人が、中立的な観察者が彼の行動原理に入りこむことができるように行為しようと するならば、...彼は自愛心の傲慢をくじかなければならないし、それを、他の人々が ついていけるようなものにまで引き下げる必要がある。 その限りでは観察者たちは、自分の幸福を他のどんな人の幸福よりも切望し、 それをいっそう真剣な精励をもって、追求するのを許す程度には寛大であろう。 ....富や名誉や地位をめざす競争で、すべての競争者を追い抜くために、できる限り 力走してよいし、あらゆる神経や筋肉を緊張させていい。しかし、もし誰かを押し 倒したり、投げ倒せば、観察者たちの寛大は完全に終了する。それは、フェア・プレイの 侵犯であって、観察者が許し得ないことなのである。」(TMS、130頁)
このようにフェア・プレイの範囲内での利己的な行動が是認される。 他方、他人に対する愛情(利他心・慈恵)は社会を成立させる上で必要なものではないとスミスは述べている。古い道徳が重視してきた「慈恵(beneficence)」について、それはあるにこしたことはないが、強制されるべきものではないとスミスは明言している。 「それは建物を美しくする装飾であって、建物を支える土台ではない」(TMS、135頁)。
「〔社会の成員相互の間で〕必要な援助が、そのような寛大で利害関心のない諸動 機から提供されないとしても、またその社会の成員の間に相互の愛情と愛着がない にしても、その社会は幸福さと快適さは劣るけれども、必然的に解体することはな いであろう。社会は様々な人々の間で、さまざまな商人の間でのように、それの効 用についての感覚から、相互の愛情や愛着がなくとも存立しうる。」(TMS、134頁)
同感論は人間が社会的な存在になりうるメカニズムを描いているといってよいだろう。 人は中立的な観察者の視線を生まれた時から心の中にいだけるわけではない。 社会の中で生活することではじめて、中立的な観察者の視線を自らに内面化できるのである。 それは見知らぬ他人から成り立つ近代社会が要請している、社会的な人間の形成と言えるだろう。 (なお、上の引用で「商人の間で」という表現がある。同様の表現は『国富論』の中にもある。互いに愛情や愛着の感情を持たず、自分の利益のために行動する見知らぬ他人という意味で、「商人」という表現を使っているのである。)
■消極的正義
スミスは中立的な観察者の判断を「正義の感覚」(TMS、200頁)と表現する。
中立的観察者の同感を得られない行為は、
「正義の諸法」、すなわち生命・身体の自由、所有権、契約の遵守、に違反する行為である。
逆にいえば、これらさえ守っていれば正義が実現されることになる。
「もっとも神聖な正義の諸法、すなわち、それらに対する侵犯が復讐と処罰をもっ とも声高く要求するように思われる諸法は、われわれの隣人の生命、身体を守る諸 法である。つぎは、彼の所有権と所有物を守る諸法であり、全ての後に来るのが、 かれの個人権と呼ばれるもの、すなわち他の人々との約束によってかれに帰属する ものを守る諸法である。」(TMS、132頁)
「たんなる正義はたいていの場合に消極的な正義にすぎず、隣人に害を与えるの を妨げるだけである。....われわれは静座し、何もしないでいることによって、 正義の諸規則の全てを満たしていることがあるだろう。」(TMS、128頁)スミスの正義論は「消極的正義論」と呼ばれることがあるが、 その意図は商業社会を肯定する論理の導出にあった。 スミスの言う正義の諸法の内容は、ロックなどの自然法とほぼ同じ内容である。 言いかえれば、ロックなどが神などを持ち出しながら説明した自然法を、 スミスは同感論によって基礎付けなおそうとしたということになる。
意図せざる結果の論理
マンデヴィルにおいて、個人が意図することなく、全体の利益に役立つという、
意図せざる結果の論理は重要な役割を果たしていた。
スミスにおいてもそうである。
利己的な行動を肯定したのは、第一には中立的な観察者によって是認されるからである
にしても、それに加えて、利己的な行動が社会の利益を結果的にもたらすと考えたからである。
『道徳感情論』で述べられたこの考え方は、
『国富論』でより体系的に展開されていくことになる。
「懐中時計の歯車は、すべてそれが作られた目的すなわち時を示すということに見 事に適合している。それらの様々な運動のすべてが、素晴らしい仕方でこのような 効果を生み出すのに協力しあっている。もし、それらに、それを生み出そうという 意欲と意図とが与えられてたとしても、よりうまくそれを果たすことはできなかっ たであろう。」(TMS、136頁)
「富裕な人は、生まれつきの利己心と貪欲とにかかわらず、かれらは自分たちの全 ての改良の成果を、貧乏な人たち分割するのであって、たとえ、かれらは自分たち だけの便宜を目指そうとも、また彼らが使用する数千人の全ての労働によって目指 す目的が、彼ら自身の空虚であくことを知らない諸欲求の充足であるとしても、そ うなのである。彼らは見えざる手に導かれて、大地がその全ての住民の間に平等に 分割されていた場合になされたであろうのとほぼ同一の生活必需品の分配を行うの であり、こうして意図することなく、それを知ることなしに社会の利益を押し進め 、種の増殖に対する手段を提供するのである。」(TMS、280頁)この引用は『国富論』冒頭で登場する「富裕の一般化」の議論とほぼ同じ内容である。 ここに出てくる「見えざる手」という言葉に注意。 スミスの「見えざる手」はとても有名であるが、『国富論』と『道徳感情論』に それぞれ1箇所しか使われていない。