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フランス革命期のイギリス 1785-1820年

ここに抄訳する資料は、

Jennifer Mori, Britain in the Age of the French Revolution 1785-1820, Longman, 2000.

である(『経済学史学会年報』42号に書評有り)。学部生向きの教科書で、政治史・社会史・経済史・知性史などの概観を与えるものである。わが国では言及の少ない、トーリーの動向や宗教についても概説されているところに特徴がある。知性史を意識してまとめられているのも、経済思想史の周辺知識を得るのに都合が良いと言えよう。

例によって、省略・補足・悪文・意図せざる誤訳^^:)有りなので、研究で使用される場合には、必ず原典を参照するように。


目次

序文

2 諸観念と影響
2−1 『人間の権利』
2−2 新旧トーリズム
2−3 商業と近代性のディスコース
2−4 ラディカル・トーリズムとロマン主義的保守主義

4 個人と制度
4−3 ポーパリズムと貧困
4−4 宗教と社会

序文

この20年間に18世紀イギリス史全般への関心が再び高まっている。その中でフランス革命に対するイギリスの対応は、それ自体で別個に取り扱われるべき歴史を形成している。1780-1830年はイギリス史の中で確定的な場所を占めてこなかった。1688-1830年の社会、知性、政治の連続性を強調する「長い18世紀」の提唱者たちもいれば、「近代」イギリスの研究者は産業革命をもってはじまりとするものもいる。この10年ほどの間に先駆的であったフランス革命「新しい」文化史は、イギリス版として肉づけられることで、1790-1928年にまでおよぶ「長い19世紀」を創り出した。そしてフランス革命期のイギリスは今では、アンシャン・レジーム宗教国家(confessional state)と大衆政治文化の揺りかごとして描き出されている。本書の目的は1785-1815期のイギリスに関する、政治、外交、戦略、観念、社会、経済のサーベイを通じて、学生を研究と論争へと招待することにある。この本は上級の学部生向けに書かれているので、あらかじめこの時期の重要な人名、日付、出来事について基本的な知識が前提されている。

フランス革命はイギリスで愛され、そして憎まれた。イギリスの政治と知的な生活に革命が与えたインパクトは、本書の主要なテーマの一つである。それらは最初の3章で検討される。ここでは、長い間無視されてようやくアカデミズムの関心を引くようになった、革命に反対したイギリスの王党派が、よく知られている急進主義者と改革派とともに両者を動機付けた社会的、知的原理を解明するために考察される。

議会でもたたかわされたフランス革命をめぐる論争、新聞、あらゆる種類の公共団体が、ある世代の精神と社会論(social cosmology)を形成したけれども、革命とナポレオン戦争との20年におよぶ戦争のインパクトもその時代の政治や文化にとっては同じように重要であった。戦争は変化のための重大な触媒である。それはすべてのイギリス人の生活にかかわる金融、軍事、法律の発達を刺激した。非中央集権的国家における都市の権力の成長のパラドックスを説明するために、第4章は騒乱と反乱、貧民と宗教のそれぞれに関連する国家的な命令をローカルなレベルで個人や団体がどう受け止めたかを扱う。町や州や教区が自らのやり方で中央政治を解釈し、憲法に保障された基本的な自由(liberty)として自らの自由(freedom)を育んできた世界を理解するためには、議会や国家の圧倒的な力についての20世紀的な仮定を放棄しなければならない。そのうえ、第5章で明らかにするように、特定の社会的、政治的必要に応じて、地方は中央政治を利用しえた。

戦争の社会的、経済的な帰結は、「産業革命」と階級形成などの長期のトレンドとあわせて第5、6章で扱われる。労働史家たちは長い間、戦争と第一段階の産業化のインパクトがはっきりしていないにもかかわらず、その両方に労働者階級の起源を求めてきた。本書では戦争と産業化は別個の現象として扱う。そうすることで、戦争と産業化が、需要と供給のパターン、工業のインフラ、小売と金融、賃金と労働者の状況、富者と貧民との間の社会的な関係の再調整などに与えた影響が評価できる。1793-1815年にかけて多くの人力と資金が使われた、軍事と外交の目標の概観は第6、7章で行う。

2 諸観念と影響

フランス革命はイギリスで賞賛と非難を巻き起こした。新しい思想の形態と混ぜることで、革命は古い形態の伝統的な議論に新たな寿命を与えた。1787-1791年まではフランス革命は肯定されていた。教育を受けた人々はフランス革命を名誉革命と同一視し、ドーバー海峡を越えて立憲君主制の樹立を期待した。大衆的な暴力が発生したために、保守的な見解は革命批判となった。ヨーロッパにおける戦争の勃発、イギリスにおける大衆的な急進主義の登場、フランスにおける君主廃止があってはじめて、集合的な意味でイギリスは革命に反対するようになった。1792年の終わりまでに、国家は二つの陣営に分裂した。フランスを賞賛したものも、イギリスの現状を擁護したものも、フランスの軍隊とフランスの原理がイギリスの脅威であるという認識を抱いていた。

1793年2月に始まった対仏戦争によって、知識人たちは急進主義または王党派に忠誠を誓わざるをえなかった。その撤回は1790年代と1800年代にはよくあることだった。イギリスにおける公的な寛容と、1795年以降革命が暴力的にヨーロッパ近隣諸国の征服と併合を引き起こしたこととに直面して、多くの穏健派と急進主義者たちが人々の状態を永続的に改善できない革命に幻滅した。1798年までにイギリス急進主義の最もよく知られていた使徒であったワーズワースとコールリッジはロマン主義的保守主義を喜んで受け入れた。急進主義者とリベラルたちだけが立場を変えたのではなかった。1800年代にはコベットも劇的に豹変した。彼は1795年以降、ピットに忠誠をつくす保守的なジャーナリストであった。外見的には一貫した保守主義とアンチ・ジャコバンの社会観(social cosmology)を持っていたけれども、コベットは急進的な議会改革を受け入れたのである。ベンサムは『腐敗は腐敗せず Rottenness on Corruption』(1792)と『無政府的誤謬』(1795)においてポケット・バラを擁護していたが、1809年にイギリスの政体に幻滅した。その欠点は長所を上回っていたので、ベンサムは急進主義とウィッグとに連繋した。

1796年までに多くのリベラルが、ヨーロッパで発生した革命のコースに深刻な疑念を抱いていた。そして1800年までに、素朴なジャコバン主義は消え去るか、影に隠れた。1800年から1810年代にかけての急進主義はナポレオンのフランスやヨーロッパをほとんど好むことはなかったけれども、1790年代の経験からフランスを賞賛したとしても、それがピット政府に対する反逆と同じではないことを学んでいた。革命のエンブレムは1800年以後も大衆的な急進主義の政治文化の中で生き延びたけれども、改革派は国家や社会の現状を批判するために、共和主義的な急進主義プロテストの素朴な伝統へと戻っていった。体制側から独立した善良なる市民を形成するイギリスの愛国主義という伝統的な言説に急進派が依存していたために、イギリスの思想に対する国際的なコスモポリタン主義の影響はかなり弱まっていた(Cunningham,1981; Dinwiddy,1986; Philp,1991; Epstein,1994,pp.5-11,23-6)。愛国主義は対仏戦争を通じて生き延び、新しい形態をとるようになった。

伝統的で保守的なユダヤ・キリスト教的な社会観を承諾していたけれども、王党主義は反動、穏健、あるリベラルを含む幅広い学派であった。王党派のフランス革命に対する敵意は、とりわけ福音主義的国教会側が試みていたイギリスの社会的・道徳改革にまでは及ばなかった。また王党派は啓蒙全体を退けることもなかった。 旧来のフィルマー的なトーリーに近い王党派や、急進主義と場合によっては名誉革命にも批判を向ける革命派に対する批判を支持したラティテューディナリアンの中に、功利主義者と古典派経済学者はいなかった(Clark,1985,pp.247-76; Schofield,1986; Hole,1989; Claeys,1990)。対仏戦争のさなかに王党派がイギリス人に訴えるの成功した要因は、王権神授説の提唱と同じぐらい、この批判的な社会意識が生き延びたことにある(Christie,1984,1991; Dickinson,1992a,b)。そのうえ、無政府と革命に対する保守的な恐怖にもかかわらず、王党派は新しい文学、宗教、経済観念に親近感があった。

2−1 『人間の権利』

1791年1月にペインはバークの『フランス革命の省察』への返答を出版した。ペインの考えでは、2ヶ月前に刊行された『省察』はフランスにおける出来事の目的と性格を誤解していた。『人間の権利』第一部では、フランスの改革へのモデルとしてアメリカ独立戦争を描くことで、記録を正すことからはじまる。第一部はイギリス政府から注目されることはなかった。1792年2月に刊行された第二部は、扇動罪の誹謗によって告発される。そのためにペインは欠席裁判で1792年12月に有罪となる。

第一部、第二部は合わせて読もうが、別々に読もうが、歴史と自然権的共和主義政治理論との労働者階級向けの啓蒙書となっていた(Philp,1986; Claeys,1989; Dyck,1992; Goodwin,1979; Thompson,1968)。『人間の権利』を全部読んだイギリス人は多くはなかった。縮約または普及版で読んだ。しかし、その中心的メッセージは明瞭であった。生命と自由という普遍的な自然権を持って生まれた人間は、人々の主権が正義と合理的な政府の要求のうちにあると主張する権利を持っているというメッセージである。ペインは共和主義的伝統に属している。それは、自由にうまれたイングランド人のアングロサクソン的権利とノルマンのくびきという圧制の神話をともなっていた。歴史と自由の急進主義的な読解は17世紀の内乱記にまで遡る系譜を持っている(Pocock,1975; Robbins,1559)。イングランドの急進主義に連綿と続くその影響は、急進主義的な文化に与えられてきた知的、歴史的な合法性に由来している。啓蒙の商業的な進歩という魅力的な展望、明瞭で簡潔なあるべき代議制政府の説明、君主、戦争、組織的な宗教に対する攻撃、ペインはこれらを伝統的な共和主義に付け加えた(Claeys,1989)。政体問題にイギリスの大衆的な関心を呼び起こすために書かれた第二部は、ハノーヴァー朝、議会、国教会、国債そして旧救貧法を攻撃した。それは第一部で行ったバークの革命に対する議論の論駁よりもはるかに破壊的であった。そのために1792年に直ちにピット内閣はペインを講義した。

政府の警告は間違っていた。ペインが大衆的な急進主義に訴えかけたのは、伝統的なイギリスの政治理論を、責任があり、合理的で革新的な主権と結びつけることであった。ペインが描いた二つの革命のうち、アメリカの事例はイギリスとアイルランドの急進主義者を引き付けた。アメリカは依然として貿易、宗教、言語、移民、政治理論においてイギリスと結びついていた(Thompson,1968,p.84; Cone,1968,pp.51-52; Goodwin,1977,pp.175-7; Kramnick,1982,pp.638-640; Claeys,1989,pp.71-5)。フランスはイギリスの急進主義に希望を与えた。しかし、革命についてのいかなる青写真も与えなかった。同じことはペインにもあてはまる。イングランドの福祉国家についての彼の計画は広く賞賛された。しかし、政体変革の要求の中にはっきりと姿を現すことはなかった。それは1770年代の急進主義者から受けついたものであった。イギリスの急進主義はあらゆる国家権力を疑っており、権力を強めるのではなく弱めることを求めていた。長い目で見てペインがイギリスの改革に与えた影響は、旧来の急進主義による政府批判を新しいものにし普及させたところにある(LCS,1983,pp.10-14,18-19; Curtin,1994,pp.22-5; O'Corman,1998,p.272)。

ペインは長い間、理神論的な革命思想の伝統の中で、リチャード・プライスやプリーストリーの側に置かれてきた(Palmer,1959; Goodwin,1979; Clark,1985)。プライスとプリーストリーはコスモポリタンん啓蒙家ではあるが、3人とも誰も暴力的な革命を提唱していない。ペインの『理性の時代』で表明された理神論はイギリスの大衆的な急進主義に影響を与えたけれども、プライスとプリーストリーのインパクトは上層の知識人に限定されていた。イギリスではプライスのアリウス主義とプリーストリーのソッツィーニ主義に代表される反三位一体論は、革命家よりもむしろ非正統的な思想家を生み出した(Bradley,1990)。バークはプライスの有名な『祖国愛』(1789)が1787-1790年にかけての審査律撤廃を目指す非国教会キャンペーンへの支持を生み出そうとする試みであることを正しく見抜いていた。しかし、文面には表れていない非難の感情をそこに結び付けてしまった(Fitzpatrick,1990)。事実、『祖国愛』は非国教徒も望むならば、政府を批判し政府を変える権利が1868年の憲法で与えられていることに満足するように非国教徒に証言したものである。しかしながら、ハノーヴァー朝教会−国家を支持するものたちは、バークが行った理神論と革命との同一視を疑うことなく受け入れた。1791年にペインはそれに気づかされた。バーミンガムのルナ・ソサイエティが参加するバスティーユ・デーのディナーを組織していたが、怒った「教会と国王」の暴徒たちによってパーティーは破壊された。彼らは地方の非国教徒の家や職場を攻撃し、プリーストリーの家、蔵書、実験道具も破壊された。イギリスに幻滅したプリーストリーは1794年にアメリカに移住した。

非国教徒がみな急進主義であったわけではないし、全ての急進主義者が非国教徒であったわけでもない。しかし、非国教徒は二流市民扱いであったから、18世紀後半のあらゆる改革キャンペーンに非国教徒を駆り立てることになった(Bradley,1975-6,p.4,14-15; Seed,190; Watts,1995,p.394)。プライスとプリーストリーと元々はカルヴィニストで無神論に転じたゴドウィンたちは、フランス革命を社会と政治を改革する大胆な実験と見ていたコスモポリタン・ブルジョアに属していた。新しく作られた政府と社会の制度の中で、正義、真理、理性、自由の啓蒙の理念を実現する要求として見ていた。人間と境遇の完成可能性に対する信念は、ゴドウィンの1793年『政治的正義』の中にもっともよく表明されている。それはあらゆる私有財産と政府の廃棄を要求する論文であった。市民の出来事を監視する面倒で抑圧的な機構の必要がなしで合理的な自己規制的な調和の中で市民が生活する小さな自律的なコミュニティーを支持するものであった。ゴドウィンは自然権、成文憲法、不変の善悪の基準を拒否して、平和的なユートピアの中で理性の絶対的な支配だけが統治する極端な個人主義を主張した。悪と不正義にうちかつ理性と慈悲心の力を信じることに特徴を持つ、彼の完全主義的な無政府主義は、1794年のジャコバン小説『カレブ・ウィリアムズ (Caleb Williams)』によく表現されている(Philp,1986,pp.80-98; Mee,1992,p.225)。

ゴドウィンは無神論と自由恋愛を擁護した。しかし、ウルストンクラーフトが娘を身ごもったときに結婚した。彼女の『女性の権利の擁護』(1793)は婦人の家庭内化と、それへの婦人自身の共犯関係を告発した。しかし、婦人の知的能力が対等であることを認めながら、それでも婦人の主要な社会的役割を妻と母にあると見なしていた。出産時に亡くなってしまったが、ジャーナリスト、小説家のキャリアは1790年代の女性急進論者であるヘレン・マリア・ウィリアムズとシャーロット・スミスによって継承された。フランス革命に対する彼女たちの賞賛は、革命に反対するある保守的な王党派の攻撃を招いただけであった。彼はフランスのサロンのブルーストッキングへの邪悪な国内の支援者というレッテルを彼女たちに貼ろうとした。保守的な王党派は、彼女たちの社会秩序を転覆させようとする試みがフランス革命の勃発を生み出したと考えていたのである(Montluzin,1988,pp.11-15,67; Colley,1992,ch.4)。

伝統的な道徳に対する急進的な感性と不満を抱きながらも、ウルストンクラーフトとその仲間の女性たちは、結局のところ上層の(genteel)知的な背景の産物でしかなかった。上層の急進主義は理性と改革を、クラブやサロンの出来事して、そして暴力と熱狂を嫌う啓蒙の社交性として見なしていた。粗野な急進主義とその潜在的な暴力に対する嫌悪感は1793-94年のテロに対する急進主義の反応にも表れている。ゴドウィンやワーズワースたちはそれを社会全体の再興にとって、悲しむべきではあるが必要な条件と考えていた。しかし、フランスに新しいと理性と自由の秩序が現れることはなかったので、社会的、文化的、知的な意味で合理的な革命の要素を欠いていたフランス人は熱情と偏見の犠牲になってしまったと急進主義者たちは結論付けたのである。イングランドであれフランスであれ、啓蒙は上品で文化のあるルートで達成されるべきものであった。大逆罪によるLCSとSCIのメンバーの逮捕と裁判について、1794年にゴドウィンの彼の支持者であったLCSの活動家であるジョン・セルウォールと袂を分かった。まじめに真理と正義を議論する代わりにビールとタバコと熱狂がはびこっている大衆的な急進主義クラブから、自由と理性の正しい理解が生まれるとゴドウィンは考えなかった(Jones,1993,pp.140-8; Chard II,1975-76,p.67; Rigby,1989a,1989b; Marshall,1984,pp.115-116; Philp,1986,pp.117-119,196-7; Mee,1992,pp.50-1,222-3)。フランス革命は最初のうちは魅力的ではあったが、たいていのイギリスの急進主義者とリベラルな思想家たちはイギリスの上品で慣例に従った(prescriptive)自由に対する信頼を持ち続けた。

1796年までにはコスモポリタン急進主義は支持を失い始めていた。1793年まで革命の熱狂的な支持者であったワーズワース、コールリッジ、サウジーは、フランスに対する心情を変え始め、1798年に中立的で共和国であったスイスへと侵攻するにおよんで完全に変節した。1796年にコールリッジは、「騒乱の金切り声をあげる自分の子供を首吊りにした」と語った。彼がフランスのスパイであったかどうかはともかくとして、コールリッジとワーズワースがともに1798年までには保守的な詩的中立主義に向かいつつあったことを1817年の『Biographia Letteraria』の中で労を惜しまず述べている。それは後にロマン主義的革命主義に転換することになる。1800年までには上層のサークルにおいて、メトロポリタン非国教徒であろうとも、ノリッジ、マンチェスター、あるいは南ウェールズの地域的な急進主義コミュニティーであろうとも、フランスの出来事を熱狂的に支持するものはほとんどいなかった(Jewson,1975; Scott,1989; Beer,1977,pp.52-54; Corfield and Evans,1996; Jenkins,1983; Watson,1976; Roe,1988)。1790年代の三つのリベラルな非国教徒の経営する文学雑誌の中で、『アナリュティカル・レビュー』は1799年には破産し、他の二つ『マンスリー・レビュー』と『クリティカル・レビュー』は王党派のものになるか、回復不能なほど衰退した。にもかかわらず、この時までに上層の急進主義は、イギリスの古い秩序に逆らう新しい著作家と出版社の誕生を促すのに貢献した。彼らの手の中で19世紀の最初の10間に急進主義の印刷文化が姿を変えていくことになるであろう。

1792年の終わりにピット政権が急進主義的な出版を真剣に弾圧し始めた時に、ロンドンと地方の出版たちは大逆罪で裁判にかけられた。にもかかわらず、トマス・スペンスとロンドンの週刊誌『豚肉すなわち不潔な群集と豚の清掃すなわち政治 Pig's Meat』の編集兼出版者ダニエル・アイザック・イートンは、繰り返される起訴と投獄にもかかわらずその10年ほどの間活動的であった。「豚のような群集」というバークによる大衆の描写は急進主義の著作家たちを激怒させた。彼らは1791-1793年にかけて豚のような出版をあびせることでそれに答えた。急進的な出版を押さえ込もうとする政府の一連の努力にもかかわらず、読者は、対仏戦争中のさまざまな形態の印刷メディアの実験によって政府と王党派の弾圧に答える急進的な大量の文献にアクセスした。

多くの読者のために刊行していた急進的な出版者は、大衆的な印刷文化の伝統的な手法を利用した。民話、バラード、ペニー・パンフレット、ビラが急進的な主張を広めるために利用された。こうした出版物は取り締まることができなかったので内務省を悔しがらせた(Mee,1992,pp.216-220)。1795年以降、大逆罪の判決はオーストラリアへの島流しとなっていた。そのために、急進的な出版者やジャーナリストが裁判を逃れるために逃亡した。イングランドを去ったもっとも有名なジャーナリストがコベットであった。彼は1817年にイートンやマシュー・フォークナーやサイモン・バーチにならって、一時的に亡命した。政府は高価な印紙税で新聞代をあげようとした。その結果、急進的な出版者や著作家たちを印紙の無い出版物へと向かわせることとなった。1800年以降、宣伝、チャプブック(呼び売り本)、児童書へと多様化した。メディアの諸形態は王党派の印刷物を維持した。その際に、新しい技法を印刷関係者は採用した。ブロック・ヘッドライン、挿絵の挿入、絵のキャプションなどである。急進的な印刷業者はオリジナルな政治思想家というよりも、むしろ皮肉とメディアの操作にとって存在意義があった(McCalman,1985; Wood,1994)。

1790年代にそれが登場した時と同じように、急進的な出版文化はいくつかの伝統から借り物をしている。「ハイ」あるいは公式の啓蒙、ネオ・ハリントン共和主義、千年王国説。1792年に英語で公刊されたC.F.ボルネーの『帝国の崩壊』は、スペンス、イートン、W.ブレイクが一般の読者に広めようとしたコスモポリタン啓蒙の普及を代表している。イートンの出版活動はエルヴェシウス、ド・ルバッハ、ボルネー、コンドルセ、ロベスピエールの翻訳や、ハリントン、アルジャーノン・シドニー、ウィリアム・モローなどの古典的なイギリス共和主義のテキストからの抜粋を集めた「標準的な」啓蒙書を含んでいた。文盲の人間のために、セルウォールの講義は口伝の教化となっていた。それは急進的な専門家による講義を禁じた1795年の反逆活動法(Treasonable Practices Act)に違反したものであった。ブレークは通俗的な唯名論とスェーデンボルグの神秘主義と千年王国説とを実験詩と版画の中で結びつけた。それらは当時はあまり注目を浴びなかったが、ブレークも思想と表現の新しい様式を伴った実験によって印刷の領域を押し広げた(McCalman,1988,p.24,63-7; Belchem,1985,p.87; Cahase,1988,pp.50-51,61-62; Epstein,1994,pp.75-7; Philp,1991,pp.74-6; Mee,1992,pp.1-19)。

キリストの第二の再臨を信じる千年王国説はイギリスでは二つの18世紀的な形態をとった。プライス、プリーストリー、他のハイ・啓蒙思想家たちが同意した前千年王国説(pre-millennialism)は、新しい社会の到来を古い社会が成長したものとして見ていた。それは社会のドラスティックな転覆を予言する黙示録的な一般の千年王国説とは異なっていた(Mee,1992,pp.36-; Oliver,1978,pp.20-3)。二つの千年王国説はともに、イギリスの大衆に共有されていた共同体の正義という「モラル・エコノミー」の概念と、ボルネーやコンドルセたちから引き出された人間の進歩の可能性に対する信頼とを結びつけたので、スペンスの考えによれば千年王国説はロンドンの職人に訴えかける共和主義の革命的なイデオロギーであった。その予言のために、憲法の枠内での議会改革を唱えてはいたが、従順な人たちが大地を相続するであろうと信じていたLCSのスペンスはあまりにも従順すぎた。1794年にスペンスはLCSの支部を脱退するが、その支部はリスペクタブルな急進主義からなっているとは言えなかった。なぜならば、ロンドン警察のスパイであったエドワード・ゴスリングは1794年4月にその支部が暴動の準備のために武装していると報告しているからである。

いずれにせよ、スペンスはロンドンのイーストエンドで自らのソサイエティを立ち上げる。それは繁栄していたとは言えないにせよ、対仏戦争の間、存続し続けた。1814年にスペンスが死んでからも、スペンス主義者たちは1810年代の議会改革への急進主義的なキャンペーンに参加し、1816年のスパ・フィールド暴動や1820年のカトー街の陰謀にも加わった。スペンスの急進主義とリテラシーへの関心はフランス革命以前にまでさかのぼる。ニューカッスルの校長であったときに、スペンスは子供たちのためにクルーゾニアン・メソッドと呼んだ音声記号を考案していた。1775年『人間の権利』の中でスペンスははじめて一般の人々へのイングランドとウェールズの全土地の再配分を主張した。スペンスはゴドウィン主義者でも社会主義者でもなかった。財産の平等化、すなわち土地正義という彼の要求はウィリアム・オグルヴィーに代表される1790年代の土地改革論者に近いものであった。オグルヴィーの『土地権利理論』ではあらゆる借地権の放棄が要求されていた。農業と土地所有に直接参加することで、人々は彼らに与えられた権利を実際に行使できるとオグルヴィーとスペンスは考えていた(Knox,1977; Chase,1988,pp.65-7; Cunliffe,1994)。

スペンスの思想はそれを普及させるために彼が用いた手法ほどには目新しいものではない。文盲のための酒宴の歌の作曲や、急進的なテキストを持っている『ジャック大きな殺人者』のような童話の作成、破壊的なメッセージを刻んだトークンの生産、ロンドン市壁への共和主義の落書きなど、これらは大衆文化のメディアの考案をともなう活動的な実験であった(Worrall,1992,pp.26-9; Wood,1991)。大衆的な急進主義の著作家たちは、民話やバラードや呼び売り本などの大衆への文字伝達手段を利用することで、彼らの観念が多くの聴衆たちへと届くように真剣に工夫した。例えば、セルウォールの『Chaunticleer』(1793)では、チョーサーの納屋の前庭にいる鶏の王様でも首を刎ねられて毛をむしられてしまうならば、身分も地位もそれ自身の秩序を持っている同じ種類の社会の中にいる他の鶏の方が、よりも優れているとされた。『豚の清掃 Hog's Wash』で風刺を出版したイートンは国王に対する反逆で告訴された。しかし、それでもペインの『理性の時代』の出版を思いとどまらせることはできなかった(Philp,1991,pp.70-2)。

『豚肉』と『豚の清掃』はバラード、はやり歌、寓話、偽の広告、夢物語、子供のゲームを不正義、自由と腐敗のテーマに関する古典や啓蒙のテクストと結びつけた。大衆文化(literature)は公式の理論に出会った。ジャーナルの刊行やトークン、版画などを用いたスペンスやイートンの活動は、後のコベット、ウーラー、ウィリアム・ホーン(William Hone)、リチャード・カーライルの道を切り開いた(Wood,1994,pp.186-214; Worrall,1992,pp.48-50; Calhoun,1982,p.113; Gilmartin,1996; Epstein,1994,pp.32-36)。しかしながら、1800年代までに大衆的な急進主義の理論家たちは、もっぱら素朴な共和主義政治理論、大衆的共同体主義、後千年王国説に依拠していた。『Axe Laid to the Root』(1817)はスペンス派の職人で巡回説教師でもあったロバート・ウェッダーバーン(Robert Wedderburn)によって執筆されたが、それはボルネーやルソーをほとんど理解してはいなかった。急進的な出版文化がイギリスで発展するにつれて、外国の影響力とは独立の生命力を獲得し始めていた(McCalman,1988,p.43; Linebaugh,1993)。

2−2 新旧トーリズム

1790年11月に『フランス革命の省察』は驚きをもって迎えられた。たいていの教育のあるイギリス人は、その破滅的な予言から警告を受けたのではなく、予言に喜んだ。バークの警告がフランスで現実化しはじめた1792年の終わりごろまで、バークの周辺を除けば、あまり重視されることはなかった。しかしながら、ハイ・チャーチの人々は、それが彼らには何も新しいことを語っていなかったにもかかわらず『省察』を歓迎した。ネイランドの牧師で『現代のキリスト教における偶像崇拝の増長についての省察』(1776年)を著したウィリアム・ジョーンズにとって不信仰はヨーロッパ全体で社会秩序の土台を掘り崩していた。多くの教会人も1787年以来、日記や手紙の中で革命の推移に対して個人的な疑念を表明していた。Abee Barruleの『ジャコバンの歴史の記憶』はジョン・ロビンソンによって1797年に英訳された。それはイギリスの高教会が長い間、何を知っていたかを確証している。バークの『省察』は外国のジャコバンの謀略理論よりも多くの読者に魅力的であった(Hole,1989,pp.153-4, 1991,pp.19-20; Sack,1993,pp.32-3; Vincent,1998,pp.142-3)。

組織化された宗教、君主制度、ジェントルマンのマナーに対する体系的な攻撃を通じて、西洋文明の破壊を画策しているとする「思弁家たち、経済学者たち、計算家たち」が夢見た邪悪な陰謀というバークの発見は、フィルマー派トーリーに新たな生命力を与えた。フィルマー派は神聖な権利と絶対服従の考え方をもっており、18世紀を通じてオクスフォード大学、国教会(established church)とトーリーのジェントリーの間で生きていた(Gunn,1993; Clark,1985; Colley,1982)。1792年の終わりに、トーリー的観念は正式に復活した。そのころ急進主義に対抗する王党派のパンフレット・キャンペーンが盛んになっており、対仏戦争の予感が生まれ始めていた。1792年までは革命をフランスの国内問題と見なしていた心配性のイギリス人たちも教会側についた。ジャコバン主義の国際的な次元に驚愕したために、彼らは急進主義と改革に断固として反対の立場をとるようになる。王党派の連合運動の創設者で王権神授説トーリーであったジョン・リーヴズ(John Reeves)は1795年に『英国政府論』を刊行することになる。それなしでは議会が正統性を持ち得ないところの国王の手中に、国家のあらゆる権力の源があるとリーヴズは主張した。こうした主張はウィッグ国家における反乱に匹敵するものであった(Gunn,1983,pp.180-1; Beedell,1993; Eastwood,1994b)。

古いトーリー・ドクトリンの復活に対抗して「真のウィッグ」を守ろうとしたフォグザイト・ウィッグによって、リーヴズの弾劾が1795年の終わりまでに行われた。最初の講義は1793年の国家説教に向けられた。それは1649年1月のチャールズ一世処刑記念日に行われたもので、スチュアート専制政治からイングランドを解放したことを慣行にならってとりあげていた。セント・デーヴィッドの司教であった高教会派のサミュエル・ホースリー(Samuel Horsley)の監督のもとで、説教はローマ書13章1節「あらゆる魂をより強気ものに従わせたまえ」にならい、そして国王殺しの悪徳に対する説教となった。ホースリーもリーヴズも、彼らのトーリー的な社会政治思想にもかかわらず、絶対王政への復帰を要求したわけではなかった。トーリー的思想が隠れて生き延びていたおかげで、18世紀ウィッギズムが実際的な社会思想の要素を保持していたことを認めるならば、1790年代と1800年代のトーリズムは代議政府とある程度の宗教的多様性にも親和性があったことを認めなければならない(Clark,1985,p.182,276,408,349-350; Browning,1983,pp.90-6,199; Gunn,1983,pp.177-82,188-189; Hole,1989,pp.160-173)。リーヴズが大逆罪で無罪となった1796年までには、イギリス政体は議会をも含むあらゆる枝葉が王権の幹から正統性と栄養分を引き出しているとするリーヴズの主張は、イングランドの陪審員たちにとって異論のあるものではなかった(Beedell,1993)。

国教会の王党派の根底には、あらゆる地上の政府は神によって任命され、政体の自由は法律(the law)に依存するという信念がある(Hole,1989,1991,pp.31-4)。法律が私有財産を守っているから、王党派たちは自由、財産、および神聖な命令に応じたイギリス政体を正当化できた。このようにフランスで秩序が崩壊したことで、旧来のトーリズムは新たな生命力を獲得した。1795年扇動集合罪(Seditious Meeting Act)を上院で審議している際に、ホースリーは次のように語っている。「どの国でも大半の人が法律をどうすればいいのか知らないが、法律に従っている」(Gunn,1983,pp.184-9; Hole,1989,1991; Morris,1998,pp.62-3)。王党派は何巻にもおよぶフランス史から説教や呼び売り本まで、様々な形態のプロパガンダを用いた。王党派の多様な出版物は急進派の出版を刺激した。その多くが強調したのは、社会の不平等の神聖な性質である。これらが大衆に与えた影響を評価するのは困難である。しかし、借地人、教区民、被雇用者に配布するために、王党派の団体や宗教者や家柄の良い人々が大量に買い込んだことで、それらは広く行き渡った。バークや保守的な著家たちの学説が大衆的に普及した(Dickinson,1989,pp.104-113; Colley,1984,p.98; Vincent,1993; Morris,1998; Gunn,1983,pp.301-306; Wood,1994)。

『省察』はいろいろな読み方ができる。コート派ウイッグの効用と時効にもとづいたイングランド政体の擁護論として、あるいは政府の不毛な啓蒙理論を実現しようとする革命的な試みに対する自然法からの攻撃として、あるいは現代の商業文明の弁明としてである(Courteney,1974,; Sanlis,1958; Dinwiddy,1974b,1978; Macpherson,1980; Browning,1983; Pocock,1985,pp.193-213; Clayes,1989,pp.64-6)。同時代人たちは『省察』をこのように多様に読み取っていた。バークの指示にしたがった王党派は、社会と政府の真の基盤が歴史と便宜のうちにあると主張するフランス啓蒙と自然権を無神論であるとして非難した(Burke,1981-97; Hole,1989,pp.67-72)。急進派による財産権と時効に対する攻撃であるとして自然権の概念を疑うために、王党派の著作家たちはしばしば第一原理に立ち返った。ペインは『人間の権利』の中で、「あらゆる市民権はその基盤として個人に先行する自然権を有している。しかし、それを享受するためには、個人の権力では不十分である」と述べている。

最も洗練された回答は社会契約論者と自然法論者によって書かれた。粗野でない、こうした上品な王党派は全ての政治的、市民的権利が自然から生まれたのではなく、社会成員の必要に応じるという特定の目的のために登場した社会と政府から生まれたと主張した。他のものよりも強かったり、賢かったりする人がいるから、人間は完全に平等で自由ではありえなかった。支配するものとされるものとの契約によってか、あるいは神に由来する自然法によって、服従することが人間に命じられたのである。こうして人間に道徳と市民権が与えられた(Dickinson,1989,pp.106-9)。王党派の社会契約論者も暴政と不正義がある場合には契約が破棄されるという点では急進主義者に同意していた。しかし、謀反家たちが企てる既存の市民権、とりわけ財産権に対する破壊は、最も抑圧的な政府の転覆によって生み出される利益をもってしても引き合わないことを読者たちは知っていた。自然法論者にとっては、神の道徳律に従っているならばいかなる形態であろうともその政府は正統である。彼らはみな人間の自然的な不平等を財産と政治的権力の不平等のうちに祭りあげた。こうして、自然法論者は善悪の絶対的な基準を人間の政治的、社会的組織の多様性と和解させた。法の前の平等は人間の道徳的な平等性を擁護するのに絶対的に必要であったが、それ以外の不平等は容認された。なぜならば、財産は政府の安全にとって必要であり、政府は社会の存在に必要であり、そしてバークが言うように、社会は人間の必要を満たすために形成されたからである(Dickinson,1977,pp.290-318; Schofield,1986,pp.609-622; Clayes,1989,pp.160-4)。

あらゆるキリスト教会が神の慈悲と地上の立法を代理する資格がある。しかし、保守的な王党派は、迷信、偶像崇拝、専制の砦とイギリスで見なされてきたローマ・カトリック教会を長い間、賞賛することを嫌がってきた(Colley,1992,pp.31-40)。したがって、フランスの教会は古代ギリシャとローマの異端宗教と同じようなものと見なされていた。つまり、市民を権威に従わせながら、人々の情念を抑え込ませる政治の道具として見なされていた。もちろん、国教会は人間の情念を抑制させるのにもっとも相応しい合理的なプロテスタントであった。サックが指摘しているように、ラティテューディナリアンのコート派ウィッグは旧来のトーリズム以上に王党派に引かれていた(Sack,1993,p.70)。神聖な権利、キリスト教道徳、絶対服従などではなく、洗練された王党派による歴史、時効、自然法、効用への訴えは、1800年以後に右翼のサークルで支配的になる新しいトーリズムを形成し始めた。バークは合理的な非国教徒を、半分封建的で半分近代的な文明に対する国際的なジャコバンの謀略の一部として攻撃した。しかし、この事例の完全な説明はジョーンズや牧師ロバート・ネアズのような教会人に委ねられた。この二人は、『ブリティッシュ・クリティーク』は三つのリベラルな非国教徒系のレビュー誌である『マンスリー(レビュー)』、『アナリュティカル(レビュー)』、『クリィティカル(レビュー)』に対抗して1793年に創刊された文芸批評紙『ブリティッシュ・クリティーク』の共同創始者であった。大都市での新聞やパンフレットを除けば、1790年代のたいていの王党派の出版物は独立系の王党派や高教会の援助の下にはじめられた。その有名な例外が1798年に創刊された政府に後援された『アンチ・ジャコバン・レビュー』と『マンスリー・マガジン』であった。この両誌は、ジョン・カニング、ウィリアム・ギフォード、J.H.フレールが刊行した、有名であったが短命に終わった『アンチ・ジャコバン』、『ウィークリー・ポリティカル・マガジン』を受け継ぐものであった。『アンチ・ジャコバン・レビュー』では、ジャコビニズムは自由な言論に対するアンチ・テーゼを代表する知的な全体主義の一種として描かれていた(Sack,1993,pp.12-27,38-40)。

「トーリー」と急進主義レビュー誌のいずれもが、幅広い読者を獲得し、1790年代を通じて3000から5000部という発行部数を実現していた。これらのペリオディカルズは新刊本、パンフレットを批評していた。その結果、広範な読者層に同時代の出版物を広める役割を果たした。彼らの多くは出版物を共有したり、貸本屋を利用したりしていた。『アンチ・ジャコバン』と『ブリティッシュ・クリティーク』はそれぞれ1821年と1828年まで刊行が続いた。急進主義も王党派も上品で羽振りの良い読者を持っていた。多くの聖職者とパンフレット作家は大衆的な読者のために書こうとしていたけれども、ペインや大衆的な急進主義を凌駕することはほとんどなかった(Hole,1983; Clayes,1989,pp.146-152)。ジョーンズが書いた有名なジョン・ブルの冊子は人々の文化、言語、ライフスタイルに精通していた。しかし、ウィリアム・ペイリーの『足ることを知る理性:職人への呼びかけ Reasons for Contentment 』(1792)は、表面的には大衆向けの作品となっていたけれども、全くそうではなかった(Hole,1983,pp.53-63; Dinwiddy,1991,pp.42-44)。

ペイリーの『道徳哲学原理』(1785)は、イギリス政体を擁護する厳格なコート・ウィッグに与する多くの王党派によって知識の源とされた(Christie,1984,pp.160-4)。バークの『省察』と同じように、『道徳哲学』はブリテンの統治制度の発生と基礎付ける原理を説明するために歴史と便宜を引き合いに出した。『省察』とは異なって、『道徳哲学』は王党派の著作家がほとんど支持することのない保守的な功利主義をはっきりと述べている。彼らが功利を議論に用いる時には、歴史と権利の急進的な見解を疑うために用いられる常識的な反知性主義を表していた(Paley,1819,i,pp.398-443; Sack,1993,pp.38-9; Claeys,1989,pp.90-1)。

ベンサムの『政府論断章』(1776)は功利の原理を「最大多数の最大幸福」と定めた。これは2世紀にわたって節操もなく引用された。快楽と苦痛の総和によって善と悪を評価する価値の体系とする方が、はるかに正確に功利主義を規定することができる。「神学的功利主義」は18世紀の第四四半期を通じてキリスト教と啓蒙の中庸を探ろうとしたケンブリッジ中道派の産物である。それは1810年代にベンサムの科学的あるいは世俗的な功利主義が現れるまでは、信条の支配的な形態であった(Schofield,1986,pp.605-9)。ペイリー、リチャード・フェイそれにグラスゴー大学の道徳哲学の教授であったアダム・ファーガソンによれば、快楽を求め、苦痛を避け、そして欲望と必要が彼の個人的かつ共同的な幸福を守るべき法律と権利を生み出す社会の中で生きるように人間が創られている。自由(liberty)を他人の自由と幸福に対する侵犯がない限り自分の欲求を自由に追及する市民に与えられた権利としてではなく、すべての王党派功利主義者、社会契約、自然法論者は義務を与える責任という否定的な言葉で自由を定義した。ベンサムとペイリーが採用した「幸福計算 felicific calculus」は、「公共の幸福により大きな貢献をなすもの以外には、いかなる法律によっても制限されないもの」として市民的自由を定義することによって、共同体の善と個人の自由(freedom)とのバランスを図った(Paley,1819,i,pp.392-3)。

功利の原理の中心にあったのは、公共の福祉の定義は時代によって変化するものであり、現時点ではある個人は他人よりも寛容であるという信念である。バークは組織が変化することを認めていた。にもかかわらず、自然法、すなわち一連の変わることのない道徳的標準を、功利の究極的な基礎と認識していた(Stanlis,1958,p.73; Dinwiddy,1974b,1978)。狩猟法、救貧法、および「カトリックと非国教徒に不利な法律」の妥当性と正義を疑問視していたペイリーも、本心ではキリスト教的な家長主義者であった(1819,i,p.393)。ベンサムが「竹馬 sitlts の上のナンセンス」と評したように、あらゆる権利は社会的な必要から生まれるがゆえに、功利主義者はみな自然法を否定した。選挙権は「公共の功利に役立つ限りでは権利である。つまり、それが良い法律の制定に役立つ限りで、あるいはそうした法律の正しい管理を人々に保障する限りにおいてである。もし最も適切な人が選ばれるのであれば、誰によって選ばれるかは重要ではない」(1819,i,pp.433-4; Gascoigne,1989,pp.241-2; Claeys,1989,pp.91-3,150; Rosen,1992,pp.26-39)。これらの見解にもかかわらず、ペイリーはアングリカンの知的な配置図の中では最左翼に位置する。そんために『道徳哲学原理』は福音主義アングリカンや『アンチ・ジャコバン・レビュー』やS.T.コールリッジから批判された(Hole,1989,pp.73-82; Hilton,1988,pp.4-5,170-9)。

アレヴィが指摘しているように、ペイリーが地獄を信じているということを除けば、同時代人たちはベンサムとペイリーの違いをほとんど意識していなかった。イギリスの政体は完全でないと認めたにもかかわらず、現世における人間の幸福を増進させ、来世の永遠の救済を実現する神の飴と鞭のシステムをイギリス政体が最もよく体現しているとペイリーは主張した。無神論へと向かいつつあったベンサムは、現世における人間の行動を形成する動機付けのシステムを考案しようとした。『立法の原理と道徳』1785年は、悪意の結果や不注意の自己利益から社会を保護しながら、理想的な刑法の体系が幸福の追求のための機会を最大化させる原理を提示した。1795年から1805年にわたってパノプティコン刑務所計画およびそれに付随する計画のための、国家からの財源を確保する無駄な努力を費やした。その後、イギリス政府と政体に幻滅したベンサムは、急進主義と議会改革に専心する。野党ウィッグに引き付けられ、『議会改革カテキズム』1809年を執筆する。この原稿は1817年に『議会改革計画』として刊行される。これは統治者と被統治者との利害を一致させるベンサムのシステムを描いたものである。すなわち、個人と集団の欲望を集めたものである、最大多数の最大幸福を最もよく実現するのが、有能で能力主義にもとづいた制度とされた(Dinwiddy,1986,pp.14-15; Crimmins,1994)。偽名で刊行された、『国教会とカテキズムの検討』(1818)と『パウロではなくジーザス』(1823)は国教会の教義と活動に対する厳しい攻撃であった(Dinwiddy,1975)。

王党派功利主義者は通常の読者の利己心に訴えかけることを気にかけなかった。なぜならば、幸福を求める人間の欲求が社会の発展を促す原動力であると彼らは考えていたからである。ペイリーの『イギリス政体と合致する平等』(1793)では、勤勉と社会的な上昇によってハノーヴァー朝イギリスに備わっている土地と政治的権利の両方をイギリス人に与えると指摘している。「一週間に5日か6日に働くことで、投票権を獲得できる十分な金を手に入れることができるだろう」(1793a,5)。この点でペイリーは他の王党派とは異なっている。彼らは公式の理論的な言葉を用いて利己心を潤色することがなかたし、ましてや経済的、社会的な上昇が下層階級の適切な目的であると認めることなどなかった。この原理を極端に言ってしまえば、厳格な身分秩序のある社会を転覆しかねなかった。抽象的な理論を嫌ったアーサー・ヤングは、ヨーロッパで最高の生活水準を人々が守るべきことを語るだけであった(Young,1793,pp.3-4)。

功利の原理の中心にあったのは、公共の福祉の定義は時代によって変化するものであり、現時点ではある個人は他人よりも寛容であるという信念である。バークは組織が変化することを認めていた。にもかかわらず、自然法、すなわち一連の変わることのない道徳的標準を、功利の究極的な基礎と認識していた(Stanlis,1958,p.73; Dinwiddy,1974b,1978)。狩猟法、救貧法、および「カトリックと非国教徒に不利な法律」の妥当性と正義を疑問視していたペイリーも、本心ではキリスト教的な家長主義者であった(1819,i,p.393)。ベンサムが「竹馬 sitlts の上のナンセンス」と評したように、あらゆる権利は社会的な必要から生まれるがゆえに、功利主義者はみな自然法を否定した。選挙権は「公共の功利に役立つ限りでは権利である。つまり、それが良い法律の制定に役立つ限りで、あるいはそうした法律の正しい管理を人々に保障する限りにおいてである。もし最も適切な人が選ばれるのであれば、誰によって選ばれるかは重要ではない」(1819,i,pp.433-4; Gascoigne,1989,pp.241-2; Claeys,1989,pp.91-3,150; Rosen,1992,pp.26-39)。これらの見解にもかかわらず、ペイリーはアングリカンの知的な配置図の中では最左翼に位置する。そんために『道徳哲学原理』は福音主義アングリカンや『アンチ・ジャコバン・レビュー』やS.T.コールリッジから批判された(Hole,1989,pp.73-82; Hilton,1988,pp.4-5,170-9)。

アレヴィが指摘しているように、ペイリーが地獄を信じているということを除けば、同時代人たちはベンサムとペイリーの違いをほとんど意識していなかった。イギリスの政体は完全でないと認めたにもかかわらず、現世における人間の幸福を増進させ、来世の永遠の救済を実現する神の飴と鞭のシステムをイギリス政体が最もよく体現しているとペイリーは主張した。無神論へと向かいつつあったベンサムは、現世における人間の行動を形成する動機付けのシステムを考案しようとした。『立法の原理と道徳』1785年は、悪意の結果や不注意の自己利益から社会を保護しながら、理想的な刑法の体系が幸福の追求のための機会を最大化させる原理を提示した。1795年から1805年にわたってパノプティコン刑務所計画およびそれに付随する計画のための、国家からの財源を確保する無駄な努力を費やした。その後、イギリス政府と政体に幻滅したベンサムは、急進主義と議会改革に専心する。野党ウィッグに引き付けられ、『議会改革カテキズム』1809年を執筆する。この原稿は1817年に『議会改革計画』として刊行される。これは統治者と被統治者との利害を一致させるベンサムのシステムを描いたものである。すなわち、個人と集団の欲望を集めたものである、最大多数の最大幸福を最もよく実現するのが、有能で能力主義にもとづいた制度とされた(Dinwiddy,1986,pp.14-15; Crimmins,1994)。偽名で刊行された、『国教会とカテキズムの検討』(1818)と『パウロではなくジーザス』(1823)は国教会の教義と活動に対する厳しい攻撃であった(Dinwiddy,1975)。

王党派功利主義者は通常の読者の利己心に訴えかけることを気にかけなかった。なぜならば、幸福を求める人間の欲求が社会の発展を促す原動力であると彼らは考えていたからである。ペイリーの『イギリス政体と合致する平等』(1793)では、勤勉と社会的な上昇によってハノーヴァー朝イギリスに備わっている土地と政治的権利の両方をイギリス人に与えると指摘している。「一週間に5日か6日に働くことで、投票権を獲得できる十分な金を手に入れることができるだろう」(1793a,5)。この点でペイリーは他の王党派とは異なっている。彼らは公式の理論的な言葉を用いて利己心を潤色することがなかたし、ましてや経済的、社会的な上昇が下層階級の適切な目的であると認めることなどなかった。この原理を極端に言ってしまえば、厳格な身分秩序のある社会を転覆しかねなかった。抽象的な理論を嫌ったアーサー・ヤングは、ヨーロッパで最高の生活水準を人々が守るべきことを語るだけであった(Young,1793,pp.3-4)。

キリスト教の原理に即している限りでは、自己改善は下層階級にとって適切であった。そのためにたいていの王党派は、浅ましい強欲をあらゆる道徳的な命令よりも上位に置いているように思われたスコットランドの経済学に対して態度が曖昧であり、かすかな敵意を持っていた。ウィリアム・ジョーンズは「スミス博士は国富を国民の幸福と等しいとする仮定の上であらゆる推論を行ったようだ」と書いた(1793,p.40)。社会的、政治的発展を説明しようとした啓蒙思想の一つである古典派経済学を、人間の関係を非人格的な不平等へと還元しようとする陰気な科学と見なした1790年代の多くの王党派によって退けられた(Hilton,1988,p.50; Sack,1993,pp.180-3)。マルサスがキリスト教的な正統性を与えるまで、王党派はあらゆる市場の学説を根底から疑っていた。その時、経済学は二つの学派に引き裂かれた。一つは、スコティッシュ、すなわち古典派に、もう一つはイングランドのキリスト教の伝統へと。啓蒙化された利己心の福音主義的な解釈は、自愛と所有的個人主義についてのイングランドの思想を支配した。自愛と所有的個人主義は1840年までアングロ・アメリカ自由主義の伝統の聖域であり、ウイッグ、トーリー、リベラルズそして中間派を通じて、富、商業、自由企業、産業についての19世紀のイギリスの論争を特徴付けることになるだろう(Mandler,1990b,pp.84-5,94-5)。

2−3 商業と近代性のディスコース

対仏戦争の期間を経て存続した啓蒙の思考様式は経済学の中に容易に跡づけることができる。それは商業社会における道徳的、政治的、文化的、経済的条件を説明し、適切な政策を通じて社会の発展を容易にするという二つの目的を持っていた。この二つの目的を総合したものが、古代から西洋の商業文明への勃興を説明することであった(Hont and Ignatief; Collini,Burrow and Winch; Pocock)。これはリベラル、保守、中間派のいずれも同意できた。その結果、1820年までに議員も著作家も議会や出版物の中で互いにスミスの弟子を主張するものとして向き合うことになった。

1790年に没したスミスは、対抗しあっている彼の弟子たちに裁定を下すことはできなかった。『国富論』や『道徳感情論』を執筆している時、市場における需要と供給の相互作用だけではなく、物々交換の世界を規制する社会的慣習も概念化した。今日でも、自由市場経済学の父、歴史的社会的な人類学者、道徳哲学者、ウィッグの政治理論家といった多様な読み方がスミスの場合には可能である(Robertson,1983a,1983b)。スミスの世界は拝金主義が支配している不道徳な場ではない。むしろ、慈悲と利己心が相互に補完しあう場なのである(Winch,1983a,1992)。スミスの「立法者の科学」を含む、死の直前にわずかに改定された『道徳感情論』第5篇は、フランス革命に対する不承認を表明したものとして読まれてきた。理論ではなくむしろ便宜に従う「原理の人 man of principle」にスミスは味方して、社会的なコストを無視して抽象的な教義それ自体を追求する教義の奴隷である「計画の人」をあざ笑った。極端な凶作に続いて私的、公的部門で穀物を貯蔵させようとする干渉政策の導入を説明するために、ピットは1799年にこの議論を採用した。この政策を厳格な放任主義に執着していたグレンヴィルが批判していた(PR,1799,xiii,pp.47-8)。

スコットランドの経済学は商業をヨーロッパの歴史における文明化と発展の要因と見なしていた。ペインにとって、人々のあらゆる種類の期待が高まりさえすれば、アメリカとフランスの革命が近代の商業の進歩にともなうことは可能であった。『人間の権利』第二部では、7年以内に革命の時代がヨーロッパ全体を飲み込むであろうと予想されていた。というのは、ヨーロッパ社会が代議制政府を導入するのにふさわしい知的、文化的、社会的発展を遂げたと考えたからである。こうしたフランス革命の捉え方は、多くのイギリスの急進主義者やジェームズ・マッキントッシュも抱いていた。マッキントッシュの『フランスの擁護』(1791)が強く支持していたのは、ペイン、フランス、古代から商業社会に到る歴史の4段階発展モデルであった(Mackintosh,1791; McKenzie,1986)。18世紀を通じて、この発展パラダイムと結びついていたのは、富裕で力強い社会がもたらす腐敗と道徳的衰退に対する警戒心を抱いていた批判的なカントリー・パーティーの意識であった。イギリスの啓蒙思想家たちは、古代文明の崩壊をもたらした退廃と自己満足という悪魔に脅えていた。そしてアメリカ革命の余波の中で、ギボンの『ローマ帝国の没落』は読者に社会の進歩が有限であることを思い起こさせていた(Hont and Ignatief,1983; Pocock,1985,pp.486-7)。

1790年代を通じてスコットランド啓蒙の社会、政治理論に対する同意は穏健派、リベラル、急進派に限られていたわけではない。デビッド・ヒュームの思想がコート・ウィッグの主流に入り込めたのもそのおかげである。バークとペイリーは、『イギリス史』や『知性論』、『道徳政治論』に表明されていた歴史、政治、社会、政府に関するヒューム独自の思想を特徴付ける批判的な懐疑主義をそれほど含ませずに、ヒュームが唱えた保守的な名誉革命の擁護論を繰りかえした(Forbes,1970,1976; Burrow,1988,pp.54-6)。ヒュームの皮肉と不信心は、体制の欠点を認めようとしない1790年代の王党派にとっては好ましくない伝統であった。そのために、『ブリティッシュ・クリテーク British Critic』は若者の教育のために、短縮された簡約版だけを公認していた。

王党派の経済学者はフランス革命を車輪の逆転と見なしていた。ギボンとバークの目にはヨーロッパを野蛮と貧困に戻すものと映った。1796年までにマッキントッシュは王党派の陣営に加わっていた。マッキントッシュは政治的な指向としては野党ウィッグにとどまっていたけれども、自らの著作 Vindicae Gallicae についてバークに謝罪した〔参考BBC〕。王党派の著作家は政府よりも体制の擁護者であった。1796年までにバークはピットに幻滅した。ベンサムは庇護者シェルバーンと同様に、首相を信用しなかった。一方ペイリーは大臣とその仲間たちへの軽蔑を表明していた。バークによれば、近代文明とそれが持っている自由と財産の概念は、君主制や貴族性やキリスト教信仰のような中世の封建制の諸価値の上に築かれたものであった(Pocock,1985,pp.199-210)。商業的な近代が封建制を破壊する歴史的なプロセスの一つとしてフランス革命を分析するこうしたやり方を、商業ウィッグ、とりわけマッキントッシュは賛成しなかった。ピット系ジャーナリストのウィリアム・プレイフェアはバークのゴシック・ファンタジーを馬鹿にし、革命の主要な原因がアンシャン・レジーム期のフランスに蔓延していた財産の不平等であることを主張した(Playfair,1796,p.27; 1805; McKenzie,1986; Hampsher-Monk,1991; Pocock,1985; Walsh,1995; Claeys,1989,pp.153-7,1990)。これらの著作家たちはペインの探求に知的な矛盾を見出だしていた。ペインは近代の商業文明に、狩猟時代の自然権、そしておそらくはその時代の貧困と無政府状態を復活させようとした。このように、自然権と無政府状態を等置させること、および財産の完全な平等というのは1790年代に王党派の議論に共通していたが、ペインの主張を誤解している(Vincent,1998,pp.74-75)。

スパルタ式かアボリジニ式の完全な平等が自然権原理の必然的な結果であると主張することで、商業ウィッグ王党派たちは経済的、社会的な不平等を積極的に擁護することができた。豊かな社会はその定義からして平等主義ではなかった。しかし、商業、製造業、技芸の多様性は、私有財産の保護の最初の制度である法律と政府を通じて全市民に生活、自由、生計の保護を与える。ペインの批判家たちが指摘したように、アメリカはヨーロッパとの比較に相応しくない国である。なぜならば、比較的財産は平等であるし、人口密度が低く、社会階層がないために犯罪、悪徳、貧困がない社会を作り出しているからである。多くの商業ウィッグは、アメリカも成熟してしまえばヨーロッパ同様に腐敗し衰えていくと推測した(Claeys,1989,pp.155-9,1990,pp.62-3,77)。

歴史、談話、普遍的な自然権への傾倒と結びついた急進派が、彼らの理想の社会は近代の安楽を否定するものであるという、商業ウィッグ王党派による非難に打ち勝つのは困難であった。ましてや、商業ウィッグによる革命がフランス経済を破壊したとする非難には勝てなかった。これこそ革命とナポレオンのフランスに反対するピットの支柱であった。ペインやスペンス、オグリビーらは商業の発展を彼らの計画に組み込もうとしたけれども、急進派のノスタルジアは市場経済の慣習や機械を投げ捨てる農民の黄金時代を思い描いた。スペンスとオグリビーの土地改革構想は完全な自由放任のもとで労働者に土地か製造業のどちらかの選択を与えた。他方で、『人間の権利』や『土地の正義』に書かれたペインの福祉構想では、普通教育、老齢年金、財産の不平等がある場合の保障支払いを含んでいた。こうした構想は自然権と商業的発展とを和解させる試みであった。『土地の正義』では、利益の思慮深い再分配を通じて財産権を保護していた。『人間の権利』第二部では、商業的啓蒙の道具とその犠牲者に対するセーフティー・ネットの両方が構想されている(Caeys,1987,pp.23-4,26,1989,pp.96-101; Dinwiddy,1976,pp.266-9,1991b,pp.40-1; Horne,1991,pp.237-8; Cunliffe,1994,pp.544-7,551-2)。

しかし、商業文明はチャールズ・ホールのような急進理論にも敵を持っていた。ホールの『ヨーロッパの人々への文明の影響』(1805年)は人々の間に土地の分割を推奨していた。「文明国家の最大の現象は財産の不平等である」(Hall,1805,pp.157-8)とホールは主張した。大衆的な急進主義者たちは自由の急進的な概念と市場経済における不平等の現実とを和解させることができなかった。ホールはしばしば労働搾取論を構築するためにスミスとマルサスの自由放任を利用した初期社会主義者と描かれてきた。しかし、実際は商業文明の安楽を退けた古いスタイルの急進主義者であった。セルウォール(Thelwall)だけがスミスの労働価値説を採り入れた。労働者の財産は国富を維持する労働の中にあるから、彼らこそ国事に口をはさむ権利を持っている(Claeys,1987,pp.29-30,1994,pp.263-74)。財産に根拠をもっていた自由を擁護する議論は、たいていの急進派からひどく嫌われていた。彼らは市民を正当化するものとして理性、正義、自然権を好んでいた。イギリスの大衆的急進主義が抱いていた土地の平等への信仰は1848年のチャーティストの土地計画に再び現れ、19世紀半ばまでにははっきりとしてきた商業資本主義を拒否した証拠となる。オーエンの『新社会観』は資本家と労働者との利害を同一のものと見ており、製造業で生産に携わった労働者と成果を分配しようとする協同組合社会主義と同じものとしている点で、例外的である。オーエンにとって歴史は可逆的なものではなかった(Claeys,1981,p.317,1987,pp.34-48; Hont and Ignatief,1983,pp.1-43)。

マルサス『人口論』第2版において、神学的功利主義は財産に対する急進的な攻撃を退け、そして、1820年代のリベラル・トーリズムを特徴付けるキリスト教自由市場思考の学派を形成するように、経済学を適合させた。マルサスはしばしばトーリーとして描かれてきた。なぜならば、『人口論』は土地、私有財産、社会経済的不平等を擁護したからである。マルサスは反ユートピア主義であったが、反動でもなければトーリーでもなかった。社会が指数的に成長できないという理由で、『人口論』はゴドウィンの完全性が支持しえないことを大まかに示したにすぎないのである。

『人口論』初版はゴドウィンの利己心に対する理性と慈悲の勝利への信念への論駁を試みたものである。その唯物論的な心理学では、人間精神は悪を避けるものとして描かれ、同時に稀少性が勤労と社会的流動性(social mobility)への刺激とされていた。急進的なユニテリアンは国教会の聖職者からの異端として印象付けられている。しかし、リベラル・アングリカンも、キリスト教の信仰の教えと矛盾するだけでなく、大衆の救済という予言において神の賢明さと慈悲と万能を否定していたために警戒されていた。第2版では経済学を好む友人からの勧めで神学章が削除された(James,1979,pp.116-21, Pullen,1981, Hilton,1988,pp.74-5, Waterman,1991,pp.90-1)。

富の増加が自動的に人々にとって利益をもたらさないと示唆している点で、マルサスはスミスや商業ウィッグ王党派とは異なる。食糧供給を伴わない人口増加があれば、賃金と雇用機会が減りながら、価格は上昇するだろう。両方とも増大するとすれば、競争的な市場は人口、食糧、他の資源の間で均衡に達するように土地、労働、資本の収益を最大化する社会経済的な機構である。人間の歴史は前進としてではなく、相互に関連している需要と供給の形態間での振動の状態として特徴付けられる。『人口論』初版は、人間の中で変ることのない性的情念が予防的妨げによってしか避けられない人口過剰を生み出すであろうことを予言した(Malthus,1992,pp.25-9; Waterman,1991,pp.51-7)。

ペイリーの『自然神学』(1802)から引き出された心理学、神学、歴史についての功利主義的な視角を取り入れたことで、『人口論』第2版はだいぶ陰鬱でなくなった。情念と理性を人間に与えた神は、悪徳と害悪の誘惑に直面することで理性が情念を乗り越えることを意図していた。現世は来世のための試練であるから、貧困と不平等を生み出す市場経済における道徳的な戦いは来世のための魂の準備となっている。自由市場を支配する、一見したところ冷酷な法則は、自愛、理性、慈悲の間の諸関係を持つがゆえに、キリスト教的な視角の中に位置づけられた。晩婚と性的な節制を通じて人口成長は抑制され、貧民の安全とより大きな富を生産することになる(Hilton,1988,pp.220-3; Waterman,1991,pp.137-50,258; Winch,1996; Heavner,1996,pp.419-29)。

商業ウィッグが歩みつつあったジャコバン主義と、20世紀の学者がしばしばトーリズムと揶揄した主流の王党派保守主義との間の道をマルサスは完成させた。マルサスの貧困と飢餓に対する懸念は何人かの急進主義者の心に刻み込まれた。その一人がプレイスである。リベラルと福音主義アングリカンはレッセフェールを受け入れた。それは貧困と困窮を新しい終末論の次元に置くだけでなく、人間の状態への改善を生み出しうるいかなる干渉も否定した(Hilton,1988,ch.2)。マルサスは徳の高い利己心を教え込む公教育の導入を要求した。しかし、自制を促すために旧救貧法の廃棄も主張した。困難なときに貧民に施しを保障することで出生を助長しないがゆえに、アド・ホックな個人的慈善だけが容認しうる救済であった。1815年にマルサスは農業の利害こそがイギリスの富と将来の繁栄の基盤であるという理由で穀物法を擁護した。製造業と商業は土地以上に資本を引き付ける魅力があると懸念していたのである。マルサスは工業都市の貧困に唖然とした。他の商業ウィッグと同じ言葉で富、奢侈、商業を擁護しているから、商業的進歩を適していたわけではないが、製造業に対しては一部分敵意を持っていた(Malthus,1992,pp.133-5)。

『人口論』は1810年代から1820年代にかけて絶えず改定されてきた。マルサスは急進派、リベラル、保守の批判に答える必要を感じていたからである。政治的な観点からはマルサスをある種のウイッグとするのが最も適当である。なぜならば、ハノーヴァー朝の君主に対しては現状を擁護しながら、ピット政府に対す公然とした支持を表明しなかったからである。1796年の『危機』でマルサスは恣意的な政府に対して自由を擁護して腐敗に毅然と立ち向かうことをイギリス人に呼びかけた。『人口論』第5版ではイギリス政府が「この25年間に自由と平和をそれほど希求してこなかった」と振り返っている。マルサスはカトリック解放と穏健な政体改革を支持している点で、王党派の主流からは外れている(James,1979,pp.50-1,140-1,153-4,234,422; Winch,1983c,pp.75-7)。

19世紀の最初の20年の間で古典派経済学とクリスチャン・ポリティカル・エコノミーとの間に線引きをするのは人為的である(Hilton,1988,pp.36-8)。リカードウは人口論と収穫逓減を『原理』の中心においた。地代は人口の増加につれて限界費用と歩調を合わせて増大することになる。もし人口が急速に増大しすぎると、賃金は生存水準にまで低下し、食糧価格は上昇し、製造品に対する需要は低下し、利潤は低下する。そして土地と製造業の両方への投資が低下する。リカードウは商品の国内価値は需要と供給によってではなく、生産に必要な費用で決まるとした。賃金は必需品の費用によって決まり、それを劇的に越えることはない。利潤は賃金と逆に変動する。リカードウの予想はマルサスほど悲観的ではない。もし、不効率な農業を放棄するのであれば、穀物法の撤廃は、蓄積を促す租税政策と合わさることで、そして産児制限の普及があるとして、人口増加と生活水準の上昇は両立するであろう。農業を犠牲にした製造業への資本蓄積を促進しようとするリカードウを警戒して、マルサスはリカードウに警告した(Winch,1983c,pp.73-5)。

マルサスとリカードウは経済学の共通のトピックの論争に参加していたにもかかわらず、関心と方法においてスミスの異なる側面を代表している。リカードウにとって、経済学の研究はそれが健全な市場の成長を促進する限りで政治的である。課税と通貨管理に関心があったにもかかわらず、リカードウは「数学のような厳密科学」として見ていたので(Ricardo,vol.8,p.331)、経済学を政治理論から切り離した。リカードウの主な関心は市場の長期的な傾向にあり、他方マルサスは経済学を「立法者の科学」として見ていた。そのために短期的な変動と経済原理の実用的な事例に関心を払った。マルサスは論理や科学ではなく、正義、徳と幸福のより高い格率に訴えた。社会科学としての経済学の専門化は近づき難くなった多くの同時代人から嘆かれた(Winch,1996; Cremasci and Dascal,1996)。

スコットランド啓蒙の政治科学の伝統はデュガルド・ステュアートによってエジンバラ大学の中で生きていた。ステュアートはスミスのかつての同僚で遺言執行者であった。1799年から1809年にかけてのスチュアートの経済学に関連する講義は、フランシス・ホーナー、フランシス・ジェフリー、ヘンリー・ブルーム、シドニー・スミスに影響を与えた。彼らは1802年に創刊されたリベラルな雑誌『エジンバラ・レビュー』の創設者であった。スチュアートは経済学を幅広い学問とし続けた責任の一端を負っている。経済学が富と人口の二つの主題からなっていると考えていた卒業生たちは驚き、歴史学から形而上学までの講義に出席した(Clive,1957,pp.p25-6; Chitnis,1976,pp.160-1,175-6,1986,pp.20-7;Winch,1983a; Fontana,1985,ch.1; Hilton,1988,pp.38-40)。

マッキントッシュ同様にステュアートは1792年にフランス革命に反対した。1790年代の王党派と一緒に啓蒙が持っている不毛な、懐疑的で、不信心な特徴を嘆きながらも、スチュアートはゴドウィンよりもむしろコンドルセから受け継いだ、合理的な利己心は粗野な情念に勝利するという信念を持っていた。商業的発展の途上には落とし穴があるとする認識によって、人間社会の完成可能性に対する信念は限定されていた。ステュアートはマルサスの人口論へと早くに転向した(Stewart,vol.2,pp.231-40,vol.7,pp.203-7)。しかし、ステュアートは、それ自体が商業的発展の原動力であり特徴である啓蒙が依拠しているのが、マルサスが依然として当てにしていたシヴィック・ヴァーチューを責任のある市民(responsible citizenship)で置き換えるために、公衆の合理的な世論を生み出す出版の自由と消費者主義との広まりであることを主張していた。啓発された公衆の出現が必然化したのは、「いかなる形態の政府のもとでも社会の秩序を規制する正義と便宜の普遍的な原理」の探求と採用とであった(Stewart,vol.2,pp.309-13; Chitnis,1976,pp.218-20; Burrow,1988,pp.67-8)。

『エジンバラ・レビュー』は教養のある読者向けのリベラルな雑誌として、古いディセンター系の『マンスリー・レビュー』と『クリティカル・レビュー』にとって代わった。最初は750人の購読者から出発したが、1814年までには13000部に達していた。1807年に『エジンバラ』は公然と野党ウイッグの側に立った。そうした関係は30年間ほど続いた。そして1809年に創刊されたカニング派の『クォータリー・レビュー』がその影響力を競った(Chitnis,1976,pp.213-26; Cookson,1982,pp.84-114; Sack,1987,p.626)。政党政治とリベラルな精神との結びつきは、レビューワーと野党指導者の精神の出会いによって生み出されたのではない。ピット派のグレンヴィルのような例外を別とすれば、経済学に関心を抱いていた人間はほとんどいなかったのである。しかしながら、高貴な科学の主要な実践的な目的−−すなわち世論の政治的国家への平和的な統合−−は、反動的なトーリーよりも穏健な改革派ウィッグと共同することで達成されるであろうとレビューワーは信じていた(Clive,1957,p.125,127; Winch,1983a,pp.44-57; Fontana,1985,pp.112-114,117-8,127-8,135-7)。政府の中に経済学の愛好者がいなかったわけではない。しかし、ヴァンシッタートが「宗教と道徳のより高度な真理」と呼んでいたものにつき従うことは、改革の展望を妨げることになった。それぞれ1806年と1809年に議員となり野党の席に着いたブルームとホーナーは、戦争支出、所得税、穀物法、東インド会社の独占、紙券を、人々の財産と自由に対する政府の圧政の道具であるとして痛烈に批判した。

『エジンバラ・レビュー』とウィッグとが便宜的に結合するためには編集者の側に妥協が要求された。ステュアートや弟子たちは国教会を粗野な偏見を永続させる社会統制の機関として見ていたが、国教会を批判する記事は退けられた。レビューワーたちはマルサスとペイリーの自然神学にも、その対局に位置するベンサムの世俗的功利主義にもほとんど関心を払わなかった。しかし、神学的功利主義、世俗的功利主義、いずれも経済学および社会の進歩と歴史についての経済学的な見方に反対した。キリスト教の教義から、あるいは経験的な観察に由来する原理から正当化される自由市場は、最大の選択の自由を最大多数の人々に与える(Hilton,1977,1988,pp.32-3; Waterman,1991)。自然法に対する急進派の信頼とロマン主義的な保守主義に向かう王党派の動きはともに、経済学と功利主義の両方を不毛で、冷淡で、異論のあるものと見ていた。

2−4 ラディカル・トーリズムとロマン主義的保守主義

1810年代の急進派の印刷文化は1790年代とは明確に異なっている。両方とも18世紀のカントリー政党に根ざしていたが、19世紀の最初の10年間に大衆的な急進主義に対する知的な影響は弱まるどころか強まっていた。急進派の古い秩序に対する攻撃が一般的なものから個別的なものへと、すなわち革命と戦争の期間にイギリスを支配していた政府の政策と政治家へと移っていくにつれて、コスモポリタン啓蒙は土着のあるいは同時代のリベラル派からの借り物に味方することで取り残されていった。

急進派の手の中で、自然法学は完全に経済学と敵対していた。ヒュームは財政赤字、帝国の出費、宮廷の腐敗を中世以来ヨーロッパが経験してきた発展と成長を逆転させるかもしれない原因としてあげていた。急進派のジャーナリストはこれらにつけこんで、ブリテンの政体と繁栄がフランスに勝利したとする政府と商業ウィッグの主張の攻撃に利用した。ペインの『イギリス財政の衰退』(1796)は差し迫った国家破綻の恐怖を騒ぎ立てた。この冊子が繰り返し増刷されたことは、古い腐敗は自らを崩壊させる原因を自らの中に含んでいるという急進派の確信の強さを証明していた。すなわち、制御不能な財政赤字は結局のところ古い秩序を倒すであろう。財政赤字、租税、商業的拡張、紙券、帝国の拡張と結びついた快楽の追求の体系がイギリスの政治と政策の中で生きていると急進派は主張した。こういった関心にマルサスの悲観主義が加わった。それは無限の成長の可能性を信じるピット政府と『エジンバラ・レビュー』の信念を攻撃するのに使われた。

急進派が抱いていた完成可能性の信念は、戦後の経済恐慌によって1816年までには瓦解していた。コベット、ウーラー、ウィリアム・ホーン(William Hone)とリチャード・カーライルにとって、財政赤字と紙券は、貧民の困窮が暴露している繁栄の幻想を生みだすように国家が経済を操作するための道具に他ならなかった。実質的な経済成長ではなくインフレーションが見かけの国富の増加を生み出した原因であると急進派は考えていた。それゆえ、どんなポリティカル・エコノミーも、急進派のジャーナリストが損失計算を行う「ゼロサム・ゲーム」であった。累積する赤字は過酷な税金を必要とした。税金を権威づけているのは代議制を欺瞞的なものにしている不正な選挙で選ばれた議員たちであった。財政赤字そのものはロンドンの貨幣市場を支えるのに必要であった。そこでは、公的、私的債務が銀行、商人、ブローカーの債権取引となっており、財政赤字は貨幣利害、商業利害を腐敗した議会や政府と結びつけた。この相互関係によって、帝国の植民地と貿易を守るために軍事支出を増大させ、それに伴う赤字の増大を必然化する帝国的商業的拡張に4者が関与したことを説明している。この自己完結的なシステムは、それを支える土地と労働の能力を上回るときに、自ら瓦解する運命にあった(Gilmartin,1996,p.1-64; Cookson,1982,pp.37-42; Thompson,1984,pp.191-3; Horne,1991,pp.216-37; Spence,1996,pp.182-7)。

【以下省略】