卒業論文作成プロセス:一事例

卒論を書き上げるプロセスはあまり目にすることはないと思います。 世の中には『卒論の書き方』といった書籍もいくつか出版されていますが、 高級すぎるものが多いように思われます。 そこで、私の香川大学時代のゼミ生Tさん(2001年3月卒業)が卒論を完成させるまでにたどったプロセスを、私の感想も加えながら、参考までに紹介しておきます

Tさんは3年の時点で卒論を書こうと考えておりましたが、 本格的に取り組んだのは、4年になってからです。 以下の日付は私の記憶によるものなので、かなり不正確です。 また、私の目に見えた範囲のことですから、ここには書かれていない苦労をTさんが していたのは言うまでもないことです。

6月頃
T「若者論について卒論を書きたいと思います。」
私「若者論といっても、いろいろな切り口があるだろう。どんなところに関心があるの?」
T「コミュニケーションのあり方についてです。 最近コミュニケーションが希薄になっているとか言われますが、 その辺りに関心があります。 例えば、携帯電話での普及が会話の内容に影響を与えているのかどうか、といったことです。」
私「何か関連する文献を読みましたか?」
T「新聞で『ぼかし言葉と若者コミュニケーション』という記事を読みました。」
私「それだけでは卒論を書く材料にならないよ。 今の若者は何々だ、と自分勝手に断定しても、それでは卒論にはなりません。 もっと、資料を集めてみなさい。卒論の材料になる先行研究があると思うよ。」

Tさんの問題関心は理解できたのですが、 具体的なデータとして把握するのが困難なテーマに思えました。 「雲をつかむような話で卒論のテーマにはなりにくい」というのが私の率直な感想でした。 この時点での私の指導方針は、ともかく若者論に関する文献を数多く探させ、読ませることでした。 なぜならば、若者論そのものは無理でも、「若者論の変遷」とか「若者論の類型」ということならば、 何とかなりそうな気がしたからです。

8月頃
夏休み期間中にTさんが読んできた2,3の文献(岩波新書、PHP新書など)の内容を説明してもらいました。 だいたいどれも、「若者は自分をさらけ出そうとしない」、 「本音を語り合わない」、「うわべだけの会話が多い」、 「相手との摩擦を避けるために議論をしない」といった内容でした。

Tさんが読んできた文献は、データに基づいた議論ではなく、 おじさんたちの印象批評を出るものではありませんでした。 どちらかと言えば、何とでも言えそうな議論ばかりで、論文とは言いにくい感じでした。 実は、私の方でも文献を探してはみたのですが、 適当なものは見つかりませんでした。 したがって、「若者論の類型」といった私のアイディアも頓挫しつつありました。 私にとっても暗中模索でした。しかし、 データさえ入手できれば、それを加工して何とかなるような気もしてきました。

私「アンケート調査で何かデータを引き出せないかな?」
T「私も学生へのアンケートを考えていました。」

しかし、アンケートと言っても、どんな質問項目にすればいいのか、 私自身門外漢なので全く見当がつきませんでした。 そこで、指導に先だって下調べをしてみることにしました。 まず、専門的な論文ならば、もう少し実証的なものもあるのではないかと思ったので、 学術論文を検索してみました。 しかし、私が思いついたキーワードで検索しても、問題関心に合う論文は見つかりませんでした。 仕方なく、書籍のタイトルで何かヒットしないかをOPACで調べることにしました。 ヒットしたのが、日経産業消費研究所『データでみる若者の現在』という調査報告でした。 これならば使えるかもしれません。

一応、ここまで下調べをしてから、Tさんを研究室に呼んで、 一緒にもう一度、データベースによる検索をやってみました。 結論は分かっているのですが、しかし、学部生は論文探しのノウハウが全くありませんから、それをやらせることに意味があると思ったからです。 キーワードを連想させながら、検索作業をやらせてみました。

Tさんに探し出させた『データでみる若者の現在』を他大学から現物貸借しました。 おじさんたちの若者論を批判するのに使えそうなデータも少しはありましたが、 論文の手がかりになるほど有益なデータはほとんどありませんでした。 しかし、大きな成果もありました。 博報堂消費研究所『調査年報:若者−まさつ回避世代』という問題関心にぴったりの調査が行われていることが書かれていたからです。 これもすぐに現物貸借することにしました。 そこでは携帯電話などのコミュニケーション手段と話す内容のアンケート分析がありました。 博報堂の調査によると、おじさんたちの若者論で説かれているのとは逆に、 本音で話す若者像が浮かび上がってきました。 これでおおよその卒論の方向が決まりました。

そのころ丁度タイミングよく、新聞のベタ記事が私の目に止まりました。 携帯利用者がどんな会話をしているのかという アンケートの結果をNTTドコモが発表したという記事です。 私は「何としてでも、集計結果をドコモからもらってきなさい」とTさんに注文をつけました。 Tさんはドコモ本社に連絡して、集計結果を送ってもらうことができました。 その内容は、おおよそ博報堂の調査結果を支持するものとなっていました。 すなわち、「携帯での会話はうわべだけのものではない」という結論です。

9月頃
入手した調査を参考にしながら、Tさんはアンケート用紙を作成しました。 その主なポイントは友人数やコミュニケーション手段(利用時間・利用料金・頻度)と相手による会話の内容です。

実際の調査を開始する前に、Tさんの方から、 「ゼミ生に予備調査を行うことで、アンケートに不備がないか、 改善すべき点はないかを確認したい」と申し出があり、 ゼミの時間をそれにあてました。 ゼミ生からは質問の主旨が不明確なものがあることが指摘され、改善が加えられました。

アンケートを実施する前に予備調査をやるように指導するつもりでしたが、 その必要はなかったわけです。

10月頃
アンケート調査を開始する前に、言わずもがなのことですが、私の方から念のために一点だけ注意しておきました。 「かつて、講義の直前になってから、 調査目的も言わずに『今からアンケートを取らせてくれ』という失礼な学生がいました。 遅くとも1週間前には許可を取っておくこと。 アンケートの目的と使わせてもらう時間を伝えること。」

アンケートの配布と回収に協力してくれる友人を手配しながら、効果的な時間帯を選び出し調査が行われました。ゼミ生や友人など10人以上が協力してくれました。期間は2週間ぐらいでしたが、996人分も集めてきました。 私の予想をはるかに上回る数でした。

11月頃
アンケート結果のExcelへの入力は意外なほど短時間で終ったようです。 私は「クロス集計ができるように一人一人のデータをレコードにして、 各項目をフィールドにせよ」という指示を与えましたが、これまた言わずもがなのことだったようです。

さて、結果の方ですが、うちの学生についても、博報堂の調査を支持する内容で、 本音で話す学生たちといった姿が浮かび上がってきました。 ここからTさんは「携帯電話が生み出す適度な距離が本音の会話を生み出せる」という 結論を導き出しました。この結論は従来の調査報告よりも、 さらに一歩踏み込んだ独自の結論です。

ゼミの時間を1時間使って、Excelの利用方法、特にグラフの書き方と クロス集計のやり方の講習を行いました。 代表的ソフトの基本的な使い方は、1年次にしっかりマスターしておいてください (これからの4年生は情報処理基礎を履修しているはずですから、 今後はゼミの時間に基本的な操作の講習は行いません)。

12月頃
結論がはっきりしていたので、論文の執筆は順調に進んだようです。 最初の草稿は2週間ぐらいで書き上げたようでした。 本文が原稿用紙40枚分ぐらいのものです。

草稿に目を通したところ、アンケートの分析結果の中に若者論や博報堂の調査が 紛れ込んでいるスタイルなので、論旨が分かりにくく、ストーリー性が希薄な感じに なっていました。 執筆者は分かり易く書いたつもりでも、読み手には分かりにくい、というよくあるパターンです。

私「論旨が分かりにくい。 従来の若者論を最初に紹介し、次にそれとは逆の結論となっている博報堂、 日経、ドコモの調査を紹介する。次に本論として、香川大学生のアンケート分析を書いて、 いずれの結論に近いのかをはっきりさせる構成が分かりやすいのではないだろうか。」
最終的には、この構成で卒論が完成しました。

提出。本文が原稿用紙約50枚分。アンケートの集計結果(表)とグラフがA4で20ページ。 なかなかの力作です。

1月
口頭試問。

このプロセスを見ると、執筆の期間が短いという印象を持った人が多いと思います。 十分な材料があり、結論がはっきりしていれば、論文の執筆自体はそれほど時間がかからない ものなのです。材料集めの段階で論文の80%程度は終わったと言っても良いでしょう。

この卒論の場合には、二つの説のうちどちらが正しいかを検証する、 という手堅いスタイルとなっています。 でも最初からそんなに都合よく論文の構成ができあがるわけではありません。 先行研究を集めながら、次第に卒論の骨格が出来あがってきた、 ということが上記のプロセスからよく分かると思います。 自分の頭の中で考えたことだけでは、論文は書けないものなのです。 先行研究の調査が必要不可欠です。 ある文献から芋づる式に他の文献が見つかっていく場合もあれば、 各種のデータベースを利用しなければならない場合もあります。 こうした調査にはノウハウと時間が必要です。 早い時期から卒論に取り組みましょう。

若者のコミュニケーションという漠然とした関心が、 通信手段と会話内容や時間といった具体的な対象に限定されていったことが分かるでしょう。 すなわち、卒論の骨格が出来上がっていくプロセスは、問題関心が具体的なものになってゆくプロセス であったということができます。 しかも、その対象がアンケートによる具体的な数値として把握できたために、 他の研究との比較やデータの加工が可能となり、 説得的な論文が完成したわけです。

とはいえ、振りかえって見ると、ラッキーな面もありました。日経の調査報告を入手できたのは偶然です。 これが入手できなければ、博報堂調査なども見つからず、 場合によれば卒論は完成できなかったかもしれません。 そういう意味では綱渡り的な作成だったと言えます。

さて、学部生の卒論としては、十分に優に値する卒論と評価しました。 プラスのポイントは、(1)独自の結論を自らの労力で集めたデータで実証したこと、 (2)先行研究との比較対象により、論旨が明快であること、などです。 他方、もう少し改善すべき点もありました。 第一の欠点は、統計的な手法による分析が不十分なために、せっかくのデータが生かしきれていないという欠点です。 統計の技法は短時間では身に着きません。是非、1年の段階でしっかり身に着けておいてください。 それから、表計算ソフトによるグラフの書き方をマスターするために、 ゼミの時間を1時間あてました。 こうしたテクニックも1,2年のうちにマスターしておいてください。 第二の欠点は、アンケートの質問項目の不備です。 コミュニケーションの質を十分に解明できるだけの質問項目であったか、 というとやや疑問が残りました。 先行の調査報告と比較対象したいというねらいもあったために、それらの質問項目に やや引きづられすぎたようでした。 ねらいどおりのアンケートを行うのは案外と難しいものです。 私も勉強になりました。

付記:指導教官としての私の反省点もいろいろあります。 第一に、少し世話を焼きすぎたようです。 完成度は低くとも、もっと学生の自主性に任せるべきだったと思っています。 第二に、自分の専門外のテーマを認めるべきか、という問題です。 この卒論は私の専門である経済思想史どころか、経済学でさえないテーマです。 従来の学問分類でいくと、社会学になるのか、心理学になるのか、といったことも 素人の私には未だに分からないありさまです。 そのせいで、極めて非効率的で不適切な指導を多々してしまいました。 このままでいいのか、私の指導ができるテーマに限定させるべきなのか、 ちょっと悩んでいるところです。

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