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1815-1832年のイギリス政治史 

ここに抄訳したのは、学部生レベルの入門的小冊子である

 Eric J. Evans, Britain Before the Reform Act : Politics and Society 1815-1832,Longman, 1989.

である。

イギリス古典派経済学研究のためには、それと関連する政治史の知識が不可欠である。1830年代の改革前の時期が「立法停止期」(ダイシー)などと呼ばれることで、政治的に停滞している印象を与えたこともある。しかし実際には、フランス革命と国内の産業構造の変化に対応した激動の時期であった。こうしたコンテクストを無視して経済思想史は成り立たない。イギリスではこの時期を対象にした歴史研究の蓄積がある。ところが、トーリー政権期に対する政治的なバイアスもあってか、チャーチスト運動に焦点をあてた研究を除けば、18世紀終わりから議会改革までを対象にしたわが国の政治史プロパーの研究は少ない。依然として「フランス革命から1830年にいたる時期の政治史は、わが国においてはほとんどブランクの研究領域」(『世界歴史体系イギリス史』)と言われているように、翻訳も含めて邦語で読める概説書もほとんどないのが実状である。

Evans はE.P.トンプソンら左翼的な歴史観から距離を置いている。要するにトーリー政権に比較的好意的で、急進主義者らの評価が厳しい。わが国では保守的とも言えるこうしたスタンスの研究は未だ少数派であるが、イギリスではそれなりの伝統がある。例えば政治史家の大家である Norman Gash などがあげられる。Evansも依拠している、Gashによる下記の読み物風テキストも定評がある。
N.Gash, Aristocracy and People : Britain 1815-1865, Harvard U.P., 1979.

Evans による詳しいテキストしては下記のものもある。
The Forging of the Modern State : Early Industrial Britain 1783-1870, Longman, 1983.

議会改革だけに焦点を絞った邦語文献としては、 吉瀬征輔『十九世紀イギリスの議会改革』,1991,法律文化社がある。

この時期の出来事については、 Web of English History にも簡潔な解説があり、参考になる。


改革前のブリテン:政治と社会1815-1832

第1部 背景

第1章 1815年のことなど
第2章 変化する社会

第2部 戦後ブリテン:1815-1820年の危機

第3章 リバプール卿とその閣僚と議会の野党
第4章 急進主義的政治の復活 1815-17年
第5章 ピータールーとカトー街の陰謀
第6章 カロライン王女の奇妙な事件
第7章 カースルレー子爵のもとでの外交政策

第3部 戦後ブリテン:1821-1827年の安定

第9章 「リベラル・トーリズム」とリバプール卿の功績
第10章 貿易、課税、財政

第1部 背景

第1章 1815年のことなど

1815年はイギリスの歴史においては重要な年である。6月18日にはウェリントンがプロシアと連合してナポレンを打ち破った。ワーテルローの戦いはブリュッセルのすぐ南で戦われた。ウェリントン指揮下の7万6千の軍隊はヨーロッパの運命を決定したように思われる。彼らは15世紀以降で最も長く、これまでで最もコストのかかった戦いに終止符を打った。この勝利は1世紀以上にわたって失われることのないヨーロッパの外交におけるイギリスの決定的な影響力をもたらした。

イギリスは1793年に参戦してから、最初は革命戦争、次にナポレオン戦争へと1802年から1803年の短い休戦をはさんで続いたヨーロッパでの対仏戦争を継続した唯一の国である。ヨーロッパの主要な国の中でフランス軍に蹂躙されなかった唯一の国であった。商業上は重要ではあってもヨーロッパの出来事の中では周辺部にいたイギリスは、1815年に主導的なパワーとして認知された。多くの講義題目が、外交上の、商業の、産業の、そして近年では帝国の傑出を通じてイギリスの発展を第一次世界大戦まで跡付けているのは驚くべきことではない。

しかし、1815年は多くの点であまり重要ではない。新しい政府が誕生したわけではないし、対仏戦争の終結が国内の政治的な出来事に重要な変化を与えたわけでもない。ウェリントンがワーテルローの戦いに勝ったときに、リバプール伯爵は3年間首相であった。彼はトーリー政府を率いた。この政府の主要なメンバーは対仏戦争の早い段階のうちに政治的に成熟し、その主要な指導的原理はイギリス革命への脅威から改革に反対するものとなっていた。

新しいトーリー党は改革に反対する土地などの財産所有者の連合として小ピットとの指導下で巧みに作り上げられていた。もっともトーリーという呼称を最初に認めたのはリバプールであったけれども。トーリーは下院で安定多数を占めていた。非トーリーの大臣はいわゆる「人材内閣 Ministry of all the Talents' 」と間違った名前が付けられたものが1年続いただけであった。リバプールはパーシバルの暗殺の後で首相となった。リバプールは偉大な政治的生き残りであることが証明された。リバプールは傑出した首相というわけではなかったが、彼は多くの徳を持っていた。彼はそれほど有能ではなく、「もっとも温和な人間の一人」と呼ばれるような存在だった。より有能で派閥的な仲間であれば、リバプール以外の人間とは協力できなかったであろう。1827年までは彼はかけがえのない人物であったように思われる。トーリーは分裂することなく、彼を取り替えることはできなかった。19、20世紀で最も在任期間の長かった首相である。

19世紀初頭ではまだ独立した力を持っていた国王は1815年に代わらなかった。政策の対立から人気のあった小ピットを国王は1801年にやめさせた。しかしながら、それは国政の危機につながらなかった。1720年代だから1820年代にかけては、すべての首相の選択に強い影響力を持っていた。上院と下院の希望は国王が考慮すべき要因に過ぎなかった。有権者の意向は全く重要ではなかった。パトロネージによってお気に入りを任命する国王の権利が減らされるにつれて、国王の力は衰退し始めていた。

ジョージ3世は1760年からその座にいたが、精神的な不安定から職務遂行ができなくなっていった。「農夫のジョージ」がウィンザー城で木に語りかけ始めた。発作のあとの1811年2月に統治に相応しくないと宣言された。彼の長男が摂政についた。ジョージは悪意があり下品で放蕩であったけれども、1820年に国王となった。彼は政治的には無能で、不機嫌な怒りと確固とした声明との違いを理解していなかった。彼が権力の座についていた1811年から1830年の間に国王の残された力も急速に凋落していった。ジョージ3世が正気のジョージ4世よりも家臣から尊敬されていたというのはおそらく本当であろう。これほど非難された国王はめったにいない。

1815年をより広いコンテクストに置くもっと根本的な理由がある。そのころイギリスは急速に産業化されていた。いかなる政治的、外交的「革命」よりも産業革命が社会をはるかに根本的に変化させたことを歴史家は認める。本書が関心を向ける多くの危機は産業革命の初期の帰結である。1815年からはじめる研究は1780年代から続いているイギリスの変化を認識しなければならない。産業革命が開始された日にちを特定することはできないけれども、しかしこの広い産業上のかつ社会的なコンテクストの中では1815年を特別視することはできない。

産業革命はイギリス社会だけではなく政治システムをも変化させたのであるから、この発展を意味づけるためにはこの時期の政治史と社会史とを合わせて研究しなければならない。政治史家が今日、社会的な枠組のなかで議論を展開していることは、歴史の理解にとって有益である。社会史家は階級間の政治的闘争に、とりわけ19世紀初頭の議会改革に多くの注意を払っている。

第2章 変化する社会

変化が速かったせいでイギリス社会は1815-1832年にかけてきわめて緊張した状態にあった。最も基本的なところで、イギリスはますます大きくなっていった。18世紀初頭の人口停滞期以降は、1730年代から確実に増加し始め、1780年代は急速な増加に見舞われた。1801年の第一回国勢調査の時点で、1060万人となっており、一世紀前の2倍に達していた。本書が扱う17年間だけでも、1290万人から1660万人へと29パーセント増加した。イギリスの人口はこの時期ほど早く増加したことはなかった。

発展途上国の研究者ならばよく知っているように、急速な人口増加はほぼまちがいなく社会的な混乱をともなう。19世紀初頭のイギリスが飢餓を経験しなかったのは、効率的な国内の農業システムと外国貿易の発展したパターンに多くを負っている。1815-1820年の不穏な時期の背後には、食料価格の急速な変動があった。小麦の平均価格は19世紀を通じて、1810-1819年が最も高かったし、これほどひどく変動することもなかった。

人口増加のもうひとつの側面は、重要であるのにあまり注意を引いてこなかった。イギリスの人口は若かった。女性の結婚年齢が下がったために、出生率は極端に高かった。急速な経済発展の中で就業機会を見出せたから、このようなことが可能となった。18世紀前半の女性の初婚年齢は26.2歳であったが、19世紀前半では23.4歳に下がった。妊娠可能年齢が限られたものであるとすれば、これは劇的な変化を生み出した。イングランドとウェールズの人口の48パーセントが15歳以下であったと推定されている。若年への人口構成の歪みは稼ぎ手の負担となり、この時期の「飢えの政治 hunger politics」の多くが死に物狂いとなる要因となった。抗議運動がどの程度まで若者に依存していたかは考察に値する。均等な構成よりも若年にかたよった人口構成の方が安定性は低くなる。

産業社会の変化のよくある描き方は、都市の成長、工場生産、労働条件に注目するものである。産業革命が工場と機械のリズムに合わせて働く労働パターンの出現であることには疑いはない。たいていの工場が町の中にあることも否定されない。産業革命と都市の成長は手を携えていた。しかし、次の4点は覚えておかなければならない。

第一に、産業革命はしばしば思われてきたよりも長い期間にわたるものであること。この時期の工場生産はもっぱら安い繊維製品に集中していた。行われていたのは次の3つの地域である。南東ランカシャーと北西チェシャー地域、スコットランドの中央渓谷地域、ヨークシャーのウェストライディング地域である。ここに、マンチェスター、ボールトン、サフォード、ストックポート、グラスゴー、ペズリー、リーズ、ブラッドフォードのような工業都市が育っていった。第二に、これらの工場都市では数千人もの労働者を雇用する巨大な工場が支配していたのではないこと。1841年でランカシャーの工場のわずか3パーセントだけが1000人以上の工場であった。43パーセントは100人以下であった。初期の工場生産の規模は過大評価されている。

第三に、世紀前半の都市との発展は工場生産が生み出したというよりも、伝統的な方法での拡大と合体であった。中部のバーミンガムと南部ヨークシャーのシェフィールドはともに金属産業の中心地であったが、多くの繊維産業都市よりも急速に成長していた。両都市は熟練工、渡り職人、徒弟を雇用する小規模な親方の作業場で満ちていた。こうした都市の性質は変化しなかった。都市の成長に工場生産は必要なかったのである。1821-1831年に最も急速に成長したのはジョージ4世の贔屓でファッショナブルになったレジャー都市ブライトンである。

第四に、田舎の労働者の抗議にとりわけかかわることであるが、この時期の都市の成長は田舎から都市への移住によって生み出されたのではないということ。1760-1820年にかけての議会囲い込みによって小作がプロレタリア化し、それが新興の都市に押し寄せたとするひどく間違ったイメージは一掃されなければならない。

ロンドンを例外とすれば、遠く離れた田舎からの人口移動はなかった。グラスゴー、マンチェスター、ボルトンの急速な発展は、周辺部からの移住によるものと高い出生率がもたらした自然増によるものであった。農業を離れては替わりの就業機会がほとんどない南部の田舎でも人口は1850年代まで増大し続けた。それは絶望と悲惨を後に残した。

初期産業革命の社会的コンテクストは複雑であるが、1815年以後の政治的闘争を理解するのに重要である。一つのことは非常にはっきりしている。経済力の基盤は劇的に変化しつつあった。ウォーヴィックシャーから北の産業州からの議員を増やそうとする要求は年々増していった。しかし、穏健で合理的な考慮や論争では政治的な変化は生まれなかった。不平と苦痛がより有効な刺激となった。ワーテルローのおけるウェリントンの勝利からの興奮した数年間は満ち足りていた。

第2部 戦後イギリス:危機の1815-20年

第3章 リバプール卿とその閣僚と議会の野党

ワーテルロー以後、トーリー政権は安定したように思われる。1813-14年のスペイン半島での勝利とロシア戦は政府を安定させた。1815年までにリバプールは、アール・グレイとグレンヴィルに率いられたウィッグよりも80人ほど多い支持者を持っていた。この優位は次の5年間で増した。

しかしながら、19世紀初頭はたとえ安定した政府であっても、二つの理由から下院の多数派を占めることはできなかった。第一に、20世紀の状況と対比するならば、政党に従う議員は少数であった。彼らは公平無私な態度で有権者を代表することが義務であると考えていた。第二に、たいていは政府を支持する人々の間には、支持させる「鞭」のシステムがなく、支持は状況しだいであった。リバプール期の政党への忠誠も強力なものではないと指摘されている。近年の研究ではこうした見方の誤りを指摘するものもあるが、論争における突発的な態度や政党によるしっかりしたコントロールがないせいで、多数派を計算することは不確かな作業であった。

下院が政府の政策から独立に行動できることが1816年3月に明らかになった。このとき、戦時に積みあがった借り入れを削減するために、低い税率ではあったが、政府は所得税を維持しようとした。所得税は富裕なものから金を取るこれまででもっとも効率的なやり方であった。しかし、議員たちは小ピットによって戦時支出のためだけに1799年にはじめて所得税が導入されたことを思い出すまでもなかった。所得税反対派は平和時の所得税は個人の自由の侵害であり、約束の破棄であると主張した。シティーでは商人、銀行家、店主ら22000人の請願を提出した。

政府の議会担当者は多数派であると予測していた。所得税は37票差で敗れた。カースルレー子爵(Viscount Castlereagh)は摂政に支持を見込んでいたものが反対したと告げた。独立派の2倍はいたと推測される選挙区を代表する議員たちが反対票を投じたことは重要である。タイムズ誌は下院は「地域に同情した」と、財産所有者を擁護した。動揺した政府は、もう一方の収入源であったモルト税の改定に反対した。この二つの税で歳入の4分の1にあたる年間1750万ポンドとなっていた。大蔵大臣ヴァンシッタート(Vansittart)は借り入れの増額を余儀なくされた。これはロンドンの銀行家たちを喜ばせたが、長期にわたる問題をふくらませた。

ディベートの才能があれば、リバプールの税制政策は生き延びたかもしれない。しかし、ノーマン・ガッシュ(Norman Gash)が指摘したように、リバプールは上院の9人の閣僚の一人であった。下院にいた4人の閣僚のうちカースルレーだけが有能な弁舌家であった。ヴァンシッタートは能力がなく、Bragge-BathurstやWellesley-Poleは悲惨なものがあった。リバプール政府が上院の方に有能で数多くの閣僚を有していたことは、決して珍しいことではなかった。1832年以前は、カントリーの大地主が政府をコントロールしており、彼らの地位と政治的影響力は世襲のものであった。しかし、17世紀になると下院が財政の実権を握った。政府は1815-20年の間は経済不況に圧倒的に関心を持っていた。不況に起因する政治的な不満は下院により強く反映されるはずであった。

バッキンガムシャー伯爵(the Earl of Buckinghamshire)が亡くなった1816年に事態は幾分改善された。カニングが監督局(Board of Control)の議長を継いだ。カニングは下院で最高の弁舌家の一人であったが、そのせいで逆に不人気となった。政治的な対立者に向けられた鋭いウィットに、彼の迅速さと自信が加わった。カニングはますます御しにくくなっていく政権内の敵意の源となった。1818年に異論のない有益な登用が行われた。1820年代に政府の経済政策の主要な扇動者となるロビンソン(Frederick Robinson)の登用である。

リバプール政府の著名な登用は上院から行われた。ウェリントン公爵がフランスでの大使と占領軍の指揮官の役を終えて、1818年末に帰国した。政党人でないと躊躇したが、彼は軍需省の将軍(Master General of the Ordnance)を引き受けた。1818年にはリバプールはウェリントンの名声が問題で悩まされている政府の重石になると考えた。崩壊の危険性はなかったが、ウェリントンの存在が困難な時代にカントリー・ジェントルマンや動揺している人々にたいしてリバプールを信用できる人間であると保証することになった。1818-1846年にもわたるトーリー政権での仕事と比べれば、とるに足らない次の役職もウェリントンは引き受けた。それが彼をしてきわめてはっきりとした、時に議論を呼ぶ「政党人」たらしめることになる。

リバプール政権は完全な「トーリー」政権である。なぜならば、市民権を土台にした代議制政府という「フランスの原理 French principles」に反対した。安定を本質的に保証するものとして財産を擁護した。秩序と制約のない自由とが衝突するときには、前者に優位を与えた。不寛容ではないにせよ、国教会の特権を熱心に擁護した。教会に対する攻撃そのものを国家に対する攻撃と信じた。土地財産は商業や貨幣的利害よりも優れたものと確信していた。議員の大多数は地主であったけれども、ウィッグは商業あるいは都市の利害を背景とする議員をトーリーの約2倍有していた。トーリーは海軍や陸軍の退役将校の間で圧倒的な支持を得ていた。戦争によって、トーリーはイデオロギー的な信任だけでなく、愛国的な信任をも得ることができた。

リバプール政府はめったに実行はしなかったが、王権への敬意を強調した。そして冷血な貴族的家族によってコントロールされるウィッグの伝統と対比することを好んだ。この家族は、必要とあらば国王の利害に反してでも財産のあるイングランド人を擁護する権利を主張した。リバプールがトーリーの責任を象徴した。リバプール自身は伯爵であったけれども、父親はつつましい身分からジョージ3世への忠誠で爵位を得た成り上がりであった。閣内でもっとも反動的な二人の閣僚は、内務大臣のシドマス伯爵(Viscount Sidmouth)と大法官(Lord Chancellor)のエルドン卿(Lord Eldon)であった。彼らもプロフェッショナル階級、商業階級からの成り上がりであった。カースルレー(Viscount Castlereagh)子爵は土地財産を背景にしていたが、アイルランドの土地であった。彼が政治的に注目されるようになったのは、1798年のアイルランド反乱が残した混乱を書記長(Chief Secretary)として一掃したからであった。

野党ウィッグの大半は貴族であった。しかし、彼らはリバプールに対して有効な攻撃がほとんどできなかった。彼らは所得税の廃止を予想しえなかったために、その結果を宣伝する準備ができなかった。野党内での分裂の方がはるかに重要である。一貫して政府に反対してきた150人ほどは18世紀以来のウィッガリー(Whiggery)の伝統を受け継ぐものであった。彼らは大土地所有家族による保護とコネによって結びついていた。彼らは自らを、独裁制と共和主義の危険な過激派から国家を守るべき幅広い教養と教育を受けた、堅固な責任のある国家のバラストとみなしていた。彼らはいわゆる1688年の「名誉革命」が財産のある中庸(propertied moderation)の究極的な勝利を表していると信じていた。そして自らを確立した制限君主制(limited monarchy)の伝統の継承者と見なしていた。この伝統は自由、とりわけローマ・カトリックと非国教徒に対する寛容を含んでいた。

ウィッグの伝統は、貴族的政府への幅広い基礎を持つ合意の最良の保証として議会改革を支持する者によって、およびフランスとの戦争への懐疑や敵意の低下によって、歪められていた(悪用されていた、1794年にピットに従った保守的なウィッグ批判家はそう信じた)。これはフォックス(Charles James Fox)の遺産であり、グレイ(Earl Grey)によって継承された。1790年代の若手の急進主義ウィッグであるグレイはフォックスをして議会改革支持に向かわせるのに役立った。

しかし、ウィッグの肩書きだけの指導者は違う伝統からやってきた。グレンヴィル卿は1790年代のピット内閣の主要閣僚であった。しかし、1801年以後の新しい首相アディントン(Sidmouthの別名)にその平和政策が原因で使えることを拒否した。グレンヴィルは短命の人材内閣を指導し、罷免された後は野党のリーダーシップを維持した。グレンヴィルは1815年以降、ウィッグを指導するのがますますいやになった。その第一の理由は、首相以上に経費削減と安価な政府を信じていたからである。これがウィッグのより急進的な部分と衝突した。第二の理由は、議会改革に完全な敵意を持っていたからである。1817年に、議会外のアジテーションから法と財産を守ろうと意図した政府を支持することを表明して、グレイや他の著名なホーランド(Holland)、ランズダウン(Lansdowne)、ホィットブレッド(Whitbread)、ブルーム(Brougham)とともに仕事を続けることをついにやめた。議会改革はウィッグ主流派をますます困惑させるものとなっていった。1816年にホーランドは声高に宣言した。「議会改革を詳しく考察すればするほど、好ましいと思えるものはますます減っていった」。しかし、議会改革支持者が窮地に追い込まれたわけではない。たとえグレンヴィル派抜きではあっても、ウィッグは改革の十字架を1820年代へと運ばなければならないであろう。

下院でのウィッグの行動は時おりきわめて効果的であった。ウィッグはサミュエル・ロミリー(Samuel Romily)やブルームのようなすぐれた討論家を抱えていた。彼らははるかに一貫性を欠いていたトーリーを愚かもの見えるようにした。しかし彼らのエネルギーは、党にあまり利益をもたらさない、教育や法律の改正といった特定の問題に注がれた。ウィッグは個人的な悲劇にも見舞われた。ウィットブレッド(1815年)もロミリー(1818年)も自殺した。彼らがいなくなったことで、ウィッグ主流派とより民主主義的な傾向を持つフランシス・バーデット(Francis Burdett)や短気なブルームとの共闘の見込みは薄くなった。多くの理由で、ウイッグは本来の攻撃がめったにできなかったし、下院における議員数ほどにはリバプールに打撃を与えることはなかった。時間が経つにつれて、議会外でのアジテーションや騒乱に対する恐怖も手伝って、リバプール率いるトーリーはますます強く結合していった。

第4章 急進主義的政治の復活 1815-17

主要な歴史家〔E.P.Thompson〕はワーテルローにつづく数年間を「民衆急進主義の英雄的時代」と呼んだ。個々の英雄的行為は沢山ある。多くの指導的急進主義者たちが反政府のかどで獄につながれた。あるものは反逆罪を宣告され、あるものは処刑された。しかし、「英雄的時代」はこれにとどまるものではない。1815-1820年に政府は、個々の政策ではなく、その権威そのものが挑戦を受けていた。その挑戦はそれ以前の政府が経験したものよりも幅広く、長期間にわたるより重要な挑戦であった。

だからといってリバプール政府が以前の政府よりも覆されやすかったというわけではない。そのような主張は明らかに間違っている。リバプール政府は生き延びたのである。この期間の真の意義は、少数の富裕な、そして多くは選挙されていない人間によって政府が動かされるという考え方に対する、信頼性への攻撃を受けたことにある。正統な政府は継承よりも代表に関わっていると考えられていた。この原理事態は新しいものではない。1640-50年代の「イングランド革命」の時期に、多くの急進的なセクトが主張してきたものである。それはヨーロッパの18世紀啓蒙思想に共通する政治的言説でもあった。1790年代にトマス・ペインによって広められたこの言説は対仏戦争期に小ピットの権威に挑戦した。それは、熟練工や少数の著作家、知識人の要求に対する財産所有者の堅固な同盟を促した。

しかし、1815年以降は愛国的な同盟は崩壊した。戦争の末期になると、ランカシャーの綿工場が多くの市場を破壊するイギリスとフランスの経済的な交戦状態のせいで苦境に立たされていた。不況と破産は古い秩序への忠誠を試すものとなった。

工場が休止して帰休させられた労働者たちも、戦費支払いのために課せられたパン、砂糖、石鹸、モルトのような基礎的な消費への高い間接税を支払わされた。そして18世紀後半の2倍以上になったクォーターあたり6.3ポンドの小麦価格が彼らを直撃した。1812,13,15年に中部、北部イングランドをジョン・カートライト(John Cartwright)が旅したときに、労働者たちは彼の改革派としての議論に影響を受けやすかった。戦争の終わりまでに、1790年代の議会改革については無知か不熱心であった者も、今や単にそれを受け入れるだけではなく、労働者自身のリーダーと政治的意識を生み出すまでになった。

リバプール政府は1815年以後、土地所有者の議会には抗しがたく、合体して一つの強力なアジテーションとなる二重の挑戦を受けていた。一方では、とりわけ北部で工場の支持を失ったことである。他方では、それまでロンドン、ノリッジ、シェフィールドのような政治的に目覚めた熟練工がいる地帯に見られた労働者の不満が、マンチェスター、ストックポート、ボルトン、リーズといった新興工業地帯でもますます政府に挑戦するようになっていた。産業革命は国家の政治生命に最初のインパクトを与えていた。

この文脈において、1815年の穀物輸入に対する新しい保護関税の導入というリバプールの決断は特に重要である。穀物法は新しいものではない。1804年においてすでに国内価格が3.15ポンドを下回るときの輸入に懲罰的な関税を課す法律が制定されていた。1815年穀物法は国内価格が4ポンドに達するまで輸入を禁じた。この政治的なインパクトは大きかった。この法律の目的は穀価が下落するときに国内の継続的な生産を保証するものであると、リバプールは下院でまじめに語った。この法律は、人口増加の時に政府が常に心配していた飢饉を食い止めるだけではなく、価格の安定させるものであった。

議会外、とりわけカントリーの都市部では、リバプールの動機を全く違って解釈していた。『ロンドン・クロニクル』は「土地利害が穀価を戦前の2倍に引き上げるための法律を欲している」と報じた。演説家として急速に有名になったヘンリー・ハント(Henry Hunt)は、彼自信も土地所有者であったけれども、「これまでひどく抑圧されてきたコミュニティーを犠牲にして、少数の強欲な土地所有者の強大化と利益を目指すもの」というのが法案の唯一の解釈であるとパンフレットで述べた。

「ひどく抑圧されてきたコミュニティー」はその不満を直接表明する表現であった。1815年穀物法の成立に際してロンドンでは暴動が起き、その間、軍隊が議会を防衛しなければならなかった。他の場所でも、政治的な熱気は高まった。不生産的な地主は、生産的な労働者から身を隠すような立場に描かれた。騒乱の焦点が変化したから、これは重要な反応である。18世紀社会でも暴動は蔓延していたが、経済よりもむしろ政治的な理由であったから、暴動の動機は保守的なものであった。1780年の反カトリックのゴードン暴動や反国教の暴動や1791年の反改革派のプリーストリー暴動がそうした事例である。

しかしながら、18世紀初頭までに選挙されない議会(unrepresentative Parliaments)が通過させた法律の正統性が攻撃されていた。穀物法は自分たちのポケットのことだけを考える土地所有者の仕業とみなされていた。上院でのリバプールや下院でのヴァンシッタートの議論によっても、北部工業地帯の住人を説得させることはできなかった。穀物法は議会改革だけが唯一の是正手段であるという意識を生み出した。この時期の改革運動が反貴族的であったのは当然のことである。同時に、未確立の(pro-establishment)暴動はほとんど消滅した。

この時期の政治の触媒は経済の不況であった。平和の到来によって、軍備や制服を不要となった。租税案の欠陥からデフレ政策が強制された。一方、約40万人の除隊者が不況期の労働市場に過剰に流れ込んだ。1815-16年の賃金は下落した。とりわけ、田舎においては失業がひどく、貧民を救済する費用は最高となった。救貧給付は1770年代中ごろには地方税負担者に200万ポンドを課すだけであったが、1817年までに800万ポンドに届く勢いであった。イースト・アングリアでは、長い間不活発で非政治的と考えられてきた農業労働者たちが干草を燃やし、パンを要求した。「パンか血か」といったスローガンが広く行き渡り、冷酷な救貧委員(overseer)や貪欲な教区牧師、聖職者の治安判事(clerical magistrates?)のような権力を持つ人物は濫用と攻撃のために選び出された。

ランカシャーの急進的労働者で、公平な観察者とは言えないが、サミュエル・バンフォード(Samuel Bamford)の証言でも1815-16年の不満の地域的な範囲を述べている。

「バードポート(Birdport)では高価なパンのせいで暴動がおきた。ビデフォード(Bideford)では穀物の輸入の妨げに対して同じような騒乱があった。ベリー(Bury)では失業者たちが機械を壊した。イーリーでは鎮圧のために血が流れた。ニューカッスルオンタイン(Newcastle-on-Tyne)では坑夫によって。グラスゴーでも血が流れた。プレストンでは失業中の織工によって。ノッティンガムではラッダイトによって。彼らは30のフレームを破壊した。マーサーティドヴィル(Marthyr Tydville)では賃金引下げが原因で。バーミンガムでは失業者によって。ダンディーでは食料の高価のせいで、数百にものぼる店が略奪された。」

この騒乱の中で、議会改革という大義が復活した。1790年代には議会改革のリーダーシップが貴族的なウィッグにあるのか議会外の急進的な職人にあるのかはっきりしなかったが、1815年以降は疑いは全くない。急進主義は議会改革に焦点を合わせた。その焦点は議会の外に置かれていた。

ジョン・カートライト(Major John Cartwright)の指導に続いて、戦争末期から直後に無数のハムデン・クラブ(Hampden Club)が作られた(その名前は、1630年代のチャールズ1世が行った船舶税に対して反対したジョン・ハムデンの由来した)。それらの多くは改革を要求した。とりわけランカシャーの綿業地域をはじめとする多くのクラブは、カートライトの穏健的な提案にも反対して、男性への完全な選挙権により選出される政府を要求した。

自信に満ちた数多くの急進的な出版物が彼らを刺激した。急進的な新聞の教育的役割と文化的役割は重要である。ウィリアム・コベットの『ウィークリー・ポリティカル・レジスター』、T.J.ウーラー(Wooler)の『ブラック・ドォーフ(Black Dwarf)』、ウィリアム・ホーン(William Hone)の『リフォーミスト・レジスター(Reformist's Register)』、トマス・シャーウィン(Thomas Sherwin)の『ポリティカル・レジスター』は広く読まれた。それらは、民主的あるいは急進的な主張に同情的なパブで議論された。こうして、文字を読める者と読めない者との溝が橋渡しされた。コベットのもの以外はみな戦後すぐに創刊された。

コベットの『レジスター』の論説は1802年にはじまったが、非常に高い1シリングで売られた。皮肉にも「2ペンス(つまらない)のゴミ」と呼ばれたが、それが才能あるジャーナリストのコベットを大衆に届かせることになった。1816年の11月から部数は急上昇した。新聞で5000部も売れれば素晴らしい売れ行きであった時代に、コベットは『レジスター』を6万ないし7万部売った。大衆のために直接、間接にコベットはメッセージを送った。第一に、「間違った政府(misgovernment)」が困窮の原因であると読者に平明に語った。コベットの対象は、選挙されることのない土地エリートたちにコントロールされている彼が「古い腐敗(Old Corruption)」と呼ぶパトロネージ・システムであった。第二に、読者の自尊心に働きかけた。1816年11月に「友人とカントリーメン」に呼びかけて、「身分(the Pride of rank)や富や学識が何であろうとも、人々をして次のように信じさせたかもしれない。一国の真の力と資源は国民の労働に由来してきたし、これからもそうであるに違いないと」。コベットは自らの影響力は「素晴らしく、誰でも議会改革の渦中にいる」と主張した。

急進的クラブと政治的新聞が民主主義を推進する二つの手段であった。政府がもっとも用心した第三のものが、不満の是正と権利を承認させるために議会に向けて行う嘆願を背景としたデモンストレーションであった。嘆願は昔から確立されたもので、完全に国制上の行為であった。しかし、1816-1817年のキャンペーンには強制的な要素が入っていた。ロンドンのスパ・フィールズ(Spa Fields)で開かれた集会でヘンリー・ハントが行った扇動的な発言からこの戦略は始まった。それは世論の力と請願が拒否された場合の潜在的な力を権力に示す出来事であった。最大の集会は1816年12月に開かれた。そこで、毎年選挙される議会と普通選挙権の要求が決議された。地域でも同様の集会が開かれた。1816年10月にグラスゴー郊外のスラッシュグローブ(Thrushgrove)で開かれた集会では、4万人が参加したと言われている。12月にはシェフィールドでは、主流の改革派のデモから分離したグループが、「パンか血か」を象徴する血染めのパンを持って町中を歩いた。窓が壊され、そのリーダーが逮捕された。

1817年1月にカートライトの扇動で、国中から来た急進的団体の代表の集会がロンドンのクラウン・アンド・アンカー・ターバンで開かれた。1790-1840年の急進的な会合でよくあったように、戦術についての不一致や、改革への関与がスポークスマンたちの自己宣伝となるということがあった。ウェストミンスターの急進派であるフランシス・バーデット(Francis Burdett)やコクラン卿(Lord Cochrane)は二人とも、毎年の選挙と普通選挙権の請願をすぐに表明しようとするハントに反対した。改革派の立場は議会内で不一致を示せるほど強くはなかった。議会外では、カートライトもコベットも、ハントや彼を支持する北部の代表者たちと意見が一致しなかった。

1790年代と同じように、改革派は議論と合理的な説得にだけうったえる「国制派(constitutionalist)」〔伝統的な国制の擁護という急進派のスローガンにもとづく。一種のレトリックによる呼称。cf.井野瀬久美恵編『イギリス文化史入門』p.104〕と、ハントのように既存の国制の暴力的な廃棄に訴えようとする「威圧派(coercionist)」と呼んでもよい陣営に分かれた。1790年代とこれまた同じように、政治的な主張が暴力的な革命によってハイジャックされたと信じるのが政府には都合が良い。ピット同様に、リバプールも革命的準備に関する多くの証言を集める秘密委員会(Committee of Secrecy)を立ち上げた。証言の中には正確なものもあれば、誇張や捏造もあった。

主要な非難はトマス・スペンスの信奉者に向けられた。彼はニューカッスルの本屋であり、1814年に亡くなっていたが、私有財産の没収と土地の国有化にもとづいた急進的な彼の改革プランに多くの人を改宗させていた。これらの「スペンサー博愛主義者(Spencean Philanthropists)」たちの中には、トマス・エヴァンス(Thomas Evans)、ジェームズ・ワトソン(James Watson)、アーサー・シスルウッド(Arthur Thistlewood)、トマス・プレストン(Thomas Preston)がいた。彼らは自らの共和主義を隠そうとはせず、ある者は1816年終わりに革命の準備を行った。ワトソンとシスルウッドは銃砲店を略奪して、12月のスパ・フィールズの集会の後でロンドン塔の襲撃に関与していたと言われている。彼らは大逆罪で裁判を受けたが、1817年に無罪となった。秘密委員会は次のように信じていた。「反乱によって王国の政府、法、国制を覆し、財産を略奪するために、首都で国賊の謀議が開かれた」と。

政府の立法による対応も1795年のピットとよく似ている。1817年の2,3月に人身保護条例(habeas corpus)が停止され、容疑者は告訴なしで無制限に拘束できた。新しい扇動集会法(Seditious Meetings Act)が治安判事の許可なしで団体やクラブが開催する集会を禁じた。内務大臣のシドマス(Sidmouth)は治安判事に向けて、騒乱を鎮圧するために彼らが広範な権力を持っていることを思い起こさせ、必要とあらばその使用を促す回状を治安判事に送った。1790年代と同様に、こうした手段は一時的には成功した。『レジスター』を休刊し、ハンプシャーの農園に隠退するという条件での、シドマスからの1万ポンドの提供を激しく非難した後ではあるが、ウィリアム・コベットは急いで合衆国へ出発した〔1817年〕。

おそらく政府は表向きほどは革命の準備に対して注意を払っていなかった。政府のスパイが情報に通じていた。新しい立法へのわずかな挑戦に対する先制攻撃と優れた諜報組織が十分機能した。謀略の摘発と陰謀者の名士扱いに熱心になる歴史家もいるけれども、証拠から明らかになるのは革命的な計画というよりも飢えに発する自暴自棄であった。サミュエル・バンフォードと他の精通した急進主義者たちは、1817年3月にマンチェスターに集まった手織工たちがロンドンまで行進して摂政皇太子に請願書を提出することを思いとどまらせようと試みた。集まった4000人のうち300人ほどがそれを無視した。寝るための毛布を背中にくくりつて彼らは出発した。それゆえ、「毛布たちの行進(The March of the Blanketeers)」と大げさに名付けられた。彼らは7マイル離れたストックポートまでしか進まず、そこで地域のヨーマンへと戻っていった。取っ組み合いで一人が死んだだけであった。

1817年の春にもっと広範な放棄をねらった陰謀があった。それは主に5年ほど前にラダイット運動が起きたヨークシャーと東部ミッドランド地域で目論まれた。この陰謀は「オリバーとスパイ」として知られる政府のエージェントである、債務を免除された負債者のリチャーズ(W.J.Richards)が仕掛けたものであった。計画された反乱は熟練工であるブランドレス(Jeremiah Brandreth)によって指導された、ペントリッチのダービーシャー・ピーク地帯からノッティンガムヒルへの気の狂った行進となった。45人が逮捕され、大逆罪を課せられた。ブランドレスを含む3人が死刑となった。残りの多くはオーストラリアの新植民地への流刑者となった。

1817年前半の出来事は政府の勝利であった。しかし、その厳しい対応が広く支持されていたわけではない。急進的な出版社はエスタブリッシュな出版社よりもはるかに効果的であった。彼らは、一部ではウィッグの支持を受けて、政府が公共の雰囲気を誤解しており、過剰反応であったとする中傷を流した。『ゴルゴン (Gorgon)』の編集者であるジョン・ウェード(John Wade 〔1788-1875 History of the Middle and Working Classes (1833)の著者〕)は控えめに、「歴史上もっとも忌まわしい行い」と政府を非難した。有産階級の忠誠を再結集させるために戦わなければ、そしてトーリーの政策に同調しない自意識と自信のある工業部門があるので、1790年代よりも1817年以降のほうが改革は簡単にはコントロールできないということにリバプール政府の閣僚たちは気づくことになる。

第5章 ピータールーとカトー街の陰謀

「毛布たちの行進(The March of the Blanketeers)」以後、政府に対する急進的な活動はしばらく停止した。1817年は豊作だった。教養があり政治的に目覚めた織工たちが1812年以来急進的な抗議活動を続けていたランカシャーでも産業は繁栄していた。失業は減った。その結果、「飢餓の政治」はあまり表面化しなかった。政府は慢性的に正貨が不足していたが、1817年にウィッグからグレンヴィル派が離党してから政府の立場は強まった。こうした状況があったから政府は政治国家を信頼して1818年に総選挙ができた。1812年の選挙と同様に、ウィッグの2倍以上の議席を獲得し、全体としての立場はわずかに強まった。1818年の扇動集会法(Seditious Meetings Act)の撤廃と人身保護条例修正法(Habeas Corpus Amendment Act)の回復は、危険が低下しつつあることの目に見える証拠であった。

もちろん1818年も政治的な抗議活動は続いていた。急進的な出版物は依然として政府の政策を強く非難していた。コベットがアメリカに留まっている間、抗議の中心的な担い手は『ポリティカル・レジスター』からウーラー(Wooler)の『ブラック・ドォーフ (Black Dwarf)』に引き継がれた。『マンチェスター・オブザーバー(Manchester Observer)』が1818年1月に創刊され、議会改革の即時実現を訴えた。短期間で地域的ではあったけれども、1818-1821年の刊行期間中に与えたそのインパクトは大きかった。政治クラブも依然としてパブに集まっていた。ウェストミンスターは議会改革の請願攻めにあった。1818年だけで請願が1500にのぼったと推定されている。

トレードの改善によってランカシャーの織工の労働組合活動の復活が前面に出てきた。労働組合、それは「団結 (combinations)」と呼ばれていたが、1799-1834年は公式には完全に禁止されていた。しかし、疾病給付保険クラブ(sickness and benefit insurance club)と偽ってほそぼそと存続し続けていた。1812−1814年に織工組合は賃金引き下げと不熟練労働者の導入(diluting)に対抗する運動を指導した。彼らはまたトレードに入る必要条件として徒弟制度を維持しようする無駄な試みも行った。力織機と手織の両方の織工が1818年の春と夏に賃金引き上げを求めた。彼らの戦略は好景気とそれにともなう労働の相対的な希少性を利用して、雇用者をして利潤の一部を織工の賃金に変えさせることであった。急進的な政治団体(society)は織工の要求を支持した。1818年の示唆行動の後で、ストックポートの義勇騎兵団(yeomanry)たちは、その中には製造業者、商店主、数名の保守的な熟練工が含まれていたが、彼らは暴徒たちを蹴散らすために武力を用いた。それは不幸な前例となっていく。

織工たちのアジテーションの失敗は、1818年夏からの経済状況の悪化ともあいまって、政治への新たな専念と「人間幸福促進組合(Union for the Promotion of Human Happiness)」の形成を生み出した。熟練労働者と下層中流クラス(lower middle classes)との共同を土台にしていたこの組合は、1818-19年にかけて北イングランドにおける多くの他の組合のさきがけとなる。その目的は議会改革であった。これらの組合は急進的な政治と非国教会との密接なつながりを強調し、教育にも力点をおいた。労働者たちが投票できるのであれば、その選択がどの問題にかかっているのかを知らなければならない。多くの日曜学校が今や政治的、宗教的な媒介者となった。それは秩序と保守のとりでとして18世紀末の日曜学校を支援した福音主義者たちを困惑させた。彼らにとっての日曜学校は勤勉、徳、既存の社会的階層秩序の受容のために青少年を訓練する場であった。

急進的な政治への女性の関与もこの時代の特徴である。いくつかの「婦人組合」が1819年初めに結成された。それらは男性の組合以上に当局の関心の対象であったようである。ストックポートの婦人の改革派は「新たな世代を道徳的に堕落させ」、「秩序と上品なものに敵意を抱かせ、神と国家への反抗を助長するように彼女たちの子供を」育てる、と非難された。

北部産業地帯が再び欠乏に見舞われたので、急進的な指導者は大衆的な集会を再度組織した。1819年1月にヘンリー・ハント(Henry Hunt)はマンチェスターのセント・ピーター・フィールズで大群衆に向かって、議会を無視し、普通選挙権と毎年の議員選挙を求める請願を摂政皇太子に直接手渡すように呼びかけた。バーミンガムとリーズの集会では、現時点では代表を持たない都市から、ロンドンで会合し、さらなる行動を考えている代表を選出した。こうした集会は議会の権威に直接挑戦するものと解釈されるかもしれない。急進的グループの中で武装訓練が行われているというスパイと扇動工作員からの報告は内務省のシドマスに届いていた。

愛国主義者同盟協会(the Patriotic Union Society)が組織した1819年8月のマンチェスターでのもう一つの青空集会への呼びかけを受け入れたときに、何人かの者は反乱の準備をしていたから、社会秩序の崩壊の恐れが広まっていた。ハントの平和的な集会を求める訴えはランカシャーの治安判事たちによって壊された。彼らは以前の集会が暴力沙汰で終わるのを見ており、これまででもっとも政治的な熱気が高まっていることが分かっていた。婦人や子供も含めて6万人以上が8月16日のセント・ピーター・フィールズに集まっていた。地方当局は集会を成行任せにさせないことを決めていた。内務省のアドバイスによって、ハントは逮捕された。しかし、それ以外の責任は中央政府にはなかった。集会は義勇騎兵団(yeomanry)たちによって強制的に破壊され、サーベルを使う騎兵によって困難に陥った。400人以上が負傷し、11人がサーベルで斬られたり踏みつけられたりして死亡した。この事件はすぐに、ウェリントンの有名な勝利を皮肉って、「ピータールーの虐殺(The Peterloo Massacre)」と名づけられた

ピータールーは殉教者たちに急進的な理由を与えた。新聞はこの機会を最大限利用した。リバプール政府はマンチェスターとソルフォード(Salford)当局を擁護してやる必要性を感じていた。しかし、首相自身が認めているように、その擁護は虚しかった。ウィッグたちは再度問題を取り上げた。ハントの集会を支持したとして、ヨークシャーの統監〔Lord Lieutenant:地域ヒエラルヒーの頂点。中央政府と地域の接点。cf. Gash, Aristocracy and People, pp.54-55〕の地位からフィッツウィリアム(Earl Fitzwilliam)を解任したときに、熱気は最高に高まった。トーリーの恥辱ほどウィッグ的世論を結集させるものはなかった。フィッツウィリアムは北イングランドのウィッグ支持者の中心だったのである。

ピータールーは改革を国家的大義にした。ニューカッスル・タインや南部スタフォードシャー(Staffordshire)のブラック・カントリー地域といった、それ以前は急進主義が弱かったところでも政治同盟が結成された。1819年秋までに、財産所有者は「武装団体」を形成したが、それでも改革派や暴力の懸念の増大を鎮めることはできなかった。騒動はありふれており、武装訓練のうわさわが高まっていた。リバプールの古い仲間であるグレンヴィル卿は、フランスをモデルとした革命を食い止めるために厳格な立法を行うことをリバプールに促した。

1832年改革以前の最後に、政府は抑圧を持って改革の要求に対応した。治安六法(Six Acts、別名「さるぐつわ法(Gagging Acts)」。これは決して不適切な呼び方ではない。)を1819年12月の議会でしゃにむに通過させた。この法律の中身は次の6点である。武装訓練のために集まることを禁止した。騒乱地帯での武器を探索する権限を治安判事に与えた。特定の罪状について被告人が答弁することを延期することで〔裁判を〕遅延させることを禁じた。治安判事の同意なしでの50人以上の集会の禁止および非合法な集会を解散させるために死傷者が出た場合の治安判事の免責。扇動的または冒涜的な誹謗文書の執筆に対する罪を重くすること。不満を扇動してきたパンフレットや文書に対しての懲罰的なスタンプ税。この法律は当時の騒乱に対する論評でもあり、集会と出版を規制することでトーリーがどこに非難を向けているかを如実に示していた。

この法律は急進派を追いやるためにために慎重に使用された。ハント、ウーラー、リチャード・カーライル(Richard Carlile)、それに貴族的な急進主義者である議員のフランシス・バーデット卿(Sir Francis Burdett)は1820年の夏までには監禁された。シドマスと彼の機密情報収集活動はこれまでの評価以上のものがある。ここ数年の歴史家の多くはリバプール政府への反感から、急進的な活動の広がりをはっきりとそして共感をもって強調してきた。しかし、それは自制されたものであった。1819年の危機は決定的であったが、政府は無差別な蛮行を避けた。事態はトーリー政府が取り扱いを失敗しても不思議でない状況であった。もし、政治的にはあまり才能がない大法官のエルドン(Eldon)に事態が委ねられていれば、実際にそうなったであろう。リバプールとシドマスの断固とした態度が賞賛されることはほとんどない。しかし、政治的な判断は哲学的な基準からではなく、もっぱら功利主義的に行われるものである。ある危機的な状況における政府の能力を評価するためには、その政府についての共感は必ずしも必要ではない。E.P.トンプソンが1790年代のピット政府の似通った政策を論じたのと同じように、リバプール政府は声を上げて吠えているほどには噛み付いたりはしなかった。政府の洞察力を理解するためには、政府には大声を出す必要があったことを理解しなければならない。本当にやたらと噛み付いたりしたらとんでもないことになったであろう。

1795年、1817年と同じように1819年の立法も急進的な攻撃を押さえ込むのに十分であった。実際のところ、この攻撃はいくつかの地域に起こした雑音から想像されるほど、一枚岩ではなかったし、あまり有効でもなかった。戦略あるいは究極の目的についてでさえ急進的な同調者の間には相違があった。改革されていない議会がますます19世紀初頭のイギリス社会と齟齬をきたしているということと、ある特定の改革プログラムに同意することとは全く別である。1815年から1820年にかけての急進的な世論は民主的なところにウェイトが置かれていた。しかし、古いジョン・カートライト(John Cartwright)のような中流階級の改革派は戸主選挙権(household suffrage)を相変わらず好んでいた。議会内のウィッグ改革派はもっと慎重で、腐敗選挙区を廃止し、産業都市に議席を渡そうとしていた。そして、来るべき産業の時代に最もふさわしい投票のための条件を議論していた。このような漸次的なアプローチには、ハント、コベット、カーライルのような急進的な部分の不満が向けられた。

手段に対する不一致はより一層悪化しつつあった。リチャード・カーライルはペインの共和主義的な感情を、保守主義と神秘化の手先として国教会に対する病的な憎悪にまで押し広げたが、彼はトム・ペインの徒であった。カーライルのピータールーの虐殺に対する反応は明確であった。「人々は自らの権利を守るためには、即座に武装する以外に手段がない。」民主的な急進派は道徳的陣営と暴力的陣営とに分かれた。道徳的陣営のリーダーの間には多くの非国教徒と労働組合主義者とがいたが、彼らはペインと同じように次のようなことを信じ続けていた。訓練された理性の力を世襲の特権と既得権益の防塁に向けるならば平和的に権力の移行が行えると。暴力的なリーダーたちはピータールーを引き合いに出しながら、既得権益は説得によって特権を廃棄し得ないという楽観的でない結論に立っていた。暴力には暴力を対置しなければならない。しかし、ヘンリー・ハントを代表とする暴力の提唱者は、暴力に訴えると脅かしつつも、それを実行に移すのをためらっていた。

飢えた手織り工と工場の熟練工たちは1819-1820年にかけて、そのリーダーたちによってひどく打ちのめされていた、と言ってもよいかもしれない。ハントとコベットは、現実的な計画の邪魔となる、強い自尊心とうぬぼれやすい傾向があった。多くの急進的なリーダーたちは空論家で、レトリックをもてあそび、自己陶酔した言語が飢えていて初心な労働者たちの心に与える影響に無頓着であった。ピータールーは国全体に大衆的な反感を生み出したけれども、急進主義はもっぱらロンドンと繊維産業地帯にしか広まらなかった。その大衆的な訴えを最終的に決定したのは、パンの価格と失業の水準であった。

リバプールもシドマスも暴力へ訴えれば中産階級の支持を失ってしまうことを理解していた。中産階級(middle classes)は、間接的に製造品市場の脅威となるリバプールの農業保護政策を好ましいと思っていたわけではない。しかし、自らの財産への脅威が1819年においてははるかに強力な要因であった。恐怖に陥れられたランカシャーのブルジョア議員たちは、セント・ピーター・フィールズでの改革派の群集から事態を推し量った。1819年の秋でさえも、かつて思われていたほどには革命の恐れは強くはなかった。地主階級に対する中産階級と労働者階級との間の同盟関係の中にあった、国制改革の展望も武装訓練の報告が引き起こした恐怖によって失われつつあった。ブルジョアは治安六法を歓迎した。失うべき財産をほとんどあるいは全く持たない者は、統一的な目的も決定的なリーダーシップも持たなかった。

 本当の革命が抑圧的な立法によって阻止されることはない。1819−1820年のイングランドとスコットランドで、2,3の本当の革命があった。スペンス派のアーサー・シスルウッド(Arthur Thistlewood 【訳者補足 参考図版】)は1820年以前から当局によく知られていた。1816年ロンドンのスパ・フィールズの集会に集まった暴徒を煽って以来、彼は何度も当局の顔をつぶしていた。決闘によるシドマスへの挑戦のかどで、彼は裁判無しで1818−1819年にわたって投獄されていた。ピータールーの時期に解放されると、スペンス派のジェームズ・ワトソンや結成されたばかりのロンドン「200人委員会」のメンバーとともに、ロンドンでの反抗を企図した。シスルウッドとワトソンがランカシャーとヨークシャーにおける革命を支援するために、全国規模での反乱を計画しているといううわさが流れ始めた。1820年のはじめにハロービー卿(Lord Harrowby)の館でのディナーに集まった全閣僚を暗殺する計画が持ち上がっていた。いつものように、この謀議も政府のエージェントによって密偵されていた。当局は2月にカトー・ストリートに反逆者たちが結集するということを把握していた。シスルウッドと4人の共犯者は反逆罪を課せられ、3ヶ月後には処刑された。残る5人は島流しとなった。

シドマスはカトー街の陰謀を広範な謀略の一部であると信じていた。カトー街の陰謀が失敗に帰してからまもなく、スコットランドとヨークシャーで多くの騒乱が起きたことによって、こうした考え方は裏付けられている。グラスゴーを占拠しようとする織物工たちによる放棄は失敗した。しかし、アンドリュー・ハーディーとジョン・ベアードによって指導された20人ほどの男たちは、スティアリングシャーのボニミュールに向けて露営地を出発した。彼らは逮捕しに来たヨーマンリーと騎兵と一戦を交えた。同じころストレートヘブンからも同じぐらいの人数がグラスゴーに向けて行進していた。しかし、自分たちの立場が絶望的であることが分かると、彼らはすぐに逃げ出した。3人の指導者がシスルウッドと同じ運命をたどった。1週間もしないうちに、ヨークシャーの織物工たちはフッダースフィールド(Huddersfield)を占拠しようと試みた。バーンズリー郊外の沼地に300人以上が旗と武器を手にして結集してきた。シェフィールドでのピータールー後の改革を目指した集会を組織した渡り職人であるジョン・ブラックウェルは、アッタクリフの兵営を占拠しようとした。

1820年春の自暴自棄の試みは言及する価値がある。といっても、それが政府にリアルな脅威となったからではない。それぞれの試みがきわめて広範な改革志向の共感を集めたからである。ロンドン、ランカシャーの産業地帯、ヨークシャーの南部と東部、そしてスコットランド中部は全て、1819年終わりから1820年はじめにかけて本当に混乱していた。政府は革命家たちがもたらす問題に対処できる位置にいた。しかし、少人数の無法者だけが目覚めていると誤解することはなかった。登場しつつあったロバート・ピールはトーリーの仲間のクローカーへの私信の中で次のように書いている。

「愚行、弱さ、偏見、間違った感情、正しい感情、強情、そして世論と呼ばれる新聞、こうしたものの複合であるイングランドの状態は、政府の政策よりもリベラルであると思いませんか?」

ピールを政治的改革者だと誤解するものはありえない。しかし、1820年の半ばまでに何人かの改革反対派たちは、「リスペクタブルな意見」が最良の緩和剤になるとか、近年の出来事が短気な人間や革命家たちに信任を与えたかどうか考え始めていた。しかし、改革反対派の一人であったピールは、繁栄が終焉したからといって、改革の問題が消滅するとは考えなかった。

第6章 カロライン王女の奇妙な事件

カロライン王女事件の悲喜劇は騒乱を背景にしてはじめて意味を持つ。この事件はリバプールを苦しめ、ジョージ4世からの信頼を失わせ、あやうく辞職へと追い込まれるところであった。この事件は改革危機以前の最後の公衆によるデモンストレーションの大きな波を巻き起こした。

背景を簡単に述べておこう。皇太子ジョージは従兄弟のブランズウィック−ヴォルフェンバトルのカロラインと1795年に結婚した。ジョージはマリア・フィッツアーベルトとの1785年の結婚を隠していた。新しい結婚は親密なものではなかった。二人ともすぐにエネルギーのはけ口を求めた。かつての摂政で、今や父親の密室恐怖症から解放されたジョージは、急いで愛していない妻を脇へと追いやった。彼女は年金を与えられるとイタリアに向かった。イタリアに居を構えると、彼女はあけっぴろげな乱交に耽った。離婚の理由にしようとしていた猥雑な報告が1819年に皇太子の下に伝えられた。年3000ポンドの祝儀以外には、カロラインと摂政を繋ぐものは何もなかった。ジョージにとって世継ぎが絶えるという重大な問題であったにもかかわらず、彼女には自分の娘のシャーロットの死さえも伝えられなかった。

ジョージ3世が1820年1月に亡くなると、ジョージ4世は直ちに大臣たちに、離婚こそが最優先の国事であると伝えた。カロラインの名前は国教会の祈祷書には登場しない。それゆえ、カロラインは女王として冠を戴くことはなかった。リバプールと大臣たちは注意を促した。国は依然として混乱状態で、女王に敵対する行動は、無限に続く国家的な敵意を生み出すだろうと。

多くのことがらが新しい王の不人気のせいであった。ジョージ1世の好ましくない行動からプロテスタンティズムのために1714年に国家を救ってから、ハノーヴァー朝はあまり人気がなかった。しかし、ジョージ4世はその王朝の中でも不人気を極めていた。融通の無さ、癇癪、獰猛さ、見境のない逆上、乱交、強制不能な政治感覚の無さ。ジョージの数知れぬ性的不品行は広く知られていた。混乱の期間に、摂政の個人的な習慣は急進的な風刺画によって茶化されていた。彼らはジョージを、太った、慢心した、自堕落ながさつ者として描いた。それらはアリストクラティックな政府に対する皮肉な告発として機能した。リバプールがあまりにもよく自覚していたように、国王の離婚訴訟は王女自身の欠点にもかかわらず、国民を王女に味方させることとなった。

そのうえ新しい王女は次々と明らかになるドラマの中で完全に役割を果たすことが運命付けれていた。彼女はイングランドに戻ろうという意志を表明した。そこで各方面からの支持を得て、離婚訴訟を争うつもりでいた。1820年の最初のうちは、彼女は急進的な呉服商で前のロンドン市長であったマシュー・ウッドのアドバイスにしたがっていた。彼はロンドン市民が強力な味方になるであろうことを伝えていた。こうした後ろ盾を得たカロラインは、主要な新聞に公開書簡を発表した。そこで国王の下劣な行動と、影響力を行使してヨーロッパの法廷を彼女に対して閉ざしたことを非難した。彼女は国王の妻としての憲法上の権利を主張し、「イングランドがすぐにでも帰るであろう真の故郷である」と宣言した。

こうした状況の中で王女の帰国を阻止しようとするリバプールの事を急いだ計略が失敗したのは驚くべきことではない。リバプールはウィッグの法律家でカロラインと1812年ごろからコンタクトをとっていたヘンリー・ブルームを利用して、交渉にあたらせようとした。イギリスに戻らなければ5万ポンドを王女に提供しようとしたのである。ブルーム自身の政治的経歴が事態を複雑にさせることになったのであるが、ブルームが提供を申し出たときには、王女はすでに金銭的な懇願に耳を傾けるつもりはなかった。すでにイギリスへ向かわざるをえない立場に追い込まれていたからである。鳴り物入りで6月にロンドンに戻ると群集は王女を驚かすほど街頭にあふれていた。

主要な目的を遂げるのに失敗した政府は、国王の言いなりにならざるをえなかった。「苦痛と罰(a Bill of Pains and Penalties)」法案を提案し、外国人との貫通を犯したかどで貴族院において王女の裁判を開始した。裁判が開始された8月から、支持が先細りになったために不名誉にも法案が撤回された11月の間、新聞は発行部数の急増を記録した。自らずっと犯してきた悪徳によって妻を恥知らずにも告発したために国王はあざけりの対象となった。『タイムズ』は他の新聞とともに王女の側についた。コベットは王女の非公式なアドバイザーとして振る舞い、彼の『ポリティカル・レジスター』を彼女を擁護する感情的な記事で埋めた。ジョージ・クルクシャンク(George Cruikshank)やウィリアム・ホーン(William Hone)のような才能のある風刺画家たちは、これまで以上に愚弄し、あざけった姿勢で国王を描いた。イギリスの君主がこれほどまでに馬鹿にされたことはなかった。

興奮した群集がカロラインの登場以来、首都に殺到した。法案が撤回された日には勝利を祝って飾りつけが行われた。カロライン事件はしばしばロンドン急進主義のエピソードとして描かれてきた。しかし、実際には全国的な出来事であった。ウィッグは法案に反対する集会を、ヨークシャー、ノーザンバーランド、デュラム、バッキンガムシャー、サセックスで組織した。スタッフォードシャーのライム・アンダー・ニューカッスルは王女に味方するん嘆願書を送った唯一の都市である。男性成人の半分以上がそれに署名した。法案が撤回されたときに、それを祝う演説が行われた。

ピータールーの熱狂が終わってまもなく、政府は避けがたいほどの大事件がなければうまくやれたかもしれない。短気な国王はみずからの問題で大臣たちを叱責した。もし、議会改革を政府を引き受ける条件にするかどうかでウィッグが分裂していなければ、国王の怒りはこの時ばかりは決定的な出来事になっていたかもしれない。ウィッグは1820年12月には政権についていたかもしれない。

この事件は一人の大臣の政治生命を絶つことになった。他の仲間よりも有能であるとはみなから認められていたカニングは、下院で最も有力な弁舌家であった。カニングとカロラインとの関係は密接で、適切な範囲を超えているとする噂が流れていた。ヨーロッパ旅行の途路でその場にはいなかったけれども、カニングは王女の告訴に反対した。そして首相に1820年12月には辞表を提出した。

クリスマスの到来によって、有産者たちが熟考できる間が与えられた。彗星が現れたからといって星座に動揺が生じないのと同じように、カロライン事件は政治的にはそれほど意味はなかった。夏と秋の夜空に輝いている間は見るものの目を幻惑させたが、粗野で思慮に欠ける人たちの間でだけの口論にすぎなかった。この好戦的な争いは、大衆にとっての価値がどれほどあろうとも、内閣に危機になりうるほどのものではなかった。ウェードやウーラーのような思慮深く、高い志のある急進主義者にとって、カロライン事件は新しい改革キャンペーンのきっかけとする震源地にはなりえなかった。カントリー・ジェントルマンたちは少なくとも1816年以来、トーリーはウィッグよりも安全な賭け金であると信じ続けていた。他方、議会外の急進主義者たちは、政治的な高度な議論の場と大衆を動員できるだけのより高邁な原因を求め続けていた。

いずれにせよ、新しい年をむかえると、二重に正当性が立証された王女には行くべき場所がなかった。彼女は離婚もしなかったし、王女の義務を遂行することも許されなかった。5万ポンドの年金を受け取っていたので、憲政上の争いの代わりに他のあらゆる支援を失ってしまった。国王は1821年7月に戴冠式に王女を参列させなかった。カロラインはウェストミンスター・アベイにおもむき、空しく全てのドアを叩きまわったことで、判断力の欠如をさらけ出した。まだ同情的なロンドン市民も数多くいたが、虚しいジェスチャーであることを悟らずにはいられなかった。

終幕は近づいていた。カロラインは激しい行動のせいで1821年8月に倒れてしまった。国王は喜んだ。より賢明な首相は心からの追悼を送った。政府は価格の下落と景気が戻ることで勢力を盛り返していた。政権につくというウィッグの夢は費えた。病気になる前から、カロラインは政治的な重要性を失っていた。ロンドン市民はシティーを通ってハーヴィック、そしてブランズウィックの目的地までの葬列に詰めかけた。彗星は燃え尽きた。

第7章 カースルレー子爵のもとでの外交政策

ワーテルローから改革法までのイギリスの外交政策は、それ以前の20年にもわたってヨーロッパを分裂させてきた戦争に対する反動のコンテクストの中におく必要がある。1918年と1945年に終わった世界規模の大災厄の時と同じように、勝利した陣営は将来の平和を維持する条件を生み出す努力を払った。1国際連合や国際連盟が創設されたのと同じように、ナポレオンを打ち負かすために結ばれた同盟は「会議外交(Congress Diplomacy)」と呼ばれるものを作り出した。それは、1815年にウィーンに集まったイギリス、オーストリア、プロシア、ロシアによって作られた協定に由来する。これらの国は、フランスに課した平和的和解が実行されていることを監視しするためと、相互の関心を協議するために集まっていた。

このウィーン体制(Congress System)は1812年から1822年にかけてイギリスの外務大臣(foreign secretary)であったカースルレー子爵の主要な成果であった。カースルレーは40年におよぶヨーロッパの平和をもたらすことになる協定の主要な立役者であると同時代人も認めていた。これはそれ自体で重要な達成であるが、1792年のフランス戦争勃発以前の18世紀ヨーロッパで繰り返された戦争を思い起こすならば、とりわけ重要性がます。

この新しい「システム」は、イギリスをこれまで以上に密接にヨーロッパの平時の外交と結び付けた。ある意味でこれは避けがたかった。1793年以降イギリスはずっとフランスの敵対しており、戦争を通じて強大な力を有する国として高い評価を得た。オーストリアやプロシアの目か見れば、1815年以後はイギリスの同意なくしてヨーロッパの和解も長続きしうるものではなかった。

しかし、伝統の崩壊は批判も招いた。その軍隊と同様に、そのイデオロギーがヨーロッパに大損害を与えたとして、敗北国としてフランス人はカースルレーが考えていた以上に多額の賠償金を支払うべきだとする意見を、1814-15年に多くの人間が唱えていた。ウィーン体制が機能し始めると、カースルレーの熱心な外交姿勢はイギリスで攻撃された。オーストリアのメッテルニッヒやロシアのアレクサンダーのような偉大な人物と懇談したせいで、幻想を抱くようになったと。ヨーロッパの皇帝や貴族から手を切ることでイギリスの利益は守られると促されていた。イギリスはむしろ、島国状態、戦時の遺産、商業上の考慮、こうした誰もが指摘しそうな世界規模での利害に従うべきだというのである。

しかしながら、カースルレーの外交は完全に一貫していた。批判者たちのように将来のヨーロッパでの戦争にイギリスが加担すべきであるとカースルレーは考えていなかったが、カースルレーは自らの干渉主義的な外交政策がその目的を実現する最良の手段であると考えていた。フランスを打ち負かすことを目的とした1814年ショーモン条約(Treaty of Chaumont)に調印したオーストリア、ロシア、プロシアはあまりに強力になりすぎたので、ヨーロッパのバランスを潜在的に乱すようになるとカースルレーは見ていた。そのために相互の牽制を彼は企てようとした。この目的を達成するために、他の3カ国が権力を及ぼそうとしているより小さな国の領域的な統合を維持すること{アヴィニョン・サヴォイ・ザール・ベルギーの一部をフランス領として認めること}がはるかに得策であるとカースルレーは考えた。フランスに名誉を伴う平和を与えるという彼の提案は次のような計算高い想定から出てきたものである。すなわち、ヨーロッパの主要な大国の一つに屈辱を与えることは、イギリスがヨーロッパや他の地域で商業的、植民地的利害を追求するのに必要な長期的な安定を生み出さないという想定である。

断片的に見れば、カースルレーの「会議戦略」はその多くを先輩の小ピットから学んでいる。1805年1月にナポレオンに対抗する同盟を作り上げる際に、ピットは「異なる勢力の相互の安全保障と保護およびヨーロッパにおける一般的な共通の法律体系を再建することについての全般的な協定と保障」がなければ、平和の最終的な回復はありえないとロシアの大使に示唆していた。

平和協定にカースルレーが与えた影響はとてつもなく大きかった。ヨーロッパの会議のテーブルでイギリスの外務大臣が存在感を示したことはこれまでほとんどなかった。カースルレーは会議を利用して、実践に長けた、ひねくれた外交官たちからも絶賛を獲得した。主唱者としての尊敬と率直さが認められたのである。もちろん、望んでいた全てを獲得したわけではない。北中部ヨーロッパの安定の源として構想していた、プロシアを強化しようとするカースルレーの計画は失敗に終わった。ロシアのコントロールからポーランドを引き離すことにも失敗した。19世紀にイギリスのヨーロッパに対する利害にとってフランスよりもロシアの方が脅威となることが明らかになるにつれて、こうした二つの挫折はきわめて重大なことと見なされるようになった。

にもかかわらず、イギリスにとってもっとも決定的で直接的な問題は意のままにできた。ナポレオンが作り出した不規則に広がった帝国は瓦解した。しかし、フランスは1818年まではウェリントンが率いる占領軍を受け入れざるをえなかったけれども、帝国を1789年以前の状態に分割しようとする試みは阻止された。処刑されたルイ16世の弟であるルイ18世はヴェロナ{イタリアの地名}での長い亡命生活を終えた後で、憲法による特定の規制は受けてはいたが、フランスの合法的なブルボン王として認められた。オーストリア領オランダ(Austrian Netherland)とオランダ(Holland)は一つの王国へと合併されて、フランスの北方への拡大の緩衝地帯となった。カースルレーは1670年代のルイ14世の軍事行動を思い出して、「低地地域とライン左岸の領土を確保する」野望をフランスがずっと抱いていると確信していた。

ドイツをわずか39の国の同盟に再編することで、より強固な安定がもたらされる。とくにフランス北東部の国境を含むラインラントにプロシアが実質的な領土を有するからである。カースルレーが望んだのは、プロシアが発展して南部のハプスブルク帝国に対するカウンターバランスになることであった。潜在的に不安定であったイタリアが実質的に再建された1814年に、スペイン君主制はフェルディナンド7世によって復活した。ハプスブルク帝国は北部の繁栄していたロンバルディアとベネチアを占領し、サヴォイとジェノヴァはピードモント・サルジニアと併合した。法王の国家は維持された。ナポリはブルボン王家に戻った。こうした調整の結果、君主の影響力がある各地域がはっきりと確定された。

カースルレーはフランスに勝利した代償として中部ヨーロッパを要求するほど愚かではなかった。しかしながら、イギリスの戦略的、商業的な影響力は実質的に高まった。戦争中に確保した島嶼地域は保持された。その中でもっとも重要なのが、セント・ルシア、トバゴ、トリニダードの支配権を保った西インドである。南アフリカの北東部に位置するギアナはオランダから奪い取った。ヨーロッパにおいては、ヘリゴランドの北海島部はデンマークから、またマルタ島は地中海の防衛拠点になった。ギリシャ近海のイオニア諸島も1815年にイギリスのものとなった。イギリスの利害の世界的な拡張は、喜望峰、セイロン、モーリシャス、セイシェル諸島の獲得が象徴している。イギリスの東洋におけるトレードの機会はこれらの獲得で飛躍的に増大した。1819年にはシンガポールも加わることで、東インドにおけるオランダの独占が壊された。

西インドにおけるフランスとスペインの影響力は低下し、極東におけるオランダの長期にわたる優位は終焉した。世界貿易におけるイギリスの優位は1820年代までに比類なきものになっていた。歴史家が「大英帝国の世紀」と呼ぶものの土台はフランス戦争から戦後すぐにかけて築かれた。それは1880年代から1890年代にかけてアフリカの主要な領土を獲得するはるか以前のことである。

しかし、カースルレーの直接的な関心をヨーロッパの外にまでめったに広げることはなかった。平和協定の最初から、重要な解釈の相違がイギリスと他の同盟国との間に生まれていた。ヨーロッパの勢力バランスによって、どの国も脅威となるパワーを持たないことがイギリスの求めていたものであった。政府の形態は二義的な重要性しか持たなかった。バイロンをはじめとした多くの同時代人の批判にもかかわらず、18世紀啓蒙の時代からフランス戦争の間にほうっておかれたリベラリズムとナショナリズムのイデオロギーとしての力を抑制すべきか、また抑制が可能なのか、ということをカースルレーは考えもしなかった。アイルランドの政治家であったならば、ナショナリズムの重要性に気づいたかもしれないがそうではなかった。イギリスはすでにまがりなりにも代議制政府をもっていたから、伝統的な統治者ほど貴族的な規範からの乖離を恐れる必要はなかったのである。

ヨーロッパの皇帝たちが1814−1815年の協定を古い秩序を維持する手段として見ていたとしても驚くべきことではない。1815年9月にアレクサンダー1世は、「解消し得ない友愛関係のきずなで統一し続けるよう」、そして必要とあらば「互いに助け合うよう」、オーストリアの皇帝とプロシアの国王を説得した。アレクサンダーがこの「神聖同盟」をしてヨーロッパ中のナショナリストとリベラルな運動を鎮圧する手段にしようとしていたことが明らかになった。イギリスは神聖同盟への署名を拒んだ。イギリスはまもなく、「会議外交」の全く異なる自らの解釈を守る必要が出てきた。

大国のパワーの間で何らかの統一があったのは、1818年にウィーンのエクス・ラ・シャペル(Aix-la-Chapelle)で開かれた第一回の会議だけであった。ここでの合意は、今や世俗的な君主国になったフランスが大国パワーの小さいサークルの中に再度加わることを認めるものであった。4国からなる同盟は5国からなる同盟となった。フランスは「ヨーロッパに平和をもたらシステムを維持し強化することに同調すること」に賛成した。

しかしながら、エクス・ラ・シャペルにおいてでさえも、このシステムがどのように発展していくべきかについては意見が分かれていた。アレクサンダー皇帝は、ラテン・アメリカのスペイン領に脅威を与えているナショナリスト勢力に反対して大声をあげていた。しかし、ナショナリストを屈服させる皇帝の計画は失敗に終わった。しかしながら、1818年から1821年にかけてのリベラルとナショナリストの運動は、それらはスペイン、ポルトガル、ナポリに影響を与えることになるが、イデオロギー問題を前面に押し出すことになる。1821年3月のオスマン・トルコに対して独立を求めてギリシャ人が反抗したときに、主要なヨーロッパのパワーは戦略あるいは感情の点で影響を受けた。ギリシャはヨーロッパ文明の揺りかごであった。たいていのイギリスの政治家は同時代の科学や経済学よりも、ギリシャ文学の方にはるかに造詣があった。

アレクサンダーはスペイン、ポルトガル、ナポリでの出来事を議論するために、1820年トロッパウでの会議を召集した。そこで大国は、反抗によって生まれた政権を承認しないこと、そして「正統な政権を復活させるために反乱が成功した国に対して有効で有益な行動をとる権利を維持すること」、こうした内容の「議定書」に同意した。イギリスがこの議定書に加わらなかったことは重要である。カースルレーはトロッポウに完全な代表団を送ることを拒んだのである。カースルレーによる神聖同盟のメンバーたちの観察は1820年5月に書かれた政府文章に残されている。

この重要なドキュメント〔doc.11〕を調べれば、カースルレーの分別のあるプラグマティズムだけではなく、彼の外交政策に対する批判とたいして違いがなかったことがわかる。カースルレーは不注意な干渉主義者ではなかった。彼はウィーンの原則が反動的な同盟へと拡張されることを恐れていた。フランス革命がもたらした観念は武力によって鎮圧できないことを、ヨーロッパのいかなる保守的な政治家よりもよく理解していた。ドグマの祭壇の上で犠牲になる戦略をのんびりと眺めるつもりもなかった。イギリスにおける「反抗と不満の精神」への言及はこの文脈においてとりわけ重要である。

1820年においてすでに、ヨーロッパ「システム」の解釈の相違がその崩壊の予兆を示していた。トロッポウで中断した会議は1821年のはじめにライバッハで再度召集された。リベラルとナショナリストに対抗する動きに対して、イギリスが支持したのはごく限られたものであった。カースルレーは政府を代表していた兄弟のスチュワート卿に、原理的な干渉と、大国の直接的な安全保障、もしくは他の国内部での処理によって重要な利害が危険にさらされる場合における干渉との重大な区別を伝えていた。こうした解釈にたてば、イタリアに利権を有するオーストリアがナポリのナショナリズムを抑圧するように干渉することは正当化されるが、アレクサンダー皇帝のスペインやポルトガルへの派兵は正当化されない。なぜならば、ロシアの利害が危険にさらされていないのは明らかだからである。こうした区別は実際に便利であった。イギリスとオーストリアの関係はロシアとオーストリアとの関係よりもはるかに強かった。それに加えて、ギリシャの反抗が起きたことで、両国の利害はより密接になり、ロシアとの利害はより対立的になった。

カースルレーはアレクサンダー皇帝がスペインとアメリカで力づくで維持している原理は、ロシアの利害が危険にさらされるならば、容易に捻じ曲げられてしまうだろうと注意した。ギリシャの反抗はロシアがトルコを犠牲にして東地中海に進出する機会を生み出した。「正当である」が信用のおけないトルコ政府に反逆している、反抗的ではあるがキリスト教徒であるナショナリストたちを支持するために、ロシアが干渉しようとしているなどと信じるものはほとんどいなかった。地中海の出来事にイギリスの商業上の利害は直接に影響を受けた。カースルレーはこの地域におけるロシアのイニシアティヴを手をこまねいて認めたわけではなかった。

ライバッハ会議では、この重要な議題を延期して、1822年10月にヴェローナで新たな会議を開催することが決定された。しかし、ライバッハ会議の中で、保守的な原理の宣言よりも、それぞれの摩擦を増大させつつあった大国のパワーの方がはるかに重要性を持つようになっていた。その限りで、カースルレーの本能が健全であったことが立証された。

しかしながら、1822年の夏までにカースルレーの健康は悪化していた。庶民院のリーダーとしての内政上の義務と外交政策が合わさった過労から、さらには根拠は薄弱であったがホモセクシュアルという告発によって意気消沈してしまったために、1822年8月に喉をかききり自殺した。彼の死は内閣の危機をもたらしたが、イギリスの外交政策に変更はなかった。カースルレーは信頼を置いていたけれども、ウィーン体制の崩壊とイギリスがヨーロッパの合意を放棄することは、予定されていただけではなく、後継者によって受け入れられた。

第9章 「リベラル・トーリズム」とリバプール卿の功績

「リベラル・トーリズム」は第二次リバプール内閣の短い期間に与えられる呼び方である。1822年8月から1823年12月にかけての主要閣僚が交代した時期にまで遡れる。Castlereagh (1769-1822)《外務大臣。ウィーン会議に出席し, ウィーン体制擁護の反動政策を推進した。》の自殺のから始まるこの期間に、13のうちの6のポストが変わった。カニングが外務省を引き継ぎ、それまでついていた管理委員会( Board of Control インド外交を担当した)の議長は、Bragge-Bathurst へ、その後、Gharles Wynn へと代わった。大蔵大臣はヴァンシッタートからロビンソンへと代わった。ロビンソンが就いていた商業委員会議長はハスキソンへと代わった。ピータールー事件とシックスアクトに関与していた内務大臣シドマスは退任したがっていたが、国王の希望で無任所大臣としてもう2年間閣内にとどまった。シドマスの後任の内務大臣はロバート・ピールであった。彼は30台なかばであったが、アイルランドで実質的な大臣職を経験していたし、金融管理委員会の議長も経験していた。ピールは同世代の中でもっとも有能な政治家と広く見なされていた。主要閣僚でその位置にとどまっていたのは、リバプールとウェリントンだけであった。

この再編はリバプール政府の「反動」から内政、商業、外交上の幅広い改革と結びついた「リベラル」への真の移行を特徴付けるものとみなされてきた。こうした印象は『リバプール卿とリベラル・トーリズム』という1820年代を扱った影響力のあるモノグラフによって補強された。しかし、この言葉は誤解を招きやすいので、注意して使う必要がある。確かに、リベラル・トーリズムという言葉は、ある政策から別の政策への意識的な転換という意味は含んでいない。リバプールのトーリズムについては本書のpp.9-10で述べたとおりである。彼は1815年にまけずおとらず1827年でもトーリズムを熱心に奉じた。それは最初からピットによって導入されることになる自由貿易への強い志向を持っていた。1820年代の貿易自由化は新しい政策ではない(10章参照)。

もっぱら状況のせいで、リバプール政府の最後の5年間は公共の秩序よりも商業に、そしておそるべき削減{財政}よりも注意深い実験に関心があった。しかし、リベラル・トーリズムは改革派トーリズム〔reforming Toryism〕の新しいブランドではない。そのイデオロギー的土台は小ピットの影響を反映している。ピットの1784-1793年の平和政策とリバプールの1822-1827年の平和政策は類似している。1793-1801年のピットによる公共秩序の強調と、1815-1820年のリバプールによる公共秩序の強調もよく似ている。

リバプールは新しい方向に進むための独立心と知的な展望に欠けていた。彼は革新者であるよりも統合整理者であった。偉大な先駆者が敷いた政策のガイドラインに喜んで従った。だから後にディズレリーはリバプールのことを「壮大な凡人 arch-mediocrity」と呼んだのである。リバプールのこむずかしい注意はカニングのような聡明な部下を激怒させた。こうした性格は必ずしも無能な政府には役に立たなかった。とりわけ、有能な部下に対する判断の場合にはそうだった。

首相は若い人を育てるのも義務と考えていた。彼はピールやハスキソンのような有能な政治家を下院でのウィッグとの論争にあたらせるのが政治的には有利であると見抜いていた。しかし、彼らは1810年代の下級の役職では忠実に使えていたが、自らの昇進を政府の哲学を変更させる機会とは考えなかった。10、11章で見るように、1820年代の改革、調整、改良という大仕事は「反動的な」先行者と部下としての彼ら自身によって成し遂げられた。本当の特徴は哲学的なものではなく実践的なものであった。ハスキソンとピールは先行者よりも論争と行政府でより有能であった。

そえゆえ、3つの理由からリベラル・トーリズムという言葉は注意して使わなければならない。第一に、リベラルトーリズムは1822年の政府の「改造」を含意してはいない。第二に、新人は政府の先任順において新しいだけであり、彼らが内閣のポストに就く前に政策のガイドラインに合意していた。第三に、1820年代の「リベラリズム」は改革派よりもはるかに「改良」しつつあった。1815-1821年の多くは経済恐慌の時期であったが、恐慌よりもむしろ繁栄に悪い影響を及ぼした。リバプール内閣の誰一人として1815年ほどには1824年の議会改革の必要性を納得したものはいなかった。ウィッグのリーダーであるジョン・ラッセル卿は数百の選挙区をつぶす法案を提出した。こうして浮いた議席は大きな商工業都市に再配分されることになっていた。法案は政府の支持を受けられず、下院で多数によって退けられた。

議会外の圧力を利用して改革を立法化しようとする考え方はひどく嫌われた。1832年の大改革法の通過までを次のような図式で整理したくなる改革をおそれたトーリー政府は1810年代に分裂し、1820年代の繁栄期にリベラル化した。このリベラル化があったから、1830年代にウィッグが政権に就いたとき着手した改革の仕事を容易にした。多くの学者を魅了してきたこの単純な図式は完全に間違っている。その当時のトーリー「リベラリゼーション」は、古くて閉鎖的な政治世界の範囲内にとどまっていた。中産階級の選挙区の改正に同意を示すことは全くなかった。リバプールが育て上げたトーリズムは、彼の死後、破壊されてはじめて、議会改革は実際の可能性を持つようになった。

1822−23年の閣僚の交代は原理上の変化を示すものではないけれども、政治的な目的を伴っていた。王妃の事件とそれがジョージ4世をして閣僚に対して無関心にさせたために、リバプール内閣は弱められた。政府が守勢に立たされて、シドマスがピータールーの後で下院での影響力をほとんど失ったときに、ヴァンシッタートは無能さをさらけ出した。平議員の支持を得ることで、ウィッグはマイナーではあるが、少しずつ重要になっていく勝利を得た。1822年3月に海軍予算を削減して、農産物価格の低下で打撃を受けた地主の課税を減らす動議をウィッグは提出した(8章)。リバプールの辞任の恐れだけが、無所属ではあるがトーリーよりだった平議員を見方につけた。与党の幹部席に政府の新顔がすわることが強く求められていた。

長く続いたグレンヴィル派とウィッグの間の分離のプロセスは、リバプールによる閣僚を強化するという決定によって終止符が打たれた。グレンヴィル派の新しいリーダーであるバッキンガム侯爵は公爵の身分によってつながった政府に忠誠を誓った。そして、チャールズ・ウィンは内閣のマイナーなポストを獲得した。ウェルズリー公爵(ウェリントンの兄弟)をアイルランド総督に任命したことが長い目で見ればはるかに重要である。グレンヴィル派の多くと同様に、ウェルズリーはカトリック解放を肯定した。彼の任命はリバプール派のカトリック解放反対派を困らせた。しかし、直接の目的に役立った。リバプール政府の瓦解というウィッグの願望は、カロライン王妃事件の時でさえも虚しいものであった。王女が1821年に亡くなったときにその願望も潰えた。有能な何人かの人材は失われていたために、内閣改造の際に彼らに不利になるように政治算術{?}に傾いたときにはウィッグは展望を失っていた。グレイは断続的に政治活動から手を引いていたし、党の規律は1823年以来緩んでいた。1822年以後、ウィッグは議会内において100人以上の支持を集めることはめったになかった。1822年半ばになると、議会における党派の争いは1815年の時ほど激しくなることはなかった。

党派間での争いが休止すると内閣の中での派閥が大きくなった。誰かの議会での立場が確実であるということを知ることは、たとえ反抗することはあっても、一連の従属した行動をとることを促した。改造された内閣は以前のものよりも派閥的になった。ウェリントン、ウェストモーランド、エルドンはみな、国の内外におけるイギリスの商業政策を信じていなかった。国王が1824-25年に政府の賢明でないリベラリズムを批判したときに、このことは表面化した。プロテスタントとカトリックとの間の分裂はますます深刻になっていた。プロテスタントはピールを超えるグループを含んでいた。彼らはカトリックへの政治的譲歩、とりわけアイルランドにおける譲歩には反対した。この点では彼らはジョージ4世の支持者であった。カトリックは無策ではあったが志も大きかったカニングに指導されていた。ハスキソンと旧グレンヴィル派を含むこのグループはカトリックに議会選挙での選挙権と被選挙権との両方を与えることを望んだ。

リバプールはカトリック解放を政治的には二の次の問題にし続けようと試みた。この問題のせいで国王の頑固な反対にあった小ピット内閣が1801年につぶれた。リバプールはこの国がどのような感情に包まれているかを知っていた。それはジョージ4世が絶対に認めない唯一の問題であった。オコンナーの親解放路線とカトリック同盟の登場は1823年以降のアイルランドの政治的な熱気を高めた。上院の強力なプロテスタント多数派だけが解放と1825年に支払われることになる政府によるアイルランドのカトリック聖職者への給与に反対した。これが急進派のフランシス・バーデットが指導する下院でのキャンペーンを引き起こした。リバプールもピールも辞任に近づいた。カトリック問題は1826年選挙の主要な争点だった。対仏戦争の終結以来はじめて分裂を公衆の目にさらした。

1827年2月以前に、リバプールは辞任の原因となる脳出血を起こした。1826年になると商業とカトリック解放に加えて、穀物政策での不一致が加わった。1825年の不作は小麦価格を上昇させた。1826年の暑い夏は他の食料供給にも不安を与えた。北イングランドにおける新たな困窮を背景にして、これが国内穀物生産の保護政策の見直しを内閣にさせることになる。ハスキソンとウェリントンはこの問題で不一致だった。閣内でのおきまりとなった争いがまたもや再燃しつつあった。厳しい批評家はリバプールの政府内でのバランスを維持するやり方は優柔不断と弱体化をもたらすだけであると論評した。またあるものは、すでに権力はカニングに移行していると信じていた。

本当のところは、リバプールの権威は最後まで揺らがなかった。彼はヴィジョンとオリジナリティを欠いていたかもしれないが、バランスをとる能力に恵まれていた。彼は信用を勝ち得た。そのために、別の人間の権威を受け入れたがらないであろう真に有能な人材を取り込むことができた。首相であったピットは従者を集めたのにたいして、リバプールは彼の仲間の忠誠と尊敬を求めた。彼は自らを指導者と考えていたかどうかさえ疑わしい。

彼が首相としてこんなにも長くとどまったことが多くの人間を悩ませてきた。彼はリーダーシップのせいではなく、生き延びる能力のせいで生き延びたという厳しい批評もある。総選挙がしばしば行われず、主要な閣僚ポストが事実上、争われなかった時代には、長い政権の座も容易であった。こうした状況のもとでは、後の時代ほど世論は重要ではなかった。リバプール、ウォールポール、ピット、ノースはみな10年以上首相を務めた。そしてリバプールが直面した程度の公衆の敵意に、みなうまく対処した。20世紀的な見方をするからリバプールの在任期間の長さが目立つのである。結局、リバプールの政治世界は1828年と1832年の間に崩壊していた。

変化を恐れ、革命やナポレオン戦争を経験してきた財産所有者が支配する社会では、この恐怖を共有できて、やかんにふたをしつづけられる首相は、政権の維持に十分な議会を支配する土地所有者からの支持を取り付けられるのである。1819年の「シックス・アクト」は議会の多数の支持を得た。それに加えて、リバプールは首相としての不安定な時期がナポレオン戦争の勝利と一致していた。

こうした要因がリバプール政権の長さを説明してくれる。しかし、それが全てではない。それはリバプールが内閣に頼ることができた支持を無視している。また、1812年に首相になる前の様々な政治的経験を無視している。こうした知識を彼は首相として大いに活用した。彼の閣僚への書簡から分かるように、リバプールは閣議における議長以上の存在であった。とりわけ、1822年以降の臆病でおこりっぽい閣僚たちをなだめすかす技術を忘れてはならない。

忘れてならないのは、イギリスの変化の速度とそれが生み出した問題の多様性である。「偉大なる凡庸」ではリバプールがついていった様々な状況に対処できないであろう。彼の政治的能力は、トーリー自身とそれが守ろうとした古い秩序の多くが瓦解していくスピードでもっとも良く判断できる。

第10章 貿易、課税、財政

対仏戦争後の数年間はイギリスの財政は混乱状態にあった。戦費支払いのためにイギリスは巨額の借金をしており、融資返済のために政府財政はゆがめられていた。1815年に政府支出は45パーセントも歳入を超えていた。その支出のほぼ80パーセントが膨張した国債の支払いに当てられていた。カントリー・ジェントルマンは所得税の継続を認めようとはしなかったので、リバプールは大胆な歳出削減と費用削減に乗り出した。おもに兵士の除隊によって、1815-1818年にかけて政府支出は50パーセント削減された。解放された兵士や水平は容易に職に就けなかった。高い失業率が1818年に7800万ポンドでピークとなる救貧給付の高い水準の要因となった。この給付をまかなうための地方税はすでに過度の課税で不満を抱いていた財産所有者が負担することになるから、1815-1820年に急進主義的な政治が広まっていた貧民を改善するだけではなく、彼ら自身の自然的な選挙区をも改善しようとしたのは不思議なことではない。

大蔵大臣であるヴァンシッタートが有能でなかったせいで事態は解決できなかった。彼の借金に対する方策は、古い借り入れの返済分をシティーから新たに借り入れることであった。これは不況下の経済が耐え難いほど利子率を上昇させた。農産物価格が高止まりするであろうという前提のもとに行った戦時期の投資のせいで、農民は借金にあえいでいた。農産物価格が下落したときに、積み重なる借金に抗議の声をあげた。平時への自然的な調整のプロセスを期待して、1815-1819年の政府の経済政策は成行任せであった。1818年の選挙である程度前進したウィッグと平議員の圧力に苦しんだリバプールは、1819年に対応に迫られた。リバプールは通貨が金本位に復帰し、イングランド銀行が金銀の兌換に応じなければ、企業心理は回復されないと信じていた。イングランド銀行による現金の支払いは1797年にピットが中止したままであった。しかし、リバプールはこの政策の変化がどの程度、論争を呼び起こすかを知っていた。彼は争点となる問題について一時的にもイニシアティブをとるつもりはなかった。

にもかかわらず、彼は二つの委員会の設置を認めた。一つは、通貨の状態を検討する委員会で、もう一つは、財政全体を調べる委員会である。両委員会は重要な政策立案局となった。政府は両委員会に委員を送ったけれども、その審議が政府のイニシアティブを反映していたというのは言いすぎである。ある意味で、議会はリバプールを貿易規制に向かわせた。

通貨委員会の議長であったピールはただちに、イギリスの紙券システムがインフレーションの原因であり、外国為替市場におけるポンド価値の減価の原因であると結論付けた。委員会は現金支払いの段階的な再開を勧告したが、それはリカードウに指導された影響力を増す経済学者たちの勝利を意味していた。リカードウは永続的な繁栄のためには健全な通貨が必要であると主張していた。それはカニングの秘蔵っ子であったハスキソンの好むところでもあった。ハスキソンは1823年以前はぱっとしない森林局に押し込められていたが、彼の経済への影響力は大きくなっていった。ハスキソンは平和はトレードを停滞させ、生産的な投資を減らしてしまうと信じていた。カントリー・ジェントルマンは全体的には現金支払い再開を好んでいた。金本位は公明正大さの象徴であったし、投機から利益をあげていたシティーのファンド・ホルダーに一撃を加えることを意味した。委員会の計画よりも早く、1821年に金本位に完全に復帰した。

財政委員会は財政赤字の減額を促した。いやいやながらも、ヴァンシッタートは答えた。彼の1819年の予算では減債基金が削減され、間接税が300万ポンド増額された。それはビールを値上げさせるモルトへの新税が含まれていた。目的は歳入と歳出とのバランスである。リバプールにとって、これは遅れていた戦後の正常な状態への戻ることを意味していた。彼はハスキソンに1820年の秋に次のように語っている。ようやく、固定される通貨と「年々の借金の消滅」によって政府を救い出すことが、国家を「平時に落ち着かせる」。

イギリスの予算は1819-1827年の間はほぼ均衡していた。「繁栄のロビンソン Prosperity Robinson」を連想させる予算戦略は、「古いかび Old Mouldy 」とか「貧しい荷車 Poor Van 」と呼ばれているようにヴァンシッタートは別の人間がしいた政策に従っただけであるけれども、その地位にいた最後の年にはじまった。わずかな財政余剰と「通常」からの収益は、リバプールをして関税を引き下げることが国家の繁栄のための最良の長期的な保証であると信じ込ませた。この点でも、他の多くのことと同じように彼はピットに従っていた。政府の経済政策は、商業と低い関税を強調した1780年代の平和時にピットがたどっとコースへと戻っていた。この政策にはこれまでにない強力な知的な援軍がいた。自由貿易はリカードウやマカロックのような経済学者によっても、道徳的十字軍の熱心さをもって主張されていた。

1820年5月にピールが行った有名な演説では関税引き下げが示唆されていた。しかし、具体的なやり方は注意深く避けられていた。政府の支持者が多数を占めている議会の委員会で根回しが行われていた。最も影響力があったのはトマス・ウォレスが議長を努めていた外国貿易委員会であった。それは無名ではあったが自由貿易運動において実質的な影響力を持っていた。この委員会が1820年にイギリス海運業の保護を目的として、外国人がイギリスの倉庫を利用すること義務付けた航海条例の緩和を勧告した。1821年にウォレスは最初は委員会を通じて、その後下院を通じて、カナダの材木にバルト海で課せられた差別的税金の引き下げを先導した。この温和な変化は「戦後のレッセ・フェール原則の実行への最初の現実的な第一歩」と言われてきた。これに続いて、特に北ヨーロッパにおけるイギリスのトレーダーに機会を広げることを意図した、1822年の5回にわたる同様の引き下げが行われた。

およそ2000の独立した条文でトレードを圧迫している複雑な法律を単純化し、合理化する作業をウォレスは始めた。それらは財と原材料の移動を規制するだけではなく、熟練職人の海外への移住や機械の輸出をも規制していた。工業生産が競争相手をはるかに凌駕する国にとっては、このような保護は無意味であった。それらは報復的な関税障壁と世界規模でのトレードの制約をもたらすだけであった。1822-25年の間に、最初はウォレスによって、その後はハスキソンによって、独占の数は減らされ、航海条例の厳しい規制が緩和された。最も重要な政策はハスキソンによる1823年の互恵関税法(Reciprocity of Duties Act)であった。この法の下によって、相互引き下げに同意した国はイギリスの船と同じ条件でイギリスに商品を運ぶことが可能となった。ハスキソンの目的はイギリス製造業のための輸入コストの削減であった。彼はまた、合衆国、イギリス、東インド植民地の間での貿易パターンが復活することを望んでいた。

この政策を完全なものにしたのが、予算における国内税(domestic duties)の引き下げであった。1823年のロビンソンの最初の予算は直接税に集中した。余剰が生まれるとすぐに、約200万ポンドそれまで価格と地代の下落に苦しんでいた土地所有者の負担を軽減することが意図されていた。しかし、1824、25年の予算で関心を引いたのは、関税と国内消費税であった。ラム酒、石炭、羊毛、絹への課税は1824年に引き下げられた。1825年にトレードの景気から税の引下げにも関わらず政府の収入が増額した。この期間に完全な関税システムの改定が着手された。ロビンソンがねらったのは、低価格による国内需要の刺激と、1780年代のピールと同じように、密輸に対する合法的な誘惑をなくすことであった。製造物に対する課税は50パーセントから20パーセントに引き下げられ、原材料への課税は20パーセントから10パーセントに引き下げられた。イギリス経済の回復は1825-26年のスランプを十分に吸収するほど強かった。ロビンソンは1827年にさらなる財政余剰を生み出す予算を組めた。1821-1827年には低い税金にもかかわらず、関税収入は64パーセントも増加した。

このような変化があったからといって、イギリスは自由貿易国家になったわけではない。貿易システムをより効率的に管理する、温和な保護が続いていた。政府が利益を与えようとした商業の利害はプラグマティックに反応した。リカードウ、ウォレス、ハスキソンらが弁護したように、新しい経済政策は必ずしも特定の利害や市場と結びついてはいなかった。古いトレードが税の引下げを既存の市場への脅威と見ていたのに対して、新しい参入者は生産物に対する新しい市場を見出す機会により熱狂的に反応した。

自由貿易を求める1820年のロンドンの商人の請願は、商業者が全員一致したものとしてしばしば引用されてきたが、実際には注意深く、誰も代表者のいない経済学者トマス・トックが行ったロビー活動を写しだすものであった。17世紀以来手厚く保護されてきた企業家たちは熱狂的な経済学者ではなかった。東インド会社と海運業関係者たちは、航海条例を有効性を低下させる方策を疑いの目で見ていた。他方で、繊維産業者たちは1820年代にはイギリスの輸出シェアの3分の2を占めていたが、それをより増大させることを熱望し、新しい機会を歓迎した。

多くの論争が農業保護を巡って行われた。経済学者の論理は強力な1815年の保護主義的な穀物法の改定に向けられていた(4章)。しかし、農産物価格の急落によりその論理に従うのは困難となった。1817年にクォーターあたり4.8ポンドでピークとなった小麦価格は、1822年に2.2ポンドに急落した。話題はみな不況のことであった。ハスキソンは知的で、リバプールの商業よりの選挙区の議員であったので、田舎の平議員の信用を得ることはなかった。彼は「コミュニティーの労働者」に利益を与える安価なパンについて語っていた。「土地の耕作は国家繁栄の真の土台であり」、「農業の利害は商業や外交政策の犠牲になるべきではない」と主張したジョン・シンクレアは、農業階級に味方していた。

農業の同盟と西部のカントリーマン(West Countryman)であるジョージ・ウェッブ・ホールに組織された強力なプロパガンダの圧力にもかかわらず、議会の委員会内部における自由貿易論の強さは、より一層の保護要求を退けるのに十分であった。1815年穀物法は1822年に穏当な修正を受けた。その結果、3.5ポンドから4.25ポンドの範囲であれば段階的な税率で、それより高ければ無税で穀物を輸入することが可能となった。しかし、穀物法がある間は価格がこのレベルになることはなかったので、この修正は実際のところ無駄であった。

リバプールのアドバイザーたちであった、自由貿易に同情的であることが知られていたハスキソン、カニング、ピール、ロビンソンらは、より急進的な解決法に向かった。前年の不作の後の1826年に小麦価格が急騰したときに、この解決法が力を持った。それは、価格が低いときには作動しないが、国内の供給が少なく、価格が急騰したときに穀物の輸入を認める保護関税のスライディング・スケールであった。この解決方法は経済学者には受けが悪かった。彼らは保護の廃止が農業の合理化を推進し、市場を意識した農業を促すと主張した。政治的な考慮のせいで用心が生まれた。ハスキソンとリバプールが目指した穀物法の改定が実行されたのは、ようやくリバプールの次の首相であるカニングが亡くなってからのことであった。

1828年穀物法はウェリントン政府によって通過した。それにより、1815,1822年の法案を廃棄し、国内価格が3ポンドから3.6ポンドの間にあるときにスライディング・スケールが発動されることとなった。3.65ポンドになると無税で輸入できるようになった。ハスキソン以上に地主階級の平議員に同情的であったウェリントンは、1826、27年の法案段階での税率よりもスライディング・スケールが実施されるときの税率を引き上げた。

1819-1828年にかけて貿易政策は大胆かつ細心に動いた。因果関係を論証することは困難だけれども、この期間の大部分は繁栄していた。『アンニュアル・レジスター(Annual Register)』のようなトーリーよりのジャーナルは、この繁栄と政府の商業上のイニシアティヴを結びつけるのに熱心だった。しかし、『レジスター』が好んだ政府の賢明さ、リベラルさ、中庸は国民の多くによっても試みられたであろう。そのうえ、政府内部の緊張は1826-1827年に表面化しつつあった。1827年以降はっきりするように、貿易政策は社会的、政治的な区分けを横断するものであった。知的な支配力があったにもかかわらず、1820-1860年代の間、自由貿易は不和を生み出す問題であり続けた。