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フランス革命期のイギリス 1785-1820年 第4章

Jennifer Mori, Britain in the Age of the French Revolution 1785-1820, Longman, 2000.  

第2章

4 個人と制度
4−3 ポーパリズムと貧困
4−4 宗教と社会

4−3 ポーパリズムと貧困

旧救貧法は中央集権化されていない地方政府の枠組の中で機能していた。それは対仏戦争の間は未支給の教区役員(parish officials)に依存していた。救貧法改正の要求は1790年代と1810年代にあったが、それは1770年代からずっと庶民院で語られており、新しいものではなかった。旧救貧法は1776年までには年間で150万ポンドに達していて負担と感じられていた。また都市でも田舎でも非効率なものと見なされていた。議員たちは増加しつつある雇用不足の背後にある諸力にほとんど気づかなかったが、貧困が増大していることは認識していた。1760年代以降、農村での囲い込みは田園(rural)プロレタリアートを生み出していた。他方、工業都市にせよそうでないにせよ、都市部は教区を人口過剰にしつつあった。地方税納付者の割合は、多くの場合、貧民救済を要求する者に対して低下していた。1760年代以降、常に人口の10パーセントは救済を受けていた。対仏戦争期においては、例えば1801年は40パーセントへと跳ね上がった(Hay,1982,pp.131-3)。

18世紀の前半に多くの田舎の教区ではワークハウスの実験を行った。それを雇用センターとしたり、高齢者や労働不能者の住居とする実験である。1782年のギルバート法は隣接する教区がワークハウスの建設を目的として正式な統合なしで連合できることを許可した。それ以前のワークハウスは犯罪と貧困に効果的に対処できていないと厳しく非難されていたし、ワークハウスを建設できる資金を持っていた教区も数少なかった。対仏戦争期にワークハウス建設や「院内給付」支出はほとんどなかった。はるかに多くの田舎の教区が「院外給付」に依存していた。具体的には、年金、ある種の救済、所得補助であった。これらが最も安くかつ効果的な援助の形態であった。1793年から1815年の間にはわずか3回しか豊作はなく、1794-95、1800-1801、1811-1812、1817-1818年にピークをむかえる凶作のせいで、貧民救済は主要な公衆の関心を引いた。1795年5月にバークシャーの判事たちが開始したスピーナムランド・システムは労働可能貧民に所得補助を与えた。その規準は家族の規模とパンの市場価格であった。凶作の際にはそれ以前から地方では採用されていたから、この方式は目新しいものではなかった。また、しばしば非難されてきたように、全国的なシステムにはならなかった。各教区はそれぞれの救済の方式を採っていたし、救済に用いる独自の地方税を課していた。賃金補助システムはバークシャーの州と類似した社会、経済状況であった南部農業地帯に主に広まっていた。他の救済のやり方には、サブスクリプションによるカウンティー・ファンドの創設や、教区のスープ・キッチンの創設、援助食糧の販売、市民農園(allotment garden)の提供、新参の居住者の請求権獲得を規制するセツルメント法の停止があった(Horn,1980a,pp.102-3)。1800年にマンチェスターのスープ・チャリティは1週間で1万2千クォートのスープを配給した。同年、フレンドリー・ソサイエティ連合は再販売のための食糧を補助付きの価格で買い上げた(Bohstedt,1983,p.91-9)。

1795年12月8日フックス派のホイットブレッドは最低賃金法案を議会に提出した。それはその地域の治安判事に賃金を固定する権限を与えるという内容であった。法案は貧民に対する治安判事の義務を思い起こさせるものであった。価格と賃金の規制は1660年以降、次第に消滅していった。ホィットブレッド法案は18世紀後半に勢力を持っていた貧民に対する人道主義を示していた(Coats,1960-1; Poynter,1969,ch.1-2; Eastwood,1994a,pp.101-7)。しかし、賃金を市場価格を上回せたとしても、消費が増加し、価格が上昇し、穀物ストックの枯渇を早めるだけだとするレッセ・フェールのコーラスに、この法案は敗れてしまった。バークの『穀物不足』(1795)によれば、足かせのない市場はやがて合理的な水準に穀物価格を戻し、不足は希少な食物の消費と個人的チャリティーを減らすことで解消されるであろう。

分配的正義はジャコビニズムの一形態であると主張していたために、バークはレッセ・フェールに従っていた。なぜならば、商業の法則は自然の法則であり、その結果、神の法則であると信じていたからである(1981-97,ix,pp.119-45)。1795年11月までに飢餓と暴動を恐れてピットは、ホィットブレッド法案に反対する演説の中で救貧法改正について言及した。「賃金と価格はそれ自体で決まるようにすべきである」という主張にもかかわらず、ピットは1795年の秋に国内の穀物ストックを増加させる輸入補助金を考えていた。この政策は1796年、1799-1801年に実行された。1790年の後半を通じて政府は分裂していた。一方は市場への干渉の賢明さを主張した。ここにはグレンヴィルとポートランドがいた。他方には自由貿易派がいた。最終的にはピットもここに入る。最初のうちは穀物の価格と供給に対する補助金についてはいやいやながらではあったけれども、ピットは1795年6月までには、暴騰する価格を抑えるためには短期の例外的な手段が必要であると結論を出した。長い目で見れば、より効率的で人道的な救貧法の管理があれば、食糧危機の再発を防げるとピットは考えていた。

貧民の境遇を改善するための1796年法案を、こうした観点から議員たちが受け止めることはなかったので、1797年初めに庶民院のアジェンダから退けられた。包括的な視野を持っていたけれども、法案はひどいドラフトで、財政の裏づけも欠いた急ごしらえのものであった。市場原理への部分的なこだわりは、地方の平均賃金と穀物の市場価格との間の差異によって決定する教区単位のスライディング・スケール賃金支払いというピットの院外給付に基礎を与えようとしたものである。ピットの庶民院での演説によれば、「このメカニズム労働の価格に任意の規制をかけるものである。それはそれ自身の水準に到達するように、慎重に置かれるであろう。」ピットは聖職者への報告を義務付けた教会委員と救貧法施行委員(guardians)による煩雑な管理機構を持つ旧救貧法に付加しようとしたのである。ワークハウスは職業訓練を施すことで「インダストリーのハウス」になるはずであった。1799年から1800年にかけて、ピットはこの法案を復活させようとしたけれども、賃金の上昇だけで不足の問題を解決できるとは考えていなかった。公正な賃金による教区からの雇用、穀価に応じて計算された賃金補助、児童扶養補助、牛購入に対する教区の貸付といった権利も労働可能貧民に与えられることになっていた。高齢者の年金は教区税と労働者の寄付によって賄われる教区ファンド(Parochial Fund)からし払われることになっていた。もっとも異論があったのは浮浪貧民に対する強制的な救済を、彼らの出身教区によって弁済させるというものに対してであった(Fortescue,1892-1927,vi,pp.357-8; Derry,1981,pp.132-3; Poynter,1969,p.62-76; Henriques,1979,pp.19-21; Ehrman,1983,pp.471-6)。

ピットの計画は旧救貧法の最悪の特徴に対する攻撃と人道主義とを結びつけた。つまり、ワークハウス管理の問題と非居住貧民の救済との結合である。下層階級への商業ウィッグ王党主義の浸透は教区ファンドと貸付の提案に見られるように法案の重要な柱の一つであった。強制的な年金計画は1780年代から論争点となっていた。1793年ジョージ・ローズの友愛協会法は労働者クラブの形成を促した。1793年から1802年にかけて、9672の友愛協会がローズ法の下で登録された。そのメンバー数はイングランドの人口の8パーセントにあたる(Gosden,1961,1973; Rule,1986,pp.165-6)。教区ファンドは貧民の間に貯蓄の習慣を生み出すことを意図していた。30ポンド以下の不動産所有者が救済権を失うことがないことをピットはさらに明記した。商業社会では社会的、経済的な不平等が避けがたい。しかし、財産がない者はカウ・マネー・ローン方式によって家畜を得ることが促された。セフル・ヘルプはきわめて曖昧だった。ピットの計画は、そのコストから、あるいは政府の権力の拡張として嫌われた、教区のビジターに対する実施責任から、あるいは提案の実施可能性から反対された。最も問題とされたのが、カウ・マネー、高齢者年金、職業訓練学校であった。庶民院では法案が撤回されたけれども、議員たちはそれが推奨しているスピーナムランド式の院外給付に敵意を抱くことはなかった。議員たちの多くは教区で治安判事としてパンや家族手当を与える仕事をしていたからである。

旧救貧法に根本的で支出のかさむ変化をもたらす実験に議会は乗る気ではなかった。しかし、それはイギリス人の食生活に変化をもたらすきっかけとなった。「貧民により良い生活資料を与え、ブレッド・コーンの消費を削減するための法案」として知られている1800年のブラウン・ブレッド法によって、イギリス人は小麦の代替品を消費することになった。代替品は燕麦、大麦から魚の干物にまでおよんだ。これらの品は南部とミッドランドの多くで労働者階級のレスペクタビリティのステータス・シンボルとして機能していた白いパンに代わるものであった。1795年に治安判事はパンの質と価格を規制する法定価格(Assize of Bread)を採用し始めた。それは1799年から1800年にも復活した。このような市場の規制はパン屋と粉屋に不人気であった(Stern,1964; Wells,1968,pp.62-3; Eastwood,1994a,pp.45-6)。1795年12月9日、両院ともに議員たちに3分の1以上小麦以外の粉を用いたパンを消費することを約束させた。教区委員、慈善組織、SBCPは燕麦、大麦、とうもろこし、米、ジャガイモが代替品であると申し立てた。イーデンが『貧民の状態』で肯定的に述べているように、北部の貧民は食事の点で南部ほど流行に左右されなかった。南部の貧民の白いパンと茶へのこだわりを浪費的な習慣として描いた。「ブラウン・ジョージ」を貧民たちは嫌った。彼らの偏見はアイルランドの食糧であるジャガイモにまで及んだ。人々の反感を認識した議会は、1800年に混合パンの強制使用を放棄した(Wells,1988,ch.13)。

旧救貧法と手当てシステムは1800年以降、厳しく非難された。1834年救貧法改正委員会報告はこれらを劣等処遇原則をで置き換えることになる。賃金補填は農業賃金を引下げ、貧民を教区に依存させるものとしてしばしば非難されてきた。しかし、賃金補填それ自体には、こうした非難はあてはまらない。手当てシステムを導入していた農業地帯の教区では、囲い込み、農業における労働量の低下、それと結びついた独立小屋済み農の減少、賃労働の創出が1760年以降生じていた。1790年まで農村の家族は失業というよりも不完全就業に悩まされていた。賃金補助は所得を引き上げる有効な方法であった。ロンドンとイングランド南部の農業賃金は1760以来、低下していた。手当て制度の導入はこの傾向を抑えていたことになる。実質賃金は低下も上昇もしなかったからである(Blaug,1963,p.148; 1964,p.243)。

そのうえ、手当て制度が旧来の貧民救済にとってかわることはなく、両者は並存した。就労創出計画(make-work scheme)、臨時現金支払い(occasional cash payment)、ラウンズマン・システム(roundsman billet system; roundsman system と同じ)、労働税(labor rates)は1795年から1820年にかけて採用されていた[小山路男『イギリス救貧法試論』191頁参照]。靴、埋葬、服などの物あるいは貨幣での臨時の施しは1795年と1800-01年に減少し、1815年までにはこれらの施しは全てなくなった。労働税は最低賃金と実質的に等しかった。教区によって貧民を就労させるラウンズマン・システムは教区全体で低賃金を標準化させることになった。両システムが想定していたのは、短期的な賃金の不足やラウンズマンの賃金の不足を教区が埋め合わせるということであった。カウンティや貧民への寄付によって貨幣も集められた。SBCPのような団体はあらゆる方法で農業を自足させる計画を実行するためにエネルギーと時間を注ぎ込んだ(Barnett,1967,pp.169-170)。教区会(vestry)は理屈の上では自足的な貧民に関わっていた。しかし、多くの教区で貧民は、部分的には臨時の施しや手当て制度を通じて、生存賃金のために教区に依存していた。農業地帯では村の人口の4分の1から半分が救済に依存していた。1802年秋は平年並みの収穫であったので救貧法は政治的な課題として重要ではなかった。しかし、経済の再生とイギリス農業の将来についての論争以来、救貧法は焦点となっていた。

戦争の終結までに貧民たちは同情の対象ではなく問題と見なされるようになる。旧救貧法に対する擁護者はほとんどいなくなった(Poynter,1969,ch.6; Eastwood,1994a,pp.114-17,121,133-40)。マルサスは『人口論』第2版の中で、奔放な生殖を刺激するものとして救貧法全体を最初に批判した。1790年代と1800年代はじめに教養あるイギリス人を捉えていた飢餓の恐怖を無視しては、『人口論』のインパクトやアピールを理解することはできない。1790年代後半を通じて、アーサー・ヤングから農業委員会の議長であったシンクレア(Sir John Sinclair)といった権威によって囲い込みが推奨されていた。それは穀物不足の解決策と考えられていた。イギリスの最初の一般的な囲い込み法案は1801年に通過することになる。マルサスは農業投資を要請していたけれども、囲い込みを収穫逓減法則の具体例と見なしていた。耕作の改良だけでは需要と供給のバランスをとるのに不十分であると考えていたからである。道徳的抑制が啓発された自愛を促すとされた。こうした理由からマルサスは貯蓄銀行、フレンドリ・ソサイエティ、他の自発的な自足計画の強烈な提唱者であった。強制的な失業保険やその他のコミュニタリアン的な扶助計画では貧民の自立心を促さないとマルサスは考えていた。救貧法は依存文化、賃金抑圧を生み出し、有効な雇用創出を行えないと見なされたのである(EP,Winch ed.,75-80,98-110)。

救貧法廃止論者や道徳的改革家によってしばしば引用されていたが、貧困や救貧法に対するマルサスの立場は彼らのものと同じではない。貧民が生まれつき不道徳であるとか、制度的な貧民救済が全く役に立たないとマルサスは考えていなかった。1796、1799-1801年の賃金補助を例外とすれば、数多くの短期的な方策を是認している。『人口論』第3版では、「ことの性質からみとめられるべきときには、人道と真の政策は我々が貧民にあらゆる援助を与えるべきことを必要としている」(Winch ed.p.99(EP3,2,p.169); Wrigley,1988,p.821)。マルサスは1815年まではエジンバラ・レビューから、その後はクォータリー・レビュー、教区委員の多く、貧民監督官、教区民代表、治安判事から支持を受けていた。教区委員や治安判事たちは、冷淡で利己的で不十分な貧民管理という非難を払いのけていた。教区委員、貧民監督官、教区民代表は小作人、雇用者、地方税支払い者であったが富裕ではなかった。彼らは貧民の必要をよく理解しており、救済の有効性と正当性に注意を払っていた。貧民と治安判事との直接的な関係についてはよく分かっていない。しかし、彼らが1790年代に救済を規制しているセツルメント法と放浪者法とを自発的に停止していたことを示唆する証拠がある(Snell,1985,pp.104-7; Landau,1990,1991; Rule,1992b,pp.119-20; Eastwood,1994a,p.26,34)。1793年に旧救貧法のせいでイングランドとウェルズで260万ポンドが費やされていた。1812年までにその数字は1200万ポンドになっていた。地方税負担者たちは救貧法を経済的負担と見なしていた。しかしながら、1800年代には費用は主要な問題とはなっていなかったように思われる。1803年だけで600万ポンドが支出されたという事実にもかかわらず1804年の救貧法センサスは改革を要求する多量のパンフレット類を生み出すことはなかった。1807年にホィットブレッドが救貧法を取り上げた時に、同僚の議員たちが救貧法にあまり関心を抱いていなかったと証言している(Poynter,1969,p.pp.187-95; Rule,1992b,p.128; Eastwood,1994a,pp.155-6)。

ホィットブレッド法案は三つの独立した法案として提出された。救貧基金法は国立の保険制度と貧民のための貯蓄銀行の創設案であり、保険制度は救貧税と寄付からなっていた。セツルメントと救済法案は富裕な地方税納付者の手中に教区民投票権を集中させようとするものであった。そして非居住貧民への救済の弁済を許可するようにセツルメント法を緩和させるものであった。教育法案は教区に初等学校の建設の義務を負わせるものであった。教育法案だけが庶民院を通過したが、ベル・ランカスター論争に巻き込まれて貴族院では拒否された。ホィットブレッドの試みは失敗したが、救貧法と地方政府に対する態度の顕著な変化がはじまったことを明らかにした。教区委員の改革と国家監督の権威に対する要求が1810年代に増していった。それは地方政府の運営が素人には複雑になりすぎてきたことを意味していた。1796年のピット法案が廃案となった一因は、外部の当局者に教区の運営を説明する責任があったことによる。1800年以降、調査、監督、指導を行う「国立」制度の創設はSBCPのトーマス・バーナードのような人物からコーホーンまでますます多くの人間が主張するようになっていた。貧困に関して1798年から1815年の間に公刊されたもっとも重要な著作がコーホーンの『困窮論』(1806)である。そこでは、困窮が犯罪を引き起こすと述べられていた。コーホーンは困窮を雇用によって十分な生活を送れないことと単純に定義していた。犯罪と困窮を防ぐことを政府の自然的義務と見なしていたので、犯罪と貧困についての情報収集を行うための「ポーパーと一般的治安委員会」の設立を提案していた。ベンサムから大きな影響を受けていたコーホーンは国立の教育委員会、国立の預金銀行、エールハウス認可システムの創設も主張していた。コーホーンは職業警察官を提唱した初期の人物とされている。また彼の著作は、大衆の関心を集権化されていない地方政府から専門的な公的行政へと向けさせるのに貢献した。

4−4 宗教と社会